短編7:猫とトパーズ
「っあー……疲れた……くそ、仕事増やしてくれちゃって……」
悪態をつきながら帰る、駅から自宅のマンションまでの徒歩5分。
疲れた足には、この道も長くて仕方ない。
合計4時間の残業。帰る頃には、もう月が高く登っている。
ああ綺麗だな、と見上げた矢先のことだった。
「……ァ、ニャァン」
そんな声を聞いた。
「……猫?」
声の聞こえた方を振り向く。そこには、小さな路地。
知っている。あそこには、確かごみ捨て場がある。
町の外れ、目につかない場所。臭い物に蓋をするように、打ち捨てられた場所。
まさか、ね?
嫌な予感がして、私はごみ捨て場の方に歩いていく。
ゴミに猫が寄って行っているだけ、ならいいのだけれど。
それならあんな声を上げるだろうか。
首をひねっていると、ふと、腐臭を嗅いだ。
むせかえるような、とにかく不快な匂い。
その中に、一つ。知っている匂いがあった。
「……ッ!」
血だ。
鉄臭い匂い。独特の匂い。24年生きてても、嗅ぎ慣れない匂い。
嫌な予感が、的中した。
不快感以上に、嫌な予感を否定したくて、思わずごみ捨て場に飛び込んだ。
「嘘……」
そこにいたのは。
薄汚れた黒猫だった。いや、黒猫だったもの、だった。
逆立って固まった毛。当然のように血で固まってしまっている。
冷たい体。弱々しい呼吸が痛々しかった。
そして、腹の辺りにある、大きな傷。内側にあるものが見えてしまっている、ような。
「ァ……ニャ、アァ」
もうほぼ動かないだろう喉で、それでも猫は鳴いていた。
何かを伝えるように。
「……あ、それ」
猫の首元には、場違いなほど、綺麗に輝く石があった。
小さな、鈴と見間違えそうな、黄色の石。
内側から光っているようにも見える。
猫は私が隣にしゃがむと、石を前足で転がした。
「くれるの?……って、そんなわけないか」
冗談交じりにそんなことを言った。一つの命が終わりかけているのに。
「でも、私にできること、もうないよね……」
この猫は多分、あと数分も持たないだろう。そのくらい傷は深かった。
病院に連れて行こうにも間に合わない。この近くに、動物病院なんてないんだから。
「ごめん、私には何もできないや。だからせめて……一人には、しないから」
つぶやいて、猫の頭を撫でた。猫は金の目を細めて、嬉しそうに鳴く。
悲しかった。
ただただ、どうしようもなく胸が痛かった。
胸が痛くて、涙が流れて、目眩が、して?
「へ?」
間抜けな声とともに私は地面に倒れこんだ。
わけもわからず、真っ暗になっていく視界を、受け入れるしかなかった。
……最後、私が見たのは。
「ニャァン」
ひと鳴きして起き上がったボロボロの猫が、私に向けて飛び込んでくるところ、だった。
ふと、意識が覚醒した。
目を開いてみたものは、真っ暗な部屋だった。
「……んー?」
私は思わず首をひねる。この場所にどこか見覚えがあったからだ。
ただ、良くは思い出せない。まあいいか、と諦めて起き上がる。
私はどうやら、狭い部屋のベッドに寝かされていたらしかった。
ひどく子供っぽい部屋だ。多くのぬいぐるみ、机、椅子、ランドセル。
机の上にはプリントやノート、鉛筆が放り出してある。
小学生の部屋か何かだろうか。そんなところに迷い込む理由が思いつかないのだけれど。
ぼうっとしていると、突然ドアが開いて女の子が飛び込んできた。
「……っ、ひっく」
女の子はどうやら泣いているようだった。
そのまま、彼女は私のいるベッドに飛び込んでくる。
「えっ、ちょっと待って」
なすすべもなく私は女の子を受け止めた。
嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
女の子はそこでようやく私の存在に気づいたようだった。
「……お姉さん、誰?」
顔を上げて尋ねる声に、敵意はなぜか、なかった。
「えっと……その辺を通りかかっただけの人、かな。うん」
どう説明したものか、わからずに笑ってごまかした。
それでも女の子は小さく頷いて、笑ってくれた。
近くから車の走り去る音がした。
「それで君……どうして泣いているの」
私が尋ねると、女の子は涙の滲んだ目をこすって目をそらす。
「お母さんが……わたしなんていらないって、言うから」
ハッとした。
そのセリフは、私も昔、よく言われていたから。
だとすれば、さっきの車の音は。
「……お母さん、出て行っちゃったの?」
女の子は私の言葉に、目を見開いてから、小さく頷く。
その目が涙で滲んだ。
……ああ、やはりそうか。
そういうことを言った後の親というのは、いつも子供を置いていくものだ。
少なくとも、私の時はそうだった。だからなんとなく、察しがついたのだ。
