悪夢と邂逅



 ──Side リシュナ


「ぅぅっ……、ぐっ」


「はぁ、はぁ……、グラ、ン、……逃げ、……ぅぅっ」


 天上の眷属達が騒動の収束に多くの人手を払っている頃。

 眷属の長夫婦が住まうこの神殿に運び込まれたグランさんとディーナさんの様子を見に、私とレゼルお兄様は中へと忍び込んでいた。

 ドーム型になっているその一室で、大きな寝台に二人寄り添って眠っているグランさんとディーナさん。

 外傷の治療は済んでいるけれど、『穢れ』によって魂と精神にダメージを負っているらしく、その治療に時間がかかるのだと、室内にいるお医者様が言っていた。二人とも、穢れのせいで悪夢を見ているのか、互いの名を口にしながら苦痛に呻いている。

 青の毛布の外に少しだけ見えている、ぬくもりを離さぬよう固く繋ぎ合っている手。

 本当は別々の場所で治療をすべきだという声も眷属達の中に聞こえるけれど、どんなに引き剥がそうとしても無理だったのだと、そんな声も聞こえてくる。


「兄さんっ、義姉さん……っ」


 ディーナさんの眠っている側のベッドサイドに座り込んで悲痛な声を掛けているのは、どうやらグランさんの弟さんらしい。

 これも眷属達のひそひそ話の中から得た情報だ。

 歳の頃は十代半ば……程だろうか。

 グランさんと同じ綺麗な漆黒の髪と似通った顔立ちの美形さんだけど、その雰囲気はまるで違っていた。

 優しそうな、悪く言えば、少し……、気が弱そうで頼りなげな感じがするところが、兄のグランさんとは決定的に違っているように感じられる。

 泣いてばかりで……、他の眷属達の中にはわかりやすく眉を顰めている者もいる。

 

「まったく……、グラン・ファレアス様とロシュ・ディアナ様がこんな状態になっておられるのに、情けない姿ばかり……」


「兄君のように頼もしくならないものか……。これでは、御柱様のご負担も……」


 どこにでもある、誰かのひっそりとした心地の悪い陰口の気配。

 本人に聞こえているのかはわからないけれど、失望と悪意の囁きが徐々に室内を満たしていく。


「言い返しもしないな……、アイツ」


「お兄さんとディーナさんしか目に入ってない、が正解だとは思いますけど……。本人がいるのに、こんな……」


 グランさんの弟ということは、天上においてもそれなりの地位にいるのだろう。

 なのに……、眷属達はそれが日常茶飯事とでもいうように、……あぁ、うるさい。

 認識されていない、この時代の人々に触れられない。

 わかってはいるけれど、私は特大ハリセンを手の中に呼び出し、それを静かに構え──。


「うるさい……、で──!!」


「「「ぐ、グラン・ファレアス様!!!!」」」


 その声が発せられるのと同時に、眷属さん達の頭をすり抜ける形で空振る私のハリセン。

 悪夢の中に落ちていたはずの一人が、四肢を動かす事に多大な負担を感じるだろうに、ゆっくりと起き上がり唸った。

 真紅の瞳を怒りに滾らせた……、大人の姿のグランさん。


「我が、……弟、をっ、愚弄……する、……事は……、許、さんっ!!」


「ひぃいいいっ!!」


「兄さんっ!! 無理をしちゃ駄目だ!!」


 ハリセンを空振った際に転びかけた私はレゼルお兄様の片腕に助けられ、その支えに頼りながら小刻みに震えてしまう。

 神の眷属というよりも、今、この場を震わせているその恐ろしいまでの怒りの気配は、物語の大魔王さながら……!!

 レゼルお兄様が本気で怒った時も怖かったけれど、グランさんはその上をいく気がする……!!

