短編9:黒鉄の少年
悪い魔女がいたんだ。
上手く機嫌を取らなければ、ご飯も与えず、僕らを殴り、蹴り、鉈を振り回す、悪い魔女がいたんだよ。
あの日は何で怒らせたんだっけ。わからない。仏頂面の僕は、機嫌を取るのが下手だったから、まあ仕方ないんだろう。
魔女はその日も怒って、僕に馬乗りになって、大鉈を振り下ろして、僕の左腕を、切り落としてしまったんだ。
血がドバドバ出て、なんだか痛いような気がして、死ぬんだろうなぁって思って。
けれど、地べたに転がった、赤いボロ雑巾みたいな僕の前に、女の子が来たんだ。
華奢で綺麗な女の子。灰色の髪に淡い青の目が印象的な女の子。白いエプロンドレスをそのまんま、膝をついて。
ばしゃん。どんどんドレスが染まっても、あの子は何も言わなくて。
ただ涙を流しながら、僕の腕の切り口を押さえたんだ。
ぐしゃぐしゃの顔で、小さな両手を真っ赤にしながら、ただ押さえたんだ。
落ちる涙は暖かいのに、僕の体は冷たくて。
その後、僕は死んだのかな。
分からない。分からない。分からない。分からない。
分からないんだ。
けれど、ああ。
僕の前でがらくた山に座った君が、あまりに似すぎていたから____。
「……あ?目ぇ覚ましたのか
体を起こした僕にかけられた第一声は、いけ好かない男の声だった。
男?違う。少年。僕と同じくらいの男の子だ。白い髪と黒い髪のしましま模様。にやにやと意地汚く笑う口。
そして、
周りの空と全く同じ。……夕焼け色の、猫目。
「君は誰」
僕は問う。動揺を悟られないように、警戒の姿勢を相手に見せつけながら。
記憶にもない男の子。周りを見渡しても、見たことのない夕焼け空と、コンクリートの床を取り囲むフェンスだけ。
昔聞いたことのある、屋上というやつだろうか。
どちらにせよ、知らない場所で知らない人の前で、知らない状況で僕は目を覚ましたらしかった。
「俺かぁ?俺はタイガってんだ。ここの姫様のたった一人のナイト様ってな!ま、この先よろしく頼むぜ」
げらげらげら。がらがら。
猫目の少年は、小生意気な笑顔でそう言った。
「……姫様?」
「そそ。自分を削り落としながら理想をうずたかく積み上げては、体の痛みから目を逸らす。壊れきった心を積み上げた上にずーっと座ってる、がらくた山のお姫様さ」
首をかしげて尋ねれば、タイガはおどけて囁いた。
何を言っているのかさっぱりわからない。この少年はどうにも、気が狂っているらしかった。
だとすれば彼が『姫様』と呼ぶそれも、気が狂っているのだろうなぁと、僕はぼんやりと思う。
ああ、面倒だ。
気の狂った女の人の相手は、魔女で精一杯だったっていうのに。
「んで、男女。お前は一体____いや、やめとこう」
僕の一つ結びを見て、魔女に似た顔立ちを見て、何者なのか、と問おうとしたであろうタイガは言葉を止める。
けれど僕の思考は、くるくるくるりと回り始めた。
そういえば、僕はなんという名前だったか。僕はどういう者だったのか。どうしてここにいるのだろうか。
……全て、真っ白だった。
何も、何も思い浮かばなかった。頭の端に問いかけても無反応。
ただ覚えているのは、左腕を切り落とそうとする魔女の、耳を劈く叫び声。左肩からたくさん出ていった、血の色。そして、僕を見て泣いた、女の子の涙の暖かさ。それだけで。
ああそうだ、今の今まで考えていなかった。僕の左腕は、いったいどうなったんだっけ。思わず握りしめた左手が、ガシャリと鳴る。
ちらりと見た僕の左腕は、異形だった。
その場にあったがらくたを繋ぎ合わせたような、ぎらぎらと鈍く光る、黒鉄。
所々にコードが飛び出して。節々はギイギイと音を立てて。ちらりと歯車が見えて。指はゴツゴツと四角くて。
「……あ」
不思議と、あまり驚かなかった。違和感もなかった。ああそういうものか、とあっさり、事実は胸に落ちてきた。
腕は問題なく動く。右手で触っても、左腕には感覚こそないものの、動かそうと意識すれば簡単に動かせた。
「その腕。どうしたんだ」
じっと左腕を見る僕に、タイガが首を傾げていた。
僕は答える。胸に落ちてきた事実と、それに応じて湧き上がった、不思議な確信を。