「わたしが悪いの。わたしが、お母さんが言うみたいないい子になれないのが」
女の子は言って顔を覆って首を振る。
その肩はまた、泣いている時と同じに震えだした。
「お母さん、わたしがお父さんに似てるのが嫌いって。いやだって。だからわたし、お母さんが言うみたいにいい子にしてなきゃ、嫌われちゃうから、だから」
ぼたぼたぼたぼた。
涙と声が落ちた。ひどく悲しい声だった。
「……君は、十分いい子だよ」
何も知らないのに、ただそれだけが漏れた。
驚いて顔を上げた女の子の頭を撫でる。涙をハンカチで拭って、彼女の右手をとった。
そこには、鉛筆を握り続けたであろうタコがあった。
「ずっと勉強してたんでしょう?ノートも出してあるもんね。頑張ったね」
彼女の手は、鉛筆で文字を書き続けた時と同じに、黒ずんでいる。
小さい子供ながら、必死に勉強していたのが伺える。
「でも、わたし、わすれものしちゃって、先生にもお母さんにも怒られて」
「だからなんだっていうの。次から頑張ればいいんだよ」
お父さんに似ているのが嫌い、と言われたのだったか。
きっと、両親が不仲なのだろう。うちと同じだ。
両親の間に板ばさみにされて、悲鳴も上げれなくて、ただただ2人の言い分を聞くしかない。
本当に、よく似ている。
「大丈夫。本当に、今までよく頑張ったね。だから」
私は、一番欲しかった言葉を知っている。
どうしようもなくて、辛くて苦しくて悲しくて、息ができなかった時に。
ただ一つだけ欲しかった言葉を知っている。
「……君は、ここにいてもいいんだよ」
言って抱きしめた途端、少女の体が光に包まれる。
彼女はそれを見ても驚くことなく、ただ私に向けて、涙交じりの声で笑うのだった。
「……ありがとう、お姉さん」
彼女は、それだけを残して私の腕の中から消えた。
それと同時に、部屋も光に包まれ始める。
「夢、だったの……?」
「違うさ」
思わず呟いた私に、ふと後ろから声がかかる。
振り向くと、そこには猫がいた。黒い、金色の瞳の猫だ。
……死にかけていた猫と、同じ猫だった。
ただその猫は、死にかけているわけでもなく、毅然と光の中に座っていた。
「俺が、お前の精神に干渉して過去の一片を見せた。だからあの子供は、昔のお前だ」
__ああ、道理で。
この部屋にも、女の子にも、その家庭環境にも、覚えがあると思った。
この部屋は私の部屋で、この家は私の家で、あの女の子は私なのだ。
そう思えば、納得できた。
「……過去を変えても未来は変わらない。その過去に応じた平行世界が増えるだけだ」
猫は、つまらなそうに呟いた。
「お前自身が救われることはない。一つの『もしも』が、生まれただけだ」
その目は、どうしてか悲しそうにも見えた。
「それを知っていてもお前は、あの子供を救ったか?」
「……うん」
頷いた。
それだけは、否定する気が起きなかった。
「どうして」
「私さ、あの子が自分だとかそうじゃないとかどうでもよかったんだ」
猫が目を見開いた、気がした。
私は笑う。
「ただ、笑って欲しかった。それだけだから」
それを聞いて、猫は目を閉じる。
「……そうかい」
つぶやいた猫の足元に、いつかも見た黄色の石が転がる。
光に満ちる部屋の中でもわかるほど、それは内側から暖かい光を放つ。
「持って行け。もう俺には必要ないものだ」
猫の言葉を聞いて、私は立ち上がってそれを拾う。
この猫にはもう会えない。
どうしてかそんな気がしたから。
「多分お前の先には、これからも苦難が立ちふさがる」
猫は、光で霞みながらもそう言った。
「それでもその心だけは、無くすなよ。人間」
__勿論。
その返事は、あの猫に聞こえていたのか、否か。
気づくと私は、あのゴミ捨て場に倒れていた。
起き上がっても猫の姿はそこにはない。
ただ、手の中に、丸くて綺麗な黄色の石があった。
「……夢じゃなかったのかな」
なんとなく、覚えているあの場所。
きっと夢ではなかったんだろう。いや、夢だとしても、私は大切なものをもらった気がする。
ただ、誰かに、純粋に、笑ってほしいと思うこと。
それだけは無くさないようにと。
きっと、それが私の、今ここにいる意味なんだろう。
一つため息をついて立ち上がる。
「……はは、さて。それじゃ明日も……仕事、頑張りますかね」
誰かに笑って欲しくて、この仕事も始めたはずだった。
それを、なんとなく思い出したから。
「ありがとね……猫さん。そして、私」
つぶやいて見上げた空の上。
月の向こうで、猫と昔の私が、見守っている気がした。
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