予兆
──Side リシュナ
「ディーナさん……、大丈夫でしょうか」
「リシュナ~、お人好しが過ぎるぞ~」
「だって、……すごく、辛そうでした。自分の旦那様にもあんな風に言われて……」
「大丈夫だって何度も言ってるだろう? 俺達の始祖は、確かにちょいと隠れ傲慢が入ってるが、女をむやみに殴るような奴じゃないし、ちゃんと気遣ってるさ」
観光地区にある宿屋の一階で最初にチョコレートとバナナのパフェをレゼルお兄様と食べて、それから美味しい夕飯を済ませてから迎えた、一日の終わり。
二階の客室でベッドに乗ってレゼルお兄様に髪をブラシで梳かされている私は、窓の外に目を向けながら「そうでしょうか……」とさらに深く眉を顰めた。
私達が去った後の、ディーナさんの事が気になるのだ。
とても……。
だけど、レゼルお兄様は大丈夫大丈夫と言うばかりで、様子を見に戻らせてはくれなかった。
「だから心配ない。それに、あの始祖は嫁さんには惚れてるから酷い真似は出来ないさ」
「わかるものですか? そういうの……」
「そりゃわかるさ。アイツは、ロシュ・ディアナの始祖を常に気にしてるし、騒動の時も、謁見の時も、御柱命とか言っておきながら、嫁さんの事ばっか気にしてたからな」
「謁見……。レゼルお兄様、まさか、覗き見ですか?」
「偵察と言ってくれ~。ははっ、けど、御柱からは何もお咎めなしだったから捕まりはしないぞ」
「会ったんですか? この世界の、御柱様に……っ」
それは凄い!!
頷くレゼルお兄様に振り向き、私はその胸に縋って話をせがむ。
「どんな方だったんですか!? 何があったのか、私にも教えてくださいっ!!」
「うおっと。珍しく好奇心いっぱいだなぁ~」
当たり前です!!
この世界の、私達の時代ではいまだ故郷に帰還を果たしていないという神様。
その人がもし、この世界に在り続けてくれていたら……、私達の『今』はもっと変わっていたかもしれない。
それに、今、この時代で会えるのなら、未来に役立つ情報を聞き出せたりしていないのだろうか?
くるりと前を向かせられ、またブラシで髪を梳かされ始めた私に、レゼルお兄様が話を聞かせてくれる。
「御柱は男で……、物腰は穏やかな、まぁ、害のない神様だったよ」
「男の方、なんですね。……他には?」
「結論から言えば、他愛のない話をしたくらいで……、未来に繋がる有益な会話、みたいなのは出来なかったな。……いや、語る事を許されなかった、かな」
「え?」
レゼルお兄様は確かに謁見の間で御柱様に招かれ、少しの時間ではあるけれど、言葉を交わしたらしい。
だけど、御柱様の事、始祖二人のこれからの事、未来に起こる出来事に関しては、何も口に出来なかったそうだ。話そうとすると、何も音を発せなくなったらしい。
「わかってたことだからな。過去は変えられない。人も、神も、誰も……。御柱もそれを承知してたみたいで、先の事は誰にもわからないものだ、と、軽く笑ってたよ」
「でも、……誰かに伝える事が出来れば、少しは……、何かが変わるかもしれないのに」
「リシュナ。命っつーのは、皆それぞれに『選択』を繰り返して生きてるもんだ。だから……、自分達にとって都合の悪い出来事を消したくなる気持ちはわかるが、……それが出来ないからこそ……、選択のもたらす意味を、重さを、感じる事が出来るんだ」
ブラシをシーツの上に置いて、レゼルお兄様が私をそっと背後から抱き締めてくれる。
全ての命は『選択』を繰り返し、様々な結果を受け入れ進んでいく。
全てが良い事ばかりではなく、喜びも痛みも飲み込んで歩むから、人生なのだと。
だから、ひとつひとつの道をちゃんと考えて進むんだぞ、と、レゼルお兄様の真面目な声が私の耳に優しく響く。
「俺も、塗り潰したい過去がある……。だけど、それは絶対に出来ない。だから……、今も、進み続けている」
「レゼルお兄様……」
塗り潰したい過去……。
その切なげな、僅かに苦しそうな小さな声音に、私は悟る。
レゼルお兄様のそれは、きっと……。
踏み込んではいけないのかもしれない。
私が知っても、何をどうこうする事も。レゼルお兄様の傷を癒す事も、何も、……出来はしないのだから。
──だけど、それでも、この人の胸にある『傷』に触れたいと思ってしまったからか。
私は無意識に声を発しかけていた。
「それにな。全部、俺の望む通りに過去を変えられたら、……多分、今お前とこうしてなかったかもしれない。グランヴァリアで平和に生きて、外の世界にもあまり出ず……、森の奥で泣いているお前を、助けに行けなかったかもしれない」
「……っ」
どうして?
