短編12.忘れじ丘の野いちご

ぼくの名前はおおかみだ。

少し前まで知らなかった。

それを知ったのは、僕が野いちご狩りに行った日のことだった。


ぼくは丘に出て遊ぶのが好きだ。

おうちの近くにある、小高い丘。お父さんとお母さんの来ない、綺麗な丘。

初夏になると野いちごが、花を咲かせて実をつけて、緑白赤のコントラストが、すごくすごく綺麗なのだ。

だからその日も、ぼくは丘にいた。

ちょうどいちご狩りの季節だった。

普段は誰もいないそこに、お母さんと喧嘩したぼくは逃げてきた。

「何が『夜は出歩いちゃいけません』なんだよ。ぼくだって大人なのに」

大人達はずるい、いつもぼくだけ置いて夜にお出かけする。

ぼくだけずっと、昼しかお外に出られない。

膨らむほっぺにむっとしながら、ぼくは木陰に座り込んだ。

ご飯と違ってお腹にたまらないけど、朝ごはんも食べてないからいいか。

そんなことを思いながら、野いちごをつまんで頬張って、僕はぐっすり眠ったのだ。


むにむにとほっぺたをつつかれた。

「ううー……お父さん……?」

ぼーっとしてて、よく事態がわかってなくて。

ぼくは目をこすりながら顔を上げて、初めて目の前の人を見た。

キラキラの目。細い手足。薄い体。夜空みたいに、ちらちらと瞬いて光る、真っ黒い髪。

可愛い女の子がそこにいた。

「……へ?」

「あ、ごめんね、起こしちゃった」

ぽかんとするぼくに、女の子は、夕焼け空を背景にしてニコニコ笑っていた。

……あれ、ぼくはどうしたのだっけ。

ちょっと考えて、首をかしげて、はっと思い出す。

「あれ、きみ……だあれ?」

ぼくはお母さんと喧嘩して、そしてここに来たのだ。

こんな女の子、ぼくの家の近くに住んでない。と思う。

ぼくはあんまり街の方に出してもらえないから知らないけど。

「わたし?……ふふ、こういう時、まずは男の人から名前を名乗るものじゃない?小さなジェントルマン」

くすくすくす。女の子は笑う。

とてもとてもおかしそうだった。なんでか胸がぎゅっとした。

「あれ、そうなんだ」

ぼくはそんなことを全然知らない。確かに物語の中の王子様は、先にお姫様に名乗るのかもしれない。わかんないけど。

「えーと、ぼくはね」

名前を名乗ろうとして、はたと止まった。

「……なんだっけ?」

ぼくはよくアルムと呼ばれるから、それが名前のはずで。

でも、どうしてかしっくりこなかった。

これはぼくの名前じゃないのだ。

ざわざわとする胸騒ぎと共に、ぼくはそういう確信を持っていた。

だから、ぼくはため息をついて言ったのだ。

「名前、忘れちゃった」


女の子は目を見開いて、それからケラケラと笑った。

胸がづきんと傷んで、きゅうっと締まったような、どきどきするような、変な感じがした。

「あはは、それなら仕方ないわね」

女の子はお腹を抱えて笑って、ぼくの隣にストンと座った。

「もうすぐ月が登るから、それまで待ちましょう」

「月?」

僕が問いかけると、女の子はきょとんとする。

「知らないの?この丘の名前」

……名前なんてあったのか。こんな所に。

ぼくが首を振ると、女の子は語り出す。もう空は紫に染まっていた。

「ここはね、忘れじ丘って言うの。夜にここの野いちごを食べるとね、その人は忘れ物を思い出すのよ」

「へえー」

そんなものがあったんだ。

ぼくはさっぱり知らなかった。この子の周りの子の知ってる話なのかな。


「だから、夜まで待ってみましょう。きっと思い出せるわ」

のんびりと言う女の子。夜の闇に溶けてしまいそうに黒い髪。細い体。

ぼくは思わず尋ねた。

「帰らなくていいの?」

ぼくの嘘つき。帰って欲しくなんかないくせに。ずっとここにいて欲しいくせに。

……なんで、ずっとここにいて欲しいんだろう?

「いいのよ。あなたに会うためにここに来たんだもの」

女の子は笑う。どんどん暗くなる夜の中、その目が反射する光がなくなるのが悲しかった。


やがて、月の白い光が、山の隙間から見え始めた。

「ほうら、もうすぐよ」

女の子の白い手が、白い光の向こうを指さした。

爛々と輝く満月がそこにあった。

ぞわぞわぞわと、ぼくの背筋をなにかが走っていく。

ぼくは何を忘れたのだろう。

ぼくは何を失くしたのだろう。

ぼくはこの子に、何を思ったのだろう。

忘れじの丘の野いちごなら、それを教えてくれるかな。

「さ、食べましょ」

登りきった月。隣で野いちごを摘む君。ぞわぞわと僕の内側で鳴く____衝動。


あ、そうか思い出した。

やってなかった家事を思い出すような、そんな気軽さで。

ぼくはぼくの名前を____ううん、ぼくの正体を、思い出した。

「ああ、もう思い出したのね」

振り返った女の子がニコリと笑った。ぼくの体は、内側からばきばきと、嫌な音を立てて変わっていく。

「そうかぁ____ぼく、おおかみだったのか」

答えは至極単純で。

ぼくは狼男だったらしかった。

夜に出歩いたらダメなのは、ぼくの正体にぼくが気づかないため。

ぞわぞわと走る違和感は、ぼくが狼になる前兆。

そして、細っこいきみを、優しく笑うきみを。

こんな汚い腕で、大きな爪で、抱きしめたくて仕方ないのは。

ぼくが、きみを好きだからか。


「いいのよ。おいで」

女の子は全部知ってるように、ぼくに向けて両腕を差し向けて。

お母さんがぼくにそうするように、抱きしめるように手を伸ばす。

「やだ、やだ、壊しちゃうよ」

きっとこの爪は、きみの腕をずたずたにするだろう。

きっとこの牙は、きみの顔をぐちゃぐちゃにするだろう。

それでも、なんで、ああなんで。

きみはそんな顔で笑うんだ。

「わたしね。ベリーっていうの」

女の子は言った。いちごみたいな____血色のいい頬を、月の光に晒してみせて。

「町はずれのおおかみの、生贄になるために育てられたのよ」

だからいいの、と女の子は笑う。

ぼくはいやいやと首を振る。

ああ、嘘つき、ぼくの嘘つき。

ほんとうは、ほんとうは。

いとしいきみを____呪われたように、恋したきみを、抱きしめたくて仕方が無いのに。

「もう、こういうのは男の人から言うものでしょ」

女の子は、笑う。ぼくの野いちごは、とてもとても、いとしそうに笑った。

「愛しているわ、わたしのおおかみさん」

抱きしめた体は暖かかった。

「ぼくもあいしてる。ぼくのかわいい、野いちごさん」


ぼくの手の中で、野いちごはぐしゃりと潰れた。

顔を上げれば、きみの髪と同じに、キラキラと光を瞬かせる、真っ黒い星空があった。

煌々と輝く満月は、きみの銀の瞳と、よく似ていた。

ぼくは泣き叫ぶ。

ぼくは泣き叫ぶ。

ぼくは泣き叫ぶ。

ぼくの名前は、おおかみだったのだ。

ほんとうは、ぼくは。

きみの王子様に、なりたかったのに。

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白昼夢 ティー @Tea0617

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