短編8:ほうき星

 人の世はかくも生きづらい。

 あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればそちらが立たず。

 数多の力に押し込められて、重箱の角に追いやられて、息も絶え絶え生きている。

 絆を鎖と詠んだ人もいたけれど、其れは鎖のように易しく、わたしを抱きしめてはくれないのだ。


 息を続ける最中。道の片隅で、わたしは天を仰いだ。

 宙を見上げれば、子どもが青の水彩をべた塗りにしたように、その上に紙の屑をばらまいたように、稚拙で自由な蒼がある。

 墜ちてみようか。

 ふと、そう、誰かが言った気がした。

 わたしは足をとんと一つ、跳ねさせた。

 途端、わたしの体は物理学のしがらみを逃れた。

 ふわりふわふわ、ひらりひらひら。

 墜ちていく、文字どおり。道ゆく人の驚愕も、すうっと尾を引くように遠ざかる。

 世界から見れば、わたしは飛んでいるのだろうか?

 けれどわたしから見れば、わたしは墜ちているのだ。

 風を切り、世界から放り投げられ、ぽうんと、墜ちていく。

 蒼水彩を突っ切って、紙屑の群れが足元に来る。

 冷たくはなかった。息苦しくもなかった。

 全く世の中の人の信じていた物理学は、どこに行ってしまったのか?

 そんなもの重箱の角にすぎなくて、わたしはとっくのとうにその向こうに逝ってしまっていたのか。

 あるいは、世の中と人の方が、わたしを置いてどこかに逝ってしまったのだろうか。


 空を切る風の、頬を撫でる手にも飽きた頃。

 天井に広がっていた夜想曲のくたあんのびろうどが、わたしを包んだ。

 息は詰まらなかった。体は弾けなかった。

 人々が信じていた物理学だとかいうものは、やっぱり嘘っぱちだったらしい。

 海の中に沈むように、うっすらと暖かい宙がわたしを包んだ。

 夜の空をびろうどに例えた人がいたけれど、そちらの方が正解だったらしい。

 惜しむらくは、びろうどのように限りがないから、その人も本質を捉えていなかったことか。

 くいん、きらきら。からからから、きいきいきい。

 音を立てながら星々が昇っていく。わたしが墜ちているからだ。

 不思議と星にもデブリにもぶつかることはなかった。

 天の河の向こうに白く輝くかみさまの国が見えた。

 幾何学者が見たら卒倒しそうなオブジェの下で、人々が手を振っていた。

 ああもう天文学も幾何学もない。何もかも嘘っぱちだったのだ。

 人々の信じたものなんて結局全部嘘っぱちだったのだ。

 世界をその枠組みにはめ込んで、其れを見て世界を見た気になっていた。

 だからあんなにも息苦しくて息も絶え絶えだったのだ。

 きっとわたしの思考する世界も、語学や文学で枠取られたものに過ぎなくて。

 其れでも、綺麗だと思った。理解ができずとも、綺麗だと。

 何ものにもとらわれない世界。どんなものでも縛れない世界。

 しがらみを逃れた世界。

 ここがどこかはわからないし、わたしがいた場所もどこかわからないし、其れでも。

 きっとここは重箱の隅の向こう側。

 わたしが求めた、息も絶え絶えな生き方の、先にあるものなんだろう。


 やがて頭の方に、わずかな熱気を感じた。

 見上げれば、煌々と燃えるあんたれすの炎の中に埋もれた、大きな大きな鴉がいた。

 宵闇のような鴉の体を彩るように、其れこそ夜空に輝く星のように、点点と火が燃え映っていた。

 人々が蠍だと信じて疑わなかった天の星は、なんと鴉の体を燃やす炎だったのだ。

 炎は大きく、燃え尽きることもなく。鴉の体は灰になることもなく、燃え続ける。

「おれはもうずっとここで燃やされ続けている」

 朗々と、嘴を閉じたまま、鴉が語る。宇宙を落ちるわたしを見据えて。

 鴉の目は未だ爛々と輝いていた。どうしてこれが星に見えないのだろうと思った。

 強い、強い、意志の光。身を焼く炎にも劣らぬ、知性などでない、生命の陽。

「其れでも良いと思ったのだ。おれを焼く火が誰かの道を照らすなら」

 ふと下を見れば、もう足元を通り過ぎたかみさまの国を照らしているのはなるほど、あんたれすの炎だった。

 縁起が悪いとか言われる鴉が、かみさまの国の太陽なのだ。

 そう考えるとなんだかとても馬鹿馬鹿しかった。

「なあ、おまえは、これからどこにいく」

 其の言葉が頭の中を反響した。

 コレカラ、オマエハ、ドコニイク。

 __ああ、そうだ。

 気づいて目を凝らした。わたしを縛っていた青い蹴鞠はどこにも見えなかった。

 慌てて宇宙の上を見た。否、わたしはわたしの頭の上を見た。

 夜想曲のびろうどは、相も変わらず広がっていた。

 相も変わらずわたしは墜ちているのに、どこにも落ちる気配がなかった。

 もうあんたれすの炎も鴉も足元だ。誰もわたしを抱きしめてはくれなかった。


「墜ちていくのだ、おまえは。どこまでもどこまでも、誰にも何にも縛られず」

 鴉の言葉すらもう曖昧だった。

 ____ほうき星はこうやって生まれるのだろうか。

 薄れる意識と存在と世界の境界を感じて、ふと、思った。

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