 

「リシュナ、大丈夫か?」


「は、はい……。い、以前に、……れ、レゼルお兄様を怒らせた事もあります、しっ、……だ、大丈夫、ですっ」


「つまり、大丈夫じゃないわけだな?」


 バツが悪そうな顔をしながら頬を指先で掻いたレゼルお兄様が。

 すると、室内に響き渡る怒声と威圧感にも動じず、私をその両腕へと抱き上げ、扉へと向かって歩き出した。


「レゼルお兄様?」


「お前の精神衛生上……、俺もあの声にはうんざりするし、別の場所を見て周ろう」


 部屋を出て、グランさんの怒声が遠くなっていくのを感じながら、私はきょとんと首を傾げる。

 なるべくなら、グランさんとディーナさん、その周辺をしっかり見ておくべきではないのだろうか。


「また後で戻ってくればいいさ。それに、この時代で俺達がどんな行動をしようが、俺達の自由だろう? 誰にも指図なんかされてないし、させる気もない。さ、他にまだ行ってない場所にも足を運んでみるとするか。何か楽しいもんがあるかもしれないしな?」


 お茶目な含みを持たせた優しい笑みで、私に片目を閉じて見せたレゼルお兄様。

 妹想いなお兄様の好意に小さく頷き、神殿内の通路を暫く歩いたところでその腕を下りる。


「レゼルお兄様……、何か、……音、……いえ、……歌のようなものが聞こえます」


「ん?」


 真白の空間に響いてくる、楽し気なリズムの音。

 歌っているのは、多分……、子供、だろうか。

 だけど、それとは別に、私の脳裏によぎったのは……、誰か、大人の……、女性の、声で。

 この歌を、私の傍で昔……、頭の中に浮かぶ朧げな姿の誰かが歌ってくれていたような気がして。

 胸の奥底からこみ上げてくるようなあたたかい何かと、同時に抱き始めた不安の気配。

 私は縋るものを探して、すぐ傍にある手を掴んだ。

 だけど……。


「レゼルお兄様……?」


「…………っ」


 常に安心感を与えてくれる頼もしいぬくもりが、今は酷く冷たい。

 ドクドクと走り出した鼓動を感じながら腕の先を辿って見上げてみると……。


「レゼルお兄様……!! 顔色がっ」


 今にも意識を失って倒れてしまいそうな……、レゼルお兄様の……、見た事もないほどの、死人にも似た蒼白な面差しがあった。

 

「レゼルお兄様っ、具合でも悪く……、あっ!! 危ないっ!!」


 突然ぐらついたレゼルお兄様の身体を支えようと両手を差し出したけれど、体格差がありすぎた。

 私に向かって倒れ込んでくる大きな身体が、直前で膝をついてその場に蹲る。

 押し潰されずに済んだけれど、私の肩を支えに息を乱しているレゼルお兄様の顔色は、ますます酷くなっている。

 

「レゼルお兄様……っ」


 レゼルお兄様が体調を崩す、という事はたまにあったけれど……、今回のこれはケースがまるで違うとしか思えない。

 私を隷属化した時のあれとも違う。これは……。

 

「どこかでお水を……!!」


 いや、それよりも、横になって休める場所を探すのが先かもしれない。

 ひんやりと冷たい壁際にレゼルお兄様の背中を預けさせると、私は意を決して立ち上がる。

 

「レゼルお兄様、休める場所を探してきますから、ここで少し待っ」


「──ぼくの部屋を貸そうか?」


「へ?」


 いざ! と走り出そうとした私の手を、誰かがしっかりと握り止めて声をかけてきた。

 あれ……? 今、……私達を認識出来る人なんて……。

 

「ぼくの部屋ならおっきなベッドがあるから、その人も休めるよ」


「貴方は……」


 振り向くと、私より少し低い背丈の男の子がいた。

 長い黒髪をひとつの三つ編みにして背中に流しているその子。

 顔立ちからして、恐らくはグランさん達の血族なのだろうと予想しながら、私は男の子のある部分に意識を引き付けられる。

 綺麗な顔の左目の下から頬にかけて、痣……、いや、何か、独特な線を描く紋様が刻まれている。


「よいしょ」


 男の子は無邪気な満面の笑顔で私の手を放し、レゼルお兄様の目の前に膝をつく。


「大丈夫?」


「はぁ、……はぁ、……お前、は、……っ」


 苦痛と共に瞼をきつく閉じていたレゼルお兄様がうっすらと視界を開き、男の子の顔……、何故だか、恐る恐るといった気配で見やる。


「──っ!!」


「ん? あれ……、また顔色悪くなったね。大丈夫? 震えも凄いし……、急いで運ぼう」


 男の子に、悪意や含みのような気配は感じられない。

 だけど、男の子の顔を見たレゼルお兄様の表情は安堵するどころか、逆効果とばかりに酷い様相へと変わってしまった。。

 顔色は蒼白どころか、死人同然に生気を完全に失くし、その表情に宿る感情を読み取る事は困難。

 ありえないものを前にしている……、見てはいけないものを見てしまった。

 そんな……、人の予想の範疇を超える光景を目の当たりにしたかのような、この、凍りついた気配。


「なん、……で、……お前、……っ、が……そん、な、……嘘、だっ、……ちが、……あっ、あ”っ、あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!!!!」