問おうとしていた最初のそれは頭の中で霞み、私の心は喜びと戸惑いできゅぅっと小さな痛みを覚えた。
ありえない事だとしても、この人はもしもの可能性の中でさえ、私の事を心配してくれる。私の手を、取ろうとしてくれる。
「な、何言ってるんですか……、もうっ」
出来る事なら、レゼルお兄様が幸せである道を歩んでほしかった。
私の事なんて見つけなくていいから、……大好きな貴方が幸せの中に在ってくれたら。
だけど、レゼルお兄様は私の考えを見抜いたのか、私の肩口に顔を埋めながらクスリと笑う気配を見せた。
「行くさ。どんな運命の中にいたって、俺はお前を一人にしない。たとえ過去が変わったとしても、お前を探してあの森に辿り着く。絶対に」
「んっ。……せ、せっかく幸せなのに、こんな面倒な子を迎えに来るんですか?」
「あぁ……。記憶がなくても、きっと本能で探しに行くと思うぞ?」
「そ、それは……っ、ご、ご迷惑をおかけしますっ」
「ははっ。迷惑なんか、何にも掛かってないって言ってるのに……、お前は律儀すぎる。……きっとわかって……ないよなぁ。お前との出会いで……、お前と、こうして……一緒にいられて、俺が、……どれだけ」
首筋にかかる熱を帯びた吐息にくすぐったさを覚えていると、急に背中が重くなった。
レゼルお兄様の名前を呼んでみたけれど、……応答が、ない。
「もしかして、寝落ちですか……? うっ、お、重いっ」
「すぅー、すぅー」
こ、このままでは、レゼルお兄様に押し潰されて死んでしまう!!
そうなる前に抜け出そうと、私は一生懸命に力を入れて身体をずらし、ベッドに倒れ込んだレゼルお兄様の下敷きにならずに済んだ。
「はぁ、はぁ……。こ、困ったお兄様、ですっ」
「ん~、むにゃ、……ふふっ」
「前触れなさすぎて、逆にびっくりですよ……。はぁ」
でも、元の時代での戦いや、こちらに来てからの事を思い出してみると、レゼルお兄様はあまり休息を取れていなかった気がするから、起こさずに休ませておこう。
私はレゼルお兄様の傍に座り、綺麗な青の長い髪を一房手に取りながらその幸せそうな寝顔を眺める。
「夢はいつか覚めてしまうけど……、私の現実(夢)は、……いつまでも、続いてくれるんでしょうか?」
あの冷たい牢獄で朽ちるはずだった命。
新しい家族さえも失い、ずっと死を追いかけて、追いかけて……、終わろうとしていたのに。
レゼルお兄様……、貴方との出会いが、あの日から始まった日々が、私にとっては夢そのもので……。
「終わりませんように。どうか、……どうか、この現実(夢)が、……永久(とわ)に」
レゼルお兄様の髪に頬を寄せた後、私は祈りを込めるかのように瞼を閉じ、眠るその顔に愛しさを覚えながら、額へとキスを落とした。
「おやすみなさい、レゼルお兄様……。良い夢を」
ベッドは二つあるけれど、私はレゼルお兄様のぬくもりから離れるのが寂しくて、そっと、隣に寄り添いながら瞼を閉じたのだった。──同じ、幸せな夢を見られますようにと、願いを込めて。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『大変だあああ!! 火事だ!! 大火事が起きたぞ~!!』
ふわりと優しいぬくもりに包み込まれ、幸せの奥底にいたというのに……。
外から聞こえてきた慌ただしい大声と、なんだか不快な匂いに鼻をやられて目を覚ました私は、すでにレゼルお兄様の腕の中だった。
「ふにゃ……、レゼルお兄、様?」
「リシュナ、俺から絶対に離れるな。いいな?」
「あの、何が……」
すでに身支度を終えていたレゼルお兄様の腕に抱えられながら、目の前で窓がガタリと音を立てて左右に開かれる。窓枠の縁にレゼルお兄様が足を掛け──。
「火事だ」
「か」
現状を把握する前に外へと飛び出した私達は、観光区域とされている街中のほとんどが火の海に飲み込まれているのを目撃してしまった。人々はあちらこちらで騒ぎ、大声を上げ、ある所では乱闘まで起きているようだ。
今回は前回よりも規模が大きい。……一体、何が原因でこんな事に!
「ったく……、神のお膝元っつー事完全に忘れてやがるな!!」
「レゼルお兄様……、あれを見てください!!」
「ん? ──げっ、なんだありゃっ!!」
街を騒がしているのは火災や乱闘騒ぎだけじゃなかった……!!
遠くに見える炎上中の屋根の背後から……、意味不明に大きな大きな魔物みたいな何かが!!
それも一匹だけじゃなくて、あちらこちらにいる!!