「女の子に、作ってもらったんだ」
「……女の子ォ?」
唖然とした顔すら目障りな、別の方向への感嘆すら抱けそうな顔をしてみせるタイガに、僕は続ける。
「悪い魔女に切り落とされたんだ。その後女の子が直してくれた」
「……はぁ」
ぽかん。そんな擬音が似合いそうな、馬鹿そのものの顔でタイガは声を漏らす。
僕はそれ以上何も言わない。言えるほど覚えていないから。
腕の切れた僕を見て泣いた、綺麗な女の子。
あの子がくれた腕だ。あの子が直してくれた腕だ。
そういう、不思議な確信が。僕の胸の中に、しっかりと根付いていた。
どうしてかはわからない。けれどただ、とても大切で、決意のこもったもので。
この左腕は何かを成すためだけに作られたのだという、静かな存在定義が、胸の内に芽生えていた。
「まあいいや。ひとまず、お前もあんまり覚えてねえんだろ?俺達の姫様に会って来い。それで全部わかるさ」
何も言わない僕に、タイガはそれ以上追求せずに、特に動揺した様子もなく、そう言った。
「僕が何も知らないって、どうして分かる」
僕は問いかけた。
そもそも、『俺達の』姫様、と呼ぶ意味がわからない。更に姫様って誰で、どこにいるのかもわからない。
なのに会って来いと、タイガはあっさり言う。
何が何だかさっぱりだ。全くもってわからない。理解の一切が追い付かない。
そんな僕の顔を見て、はぁ、とタイガはため息をつく。その顔はどこか得意げだ。
「そりゃまあ、俺も同じだったからな。ずーっと昔だけど。もう9年も前だなぁ。まーいいか」
くあぁ、と眠気を堪える猫みたいに欠伸をしてから、タイガは不敵に笑った。
どうしてか、どうしてだか。
何もかも任せても、安心できるような、小憎たらしい顔で。
「姫様に会って来い。可愛く綺麗で気高く優しい、俺達の理想像。脆く儚くその心を削る、俺達の中の最高傑作に」
すう、とタイガの指が夕焼けを指さして。途端、僕の意識が闇に落ちる。
「空に、会ってこい」
その言葉だけが、ひどく優しく、耳の内側を揺らしていた。
「ッ、ぅう、ぐす、っ」
次に目を覚ましたのは、少女のすすり泣く声で、だった。
高い声。必死に押し殺すような、唇でも噛んでいそうな、泣き声だった。
目を開ければ、周りは一面、ぼろぼろの石壁だった。木々の枯れかけた庭を、崩れかけの石壁が四角く覆っている。
そこに、がらくたの山があった。
積み上げられているものは様々だ。ガラスの欠片、ぐしゃぐしゃの紙束、折れた木材。僕の左腕を作っているような、鉄屑も。
けれど一つだけ不釣り合いな物が、いや者が積み上げられていた。
あるいは彼女は、自分の意思でそこに座り続けているのかも、しれなかった。
がらくたで切ったらしい、小さな傷がたくさんある、華奢な脚。裸足の爪は幾つか割れている。
埃をかぶり、薄汚れ、端の破れた、真っ白いワンピース。どこかで赤く濡れていた、白いエプロンドレスと被った。
夜の空のような濃紺の、長い髪。彼女の腰まであるだろうか。
脚と同じようにぼろぼろの手。それも華奢で、僕の左手でひねればあっさりと折れそうだった。
子供のような顔。今はぐしゃぐしゃに涙で濡れていて、それでも彼女は歯を食いしばって、大きな泣き声を上げることはなく。
小さな頭の上には、手のひらサイズの王冠が。瓶の王冠をそのまま持ってきたような、奇妙なデザイン。
それすらも、所々が欠けて曲がって、もう王冠としての体裁すら保っていなかった。
ああ、この子が。この子が、タイガの言う、『姫様』か。
その出で立ちから、僕は何となくそう思った。いや、或いはそれを、僕は初めから知っていたのかもしれない。
だってそれは、僕がただ思っただけにしては、あまりに頭に鮮明に刻まれすぎていて。
僕は『姫様』の前に、佇んでいたのだった。
「……あれ」
周囲を把握し終えた僕に気づいたように、彼女が顔を上げる。
垂れた大きな瞳は、泣きはらした瞳は__薄青だった。
ざざ、ざ。僕の思考にノイズが走る。涙を溜めた淡い青の瞳が脳裏をよぎる。
__助けてくれた、女の子。僕のために泣いた、女の子。
涙はひどく暖かくて。けれど僕の体は冷たくなっていって。