「レゼルお兄様……!?!?!?」


「あれ……。なんか暴走スイッチでも入っちゃった?」


 男の子は突然叫びだしたレゼルお兄様に目をぱちくりっ! とさせ、あまり動じた様子もなく、すぐさまレゼルお兄様の前に手を翳す。

 

「少し眠ってていいよ。何も怖い事は起きないからね」


「れ、レゼルお兄様に何を……!!」


 子供なのに、レゼルお兄様に向けられた男の子の笑みはとても優しい気配と包容力に溢れている。

 男の子の手から生まれた淡く白い光はすぐにレゼルお兄様の恐慌状態といってもいい現状に変化をもたらした。


「あっ! レゼルお兄様!!」


「大丈夫だって! なんか、じょうちょ、ふあんてい? ぽかったし、寝てる方がこのお兄さんにとっては幸せなんじゃないかな。さ。行こう」


 確かに、あのままレゼルお兄様が発狂を続けていたら、私にはどうにも出来なかっただろう。

 男の子はレゼルお兄様を眷属の力か何かを使って宙に浮かせ、私についてくるよう促しながら歩きだす。

 私達の事を怪しいと思わないのか?

 どうして、私達の姿を認識出来ているのか。

 考えなくてはならない事、聞かなくてはいけない事。

 それらは全て、私の頭の片隅にどんどん追いやられていく。


「うっ、……くっ、……はぁ、はぁっ」


「レゼルお兄様……」


 眠りに落ちてなお、レゼルお兄様は何かに苛まれるかのように苦しんでいる。さっきまで、普通に過ごしていたはずなのに……。

 私は前を行く男の子の背中に視線を注ぐ。

 レゼルお兄様が異変の予兆を起こしたのは、『歌』が聞こえてきてから……。

 そして、あの男の子の顔を見た途端、その症状は一気に酷く悪化した。

 酷く、なんてものじゃなかった。

 目の前に在る者がまるで化け物か何かのように……、あれは、怯え? 恐怖? ……いえ、それよりも、もっと、……深い何かがあの場には在った。

 

「あ……」


 ふと、私自身もレゼルお兄様の起こした症状と同じ経験があった事に思い当たり、足が止まる。


「あの時の、……」


 ロシュ・ディアナの軍勢とグランヴァリアとの戦いが起きていたあの時。

 夜闇の世界に浮かび上がった、──ロシュ・ディアナの女王を目にした、あの瞬間の。

 あまり思い出さなくなっていた過去の悪夢が明確な姿をもって私の目の前に現れた、あの瞬間の……、拒絶したくて堪らなかった『現実』。

 

「…………」

 

 在ってはならない、在るわけがない、……『傷』の形。

 私もまだ落ち着いたわけではないけれど、レゼルお兄様もまた、同じようなそれを味わったのではないだろうか。

 

「ねぇねぇ、おねえさんとおにいさんって、兄妹?」


「え? ふぎゃっ」

 

 考え込んでいた私の顔が、ぽふんと男の子の背中にぶつかる。


「あ、大丈夫?」


「ふぁ、ふぁいっ……。しゅみましぇんっ」


「ふふっ。可愛いなぁ、おねえさん。はい、なでなで~。鼻、大丈夫? 怪我とかしなかった?」


 私より年下に見えるのに、男の子はまるでお兄さんみたいな優しい笑みで私の頭を撫で、怪我がないかその顔を大接近させて確認してきた。

 

「だ、大丈夫ですっ。あ、あの、お、お名前を聞いてもよろしいでしょうか? 私は、リシュナと申します。で、こっちは、私のお兄様で、レゼルクォーツと申します」


「へぇ~、じゃあ、僕と一緒だね」


「一緒?」


「うん。ぼくの名前は、グラン・レゼル・サリューティア。長いからね~。レゼルって呼ばれてるよ」


「レゼル……」


 レゼルお兄様と同じ音を持つ男の子……。

 なんだか不思議な心地で二人の顔を見比べ、私は胸の前で両手を組んで困惑を込めた眼差しを男の子に向ける。


「あの……、他の呼び方では駄目ですか?」


「え?」


「その、……我儘なお願いなのですが、……出来れば、その音は……、レゼルお兄様だけに、して、おき、たい、ので」


 私は何を言っているのだろう!

