短編6:水が牙になった日

 その日、水が地面を抉った。

 覆って叩きつけて引きずって抉って全て奪い取る牙になった。

 この街はまっさらに戻った。僕が生まれた時とちょうど同じくらいのまっさらに。

 積み上げられた文明も歴史も思い出も感情も、全て水が持って行った。

 僕の命も、おんなじように。


 目を覚ましたのは女の子の泣き声で、だった。

 薄らと目を開ける。体全体がだるい。頭も痛くて、寒くて、体がわずかにえぐれている。

「とうさん、かあさん……どこに行ったの」

 女の子は泣いていた。僕の目の前に座り込んで泣いていた。

 周囲は一面ただの原っぱだった。いや、原っぱですらない。

 そこには命がなかった。全部なかった。何も、なかった。彼女と僕以外、何も。

『ねえ、どうしたの』

 わかりきっている気がした、けれど尋ねた。違っていたらいいと思いながら。

 女の子はそこで初めて僕がいるのに気付いたらしい。目を大きく見開いていた。

 ぽた、また涙が落ちる。

「とうさんとかあさんが見つからないの」

『……そっか』

 やっぱりそうだったか。

 ここにはもう街なんてない。命もない。

 だからきっとこの子の両親もどこにもいないんだろう。

 この子だって、わかっているはずだ。

 もう直ぐ地面がまた暴れ出す。僕の体も持たないだろう。

 それでもこの子がここにいるのは、どうしてなんだ。

『ねえ、君。これからどこに行くの』

「どこにも行かない。とうさんもかあさんもいないならどこにも行きたくない」

 うつむいてふるふる、と女の子は小さく首を振る。

 ああ、この子はここで死ぬ気なのか。

 命の綺麗さがこの子の目には全くなかった。僕が無くしつつあるものが。


『ダメだ。逃げないと。行かないとダメだ』

 思わず口をついた。僕は人間に干渉するべきでないのに。

 でも、この子を放っておけない。

 放っておけない?違う。

 僕はただ、自分が無くしつつあるものを、この子が捨てようとしているのが不快なだけか。

「どうして。とうさんとかあさんを待たなきゃ」

『待ってもこないことぐらい知っているでしょう』

 びくり、と女の子の華奢な肩が震える。

 知っているんだろうに知らないふりをしているから。

 だってこの子は僕に比べたらずっと若いけど、それでももう15年くらいは生きていそうだ。

 それならわかっているはずだ。

「でも……でも!あなたに何がわかるの!」

『わからないさ。知らないさ。何も。でも、生きることを手放すのは許さない。諦めるのは許さない。僕は、ずっとここでこの街の人を見てきたんだ。みんな、生きていた。必死にあがいてこの街を作ったんだ。その街がなくなって、その人たちの子孫がなくなって、その人たちの努力がなくなることだけは、絶対に許さない』

 笑っていた人たちを僕は知っている。

 僕を見に来た人たちのことも知っている。

『この街をより良く、より幸せに。この木が見守ってくれますように』

 そう言って笑った人が僕をここで育てたのだから。

 育ってからはたくさんの人が見に来た。その人たちは笑っていた。

 僕が育つようにこの街も育っていった。人に守られて人に育てられた。

 人によって消えたものも多くあったけれど、それでも山を削り川をせき止め、街を作ったのは人だった。

「……私、は」

『もう直ぐ、また地面が揺れる。逃げるんだ。お願いだから……生きて。生きるのを、諦めないでくれ』

 涙なんて流れなかった。

 ただ、僕はしおれた蕾をぼたぼた落とすだけだった。

 女の子は呆然として、それからゆっくり立ち上がった。

 うなずくことすらせずに、歩き出す。

 それでいいんだ。

 だって僕は、そういう人の姿に憧れて、こんな格好をしているんだから。

『生きなくてはならないんだ。何もかもなくしても生きなければいけないんだ。抗わなきゃいけないんだ。それが、人なんだろう』


 数年後。

 女の子は女の人と呼ばれるような年齢になって、もう一度その日の場所を訪れた。

 土地はボロボロだが、家が建ち、畑ができ、わずかずつ、新しい街が生まれつつあった。

 女の子が昔泣いていたそこには、ただ枯れた桜の大木があった。

「私はこんなに大きくなったよ」

 つぶやいた彼女の元へ、どこからか桜の花びらが舞う。

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