緩やかに確信した。あそこで僕は、確かに死んだはずだった。
それでも今、あの子と、この腕をくれた子と、とてもよく似た女の子の前にいる。
「君は、誰?」
僕がタイガに問うたのと、同じことを彼女は問う。
ああ、そうか。その場で僕は、この左腕の意味を理解した。
ひどく確かな理解だった。だからきっと、これだって、生まれる前から知っていたことなんだろう。
それが存在定義だから。これが存在証明だから。
魔女に腕を落とされなくても、あの子が僕のために泣かなくても、僕はきっとこうなっていた。
それはきっと。僕が、僕であるための言葉だから。
きっと、この腕は、この心は、この体は、僕という存在は__。
「僕は、防衛機構」
君を守るために、作られたんだ。
「防衛、機構?」
少女は、『姫様』は首を傾げた。
それもそうか。こんな言葉を言われたって、何が何だかわからないだろう。
けれど、僕はそれ以上の言葉を持たなかった。
だってここまで来ても、僕の名前はわからない。
一体何者だったのか。どういう経緯でここに来たのか。
ただ僕の存在が、護衛役とか、用心棒とか、そういう言葉で形容されないことだけはわかっていた。
僕に僕個人の意思はない。僕に僕個人の感情はない。そんなもの、生身の左腕と一緒に置いてきた。
ただ己の存在定義を果たすためだけの、能力と意志と感情。他の物はすべて必要ない。
余計なものまで掴んでいたら、たった一つすら守れない。
そんなことはわかりきっていた。だって僕の手は二つしかないんだから。
だから余計なものは必要ない。そう言いかけたとき、涙で濡れた瞳を無理くり歪めて、彼女は笑った。
「そっか。君、名前がわからないのかな?」
何も言っていないのに、彼女はそう尋ねた。
どうしてそう分かっているのか。知っているのか。疑問の湧き続ける頭を、僕は縦に振ることしか出来なかった。
タイガが言っていた、『自分もそうだった』という言葉が脳裏をよぎる。
ひょっとしたら、彼女も僕に、タイガを投影しているのだろうか。
僕が彼女に、助けてくれた女の子を、重ねているように。
「うーん……それじゃあ、どうしよっか。防衛機構。ガーディアン……かなぁ」
顎に人差し指を当てて、真っ赤に泣き腫らした目を伏せて、彼女は何事か考えていた。
さっきまで泣いていたことなんて、微塵も感じさせないほど。
そうして彼女は、ぽんと手を叩く。
すうっ。白くて細い人差し指が、僕を指して。
薄青の瞳が、微笑んだ。
「イアン。君の名前は、イアンだ」
「……いあ、ん?」
思わず反芻する。
彼女がさっきまで考えていたのは、自分の泣いている理由すら放り出して考えていたのは、僕の名前なのか。
悪い魔女に殺されて、優しい女の子を泣かせて、そしてがらくたを寄せ集めて直されたような、僕の名前。
泣いていたことすら放り出して、今さっき目の前に現れた人の名前を考えられる、そんな子なのか。
そんなに優しくて暖かい子がくれたのが、この名前、なのか。
「うん。イアン。ガーディアンから、イアン君」
安直すぎるかな、と彼女は眉を少し下げて笑う。
その顔が、その優しさが。
やっぱりあの時泣いてくれた女の子と、よく似ていて。似すぎていて。
「__僕は、イアン」
名乗ってみれば、ひどく口に耳に馴染んだ。
胸の内に、冷えきっていた死骸の胸に、僅かに暖かさが灯った、ような気がした。
……ああ。やっぱり。
「君を守るために、ここに来たんだ」
湧き上がった言葉を告げると、泣きそうな顔で笑ってみせた彼女。
その姿が、あまりに脆くて儚くて、綺麗すぎたから。
僕はタイガから聞いた、その前に知っていたかもしれない、彼女の名前を、呼ぶ。
「僕はずっとそばに居るよ、空」
彼女は、僕達の『姫様』__空は、涙を零して、笑った。
「……これからよろしくね、イアン君」
黒鉄の寄せ集め、がらくた山の中のがらくた。
それが僕だ。
だから、がらくた山の主には、こう答えるのが、正しい。
「よろしく。僕らの、お姫様」
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