 自分でもわからないけれど、私は男の子に意味のわからないお願いをしてしまっていた。

 レゼルという音は、男の子にとっても大切な名前の一部だ。

 なのに、私はそれを否定するかのような事を……。

 不快にさせてしまったに違いない。

 居た堪れない気持ちで男の子を見ていると、意外な返答が聞こえた。


「おねえさん……、もしかして、──お兄ちゃん大好きっ子?」


「!?!?!?」


「あははははっ! 顔真っ赤だ~!! やっぱり可愛いねぇ、おねえさん。ふふふふふ、面白いっ。……ふぅ、いいよ~。ぼくの事は、そうだなぁ……、

あ、『リュティー』って呼んでよ! 母上だけはぼくをそう呼んでるんだ! おねえさんの可愛い声で呼ばれるなら、うん、ぼくもそっちがいい!」


「え……、でも」


 それは、彼にとっても特別な音なのではないのだろうか。

 私が我儘を言っているのに、この場合は……、どう、したら。

 呼ぶべきか、また他の呼び方にしてくださいと図々しいお願いをするべきか。いや、でも……。

 

「はい! じゃあ、早速呼んでみようか!! おねえさんっ、はい!!」


「えっ!?」


 なんで両腕をカモン!! 状態で嬉しそうにしているの!?!?

 とりあえず……、これは気を使わせているのか、う~ん。

 でも、私が男の子の名前を呼ばないと先に進めそうにないようなので、私に取れる選択はひとつ。


「りゅ、リュティー、君っ」


「わぁ~!! 母上以外に初めて呼ばれた~!! すっごく嬉しいなぁっ!! けど、なんだろっ!! ちょっとくすぐったい!!」


「そ、そうですか……。あの、そろそろ、レゼルお兄様を休める場所まで」


 何故そんなに嬉しいのか。

 はしゃぐリュティー君の様子を不思議に思ったものの、今は一刻も早く、レゼルお兄様を休める場所まで運ぶ事!!

 私は鼻歌まで歌いだしたリュティー君を急かし、なんとか先に進む事が出来たのだった。







 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ──Side レゼルクォーツ



 俺にとってその『傷』は、大切な双子の姉の……。幸福を奪った『罪』でもあった。

 共に生を受け、お互いが二人でひとつであるかのような、かけがえのない存在で……、何よりも大切だった、俺の半身。

 俺が姉をそう思うように、姉も俺を大切に思ってくれていた。

 いつだって一緒で……、いつだって、お互いが一番で……。

 共に在る事がお互いの、確かな幸せだった。


『レゼルは私の事が大好きだから、いつか私がお嫁に行っちゃったら、大泣きして拗ねるんでしょうねぇ』


『はぁ、……あのなぁ、いい加減、ガキ時代のままで弟を見るのはやめろよな? そりゃあ、……まぁ、どんな野郎がサラの心を射止めるのかは……、ちょっとだけ、……気になるけどよ』


『ふふ、やっぱり! でも大丈夫よ!! だって、私が好きになる人なんだから、絶対素敵な人!! だから安心しなさいな』


『何が大丈夫なんだか……』


 いつかは訪れる、お互いの道が分かたれるその日を……、正直、少しだけ、恐れていたとは思う。

 なにせ、生まれた時からお互いの隣は常に自分達だったのだから、そこに別の誰かが立つ、……なんて未来は、あまり想像出来なくて。

 だが、がきだった俺とは違い、サラは行動的で、あっという間に……、俺の先を歩くようになっていった。

 俺がサラの姿を探していても、サラは一人で気楽にどこかへと姿を消してしまう。そういう事が多くなってきた頃……。

 