「魔物だな……。それも、召喚魔獣の類だ。ってことは、十中八九、どうしようもない馬鹿がどこかにいるわけか」
「天上で召喚された、と、そういうわけですかっ?」
「でなきゃ、天上にはあんなもん持ち込めないからな」
私をしっかりと抱えながら屋根伝いに飛び移り、レゼルお兄様が魔物の背後に立つ。
「よぉーし! こっからなら、魔物共が一片に見渡せるな!! リシュナ、俺にしっかり捕まってろよ? すこぉーしばかり、でかいのをぶっ放す」
「らじゃーです」
私を片腕に抱え直し、レゼルお兄様が爆風に外套や長い髪を煽られながら、もう片方の手を前に突き出して指先を踊るように動かしながら詠唱を紡いでゆく。
私達の目の前に、美しい紫炎が舞い踊るように表れ、魔物達を補足するのに相応しい、大きな大きな陣が描かれる。
普段、レゼルお兄様は剣を手に戦闘を行うタイプだけど、魔術方面においても腕は確かだ。
「さぁーて、一回で吹っ飛んでくれるといいんだけどなぁ……」
「ふぅ。自信ありありな事はわかってますから、油断しちゃ、めっ! ですよ」
「ふにゃぁぁっ……!! はっ!! やべっ、ちょい油断した!! 兄としてミスのない完璧な一撃を見せねば!!」
「はいはい」
一瞬だけ、ガクンッとはにゃ~んと蕩けた顔で情けない姿を見せたレゼルお兄様だけど、最後の音を紡ぎ終わった直後──。
「……え?」
変わらない。
目の前で起こるはずの魔物達の悲鳴も、いや、違う……。
「レゼルお兄様……、魔術、発動してませんよ?」
「…………」
小さく頷き、剣呑な様子で細められるレゼルお兄様の双眸。
観光区域全体を覆うように燃え盛る炎の勢いと共に、巨大な魔物達は破壊の手を繰り返し続ける。
「予想外の事態、ですか……?」
声に震えがまじってしまう。
レゼルお兄様が魔術の発動手順を間違うわけがないし、もし間違っていたのだとしたら、お茶目な様子で何か言うはず。
だけど、レゼルお兄様は私を抱え直してから夜闇の高くへと両翼を出して飛び立つと、全体を見渡し始めた。
「過去の世界、か……」
「レゼルお兄様……?」
「リシュナ。過去は変えられない、って、話を覚えてるか?」
「え? あ、はい。起こった出来事を変える事は……、誰にも、……あっ」
この、過去らしき世界の人々と関わる事自体は出来ている。
だけど、未来の事について語ろうとしたというレゼルお兄様は、何らかの制約を受けてしまい、それを語る事が出来なかった。
過去の存在が、これから起こる事を知る事は禁忌だから……。
つまり、それと同じで……、未来を変え得る行動もまた、禁忌。
「でも、このままでは、観光区域が全焼してしまいます」
「それに関しては、神の眷属達が動いてるから大丈夫だろう。ただ……、俺が手を出せなかった事が……、いや、そうか」
何かに納得した風に見えたレゼルお兄様に小首を傾げ問おうとすると、留まっていたその場から、どこかへと移動し始めた。
漆黒の美しい両翼が空(くう)を打ち、観光区域を離れていく。
「レ、レゼルお兄様っ、どこへ?」
焦げ臭い気配や魔物達からどんどん遠ざかっていくようだ。
だけど、レゼルお兄様の目に迷いはなく、この行動が何らかの目的を持っている事に気付く。
観光区域が見えないくらい遠く……、沢山浮いている小さな島のような群れが見える辺りまで来ると、またレゼルお兄様がその場に留まった。
まるで……、何かを探しているみたい。
「別に確かめたくもないが……、『知る』事が俺達の役目みたいだからな」
「知る、事、ですか……。あっ、レゼルお兄様! あそこっ!! あの島に向かって、移動用の小舟が動いています!!」
「あれか……」
暗躍よろしく、黒いフードを被った何人かが乗り込んでいる空飛ぶ小舟が、浮島のひとつに向かって進んでいくのが見える。
「もしかして……、観光区域のあれは」
──囮、ですか?
視線で問いかける私に、レゼルお兄様は答えを寄こさずに短い音を紡いで、私達二人の姿が誰にも見えなくなる魔術をかけた。
「さっきの件もだが、……恐らく、これから俺達が目にする何かに関しても、干渉、もしくは、何も口に出来なくなる可能性がある」
「……はい」
過去は変えられない。
この時代で起きる出来事の全ては、私達の生きる未来に続いている。
私達はただの傍観者でしかない。
それでも、この過去の時代に飛ばされた事も、今こうして黒いフードの人達が何をするのかを見定めようとしている事にも……、恐らく、意味があるのだろう。
変えられずとも、目にしておけ、と、誰かが囁いているかのように。
──私達が『知る』事の意味が。
レゼルお兄様の導くままに浮島に先回りして降り立った私は……、鬱蒼と群れる木々の褥の暗い色合いに小さく身震いしたのだった。
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