『はぁ……』


 自室の窓際で椅子に座りながら外へと視線を向け、悩まし気な溜息を零していたサラ。

 それが、俗にいう、恋する乙女の顔だと、あの頃の俺は薄々とは気付いていても、気づかないふりをしていた。

 まだ早い。まだ、お互いに寄り添っていられるはずだと……、そう、思いたかったんだろう。

 何も聞かなければ、きっと、何も起こらない。何も失わない。

 サラの抱く恋心から背を向けつつも、あの頃の俺はその動向が気になって、隠れて後を追った事もあった。

 当然の事ながら、自分が見たくもないと思っていた現場に遭遇する羽目になってしまったわけだが……、その後も問題だった。

 好きな男が出来てしまったサラを、俺はわかりやすい程に避けまくるようになり、……気が付けば、最愛の姉は恋人である男を家族に紹介し、結婚を願っていた。

 勿論、当時の俺は内心で認めてなるものかと憤慨していたわけだが……、家族もまた、サラの結婚相手に難色を示していた。


『なんで蹂躙派の野郎なんか連れて来るんだよ!!』


『関係ないでしょ!! あの人は私が好きになった人なの!! 蹂躙派だけど、考え方は私達寄りだし、野蛮な事は絶対にしない人よ!!』


 サラが結婚して家を出てしまう事ばかりに頭がいって結婚に反対していた俺とは別に、家族が危惧していたのは別の事だった。

 蹂躙派とはいえど、サラが好きになった相手なら、誰であろうと祝福しようと思える、そんな家族だった。

 だが、問題は蹂躙派である事ではなく、サラの連れて来た男にどうにも信用が置けないと、誰もが考えていたからだ。

 穏やかな物腰に、話のわかる学者めいた風を装ってはいたが、その目の奥に宿る『狂気』の気配に、誰もが気付いていた。

 恋に盲目な……、サラ以外は。

 結婚の許しは下りず、両親はさらにサラに男と別れるように何度も説得したが、反対の果てに待っていたのは……。


『お世話になりました。親不孝だとわかってはいますが、私は愛する人と一緒にいたい。あの人の隣にいたい。だから、出て行きます』


 家族と縁を切ってまであの男と共に在りたいのか。

 扉の陰から中の様子を窺っていた俺は、爪が食い込むほどに拳を握り締めながら最悪の展開を目にする事になった。

 両親が、サラの頑固な決意に負けて、……結婚の許しを出してしまったのだ。駆け落ちの果てにサラが不幸になる未来よりも、手元に置いて、いざという時に助けられるよう見守ろうと、そう判断して。

 最悪の果ての最悪。

 サラは男と結婚し、両親からの願いを受けて、住居は実家の屋敷にする事を承諾した。

 本当は別の場所で新居を得て、愛する男と暮らしたかっただろう。

 だが、結婚を許されないよりはマシだ。

 俺は居心地の悪い屋敷にはあまり帰らなくなり、久しぶりに顔を出してみれば……、姉は男の子供を腹を宿していた。

 最悪の果ての最悪の、さらに最悪な災厄としか言えない現実だった。

 幸せそうに笑い合い、俺の居場所を奪った男。

 

『あ、レゼル!! お帰りなさい!! 見てっ、貴方、来年には叔父さんになるのよ!! ふふっ、可愛い子が生まれるから、楽しみにしててね!!』


『…………』


 俺との気まずさも、俺の心の内も、自分の幸せの前にはどうでも良かったんだろう。

 この世の誰よりも幸福な人生を手に入れたと喜ぶかのようなサラの姿に、俺は眩しさを覚えながらも、……絶望の果ての諦めを受け入れていた。

 そして、この先の未来で……、自分の手が、『何』を壊すかも……、何も、何も、考えられずに……。



『いやっ、……ぁあああああああああぃ!! いやぁあああああああああああああああああっ!!』



 今も幾度となく夢に見る、気が狂わんばかりに響いた姉の絶叫と、『狂気』に満たされていた、あの晩の記憶。

 吐き気を催す程に全身へと浴びた、赤黒い、波のような血飛沫。

 自分が何をしたのか、何を、奪ったのか……、あの時の俺は事態を理解出来ず……、ただ、姉の絶叫と、怨嗟の声だけを呆然と聞いていたように思う。



 ──償う事など叶わない、俺の、『罪』。

 

 

 

 

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