花のひとひら



――Side リシュナ



「……ここ、は」


「お帰りなさい、リシュナちゃん。……ごめんなさいね、本当は軽くそちらの方の力を試させて頂いてから、すぐに術を解かせるつもりだったのだけど……。この人、すぐに脱線してしまう困ったタイプなの」


「じょ、……女王、様?」


 異空間を形成する術が解かれ、戻されたのは私達に提供された寝室ではなく……、ここは。

 贅沢な調度品や、窓を閉ざしている質の良さそうなカーテン。

 私達のいた客室よりもレベルが数段高い部屋だと思いながら、私はすぐ目の前に寄ってきた桃色の髪の女性に目をパチパチとさせながら首を傾げ、気付いた。

 その華奢な肩の向こうにある、ふかふかしていそうな真紅の一人用ソファーに腰を据えているのは、グランヴァリアの国王様。その傍らに控え、ふぅ、とお疲れ気味にしているのは、宰相のレイズフォード様。

 それに、周囲を見れば、フェガリオお兄様や本来の姿のクシェルお兄様に、……ロシュ・ディアナの女王様御一行の姿もある。


「陛下……、事前に言っておいてくださいよ」


「ははっ。そこまで甘やかしてやる伯父ではないと、わかっているだろう?」


「余計な事にはベタ甘だけどなっ。……はぁ、まさか、ロシュ・ディアナと組んで、甥を騙すとは……」


「ふぅ……。今回の件に関しては、私もどうかと思ったのだがな。レゼルだけならまだしも……。すまなかったな、リシュナ。怖い思いをさせてしまった」


 そう言って私の傍に来て膝を突き、少し震えていたらしい手を握ってくれたのは、宰相様だ。

 私がどれだけ過去を……、ロシュ・ディアナを恐れているか。

 もし、私一人だけであの仮面の人達と対峙していたら、……泣き叫んでいたかもしれない。

 レゼルお兄様のぬくもりが傍になければ、平常心すら保てず、すぐに逃げ出していたのかもしれない。

 だけど、二人一緒だったから……、私は、少しだけ、強く在れた。


「お気遣いありがとうございます、宰相様。でも、私には、頼りになるお兄様がいますので」


 誰よりも頼もしく、私にとって一番安心できる相手がいたからこそ、心も身体も無事でいられたのだ。

 と、微笑みながら伝えると、宰相様は何やら複雑そうなお顔を……。


「そうか……」


 どんよりとした影を背負っているかのように、宰相様ががっくりと項垂れてしまう。

 すると、その後ろからあの初老の声をした仮面の人が近づいてきて、お茶目な気配を纏いながら言った。


「可愛い妹さんの為に、平気で命を張れる健気な騎士殿でしたよ~。血と種族を超えた兄妹愛! いやぁ、感動ものでした。クククッ」


「あの……、全身血だらけですけど、平気なんですか?」


 異空間でレゼルお兄様から渾身の一撃をお見舞いされた仮面の人は、柱にぶつかって散々な目に遭ったはずだ。

 なのに、全身のあらゆる箇所から流れ落ちている血には何の頓着もないようで……、かなり怖い。


「ご心配ありがとう、レディ。だけど、このくらいは掠り傷のようなものでね。君のお兄さんのお陰で、痛みよりも、心地良い快感の方が」


「リシュナ!!」


「きゃっ」


 私に血が飛んだり、変態さんの被害が来ないようにか、レゼルお兄様が私をひょいっと抱きかかえ、自分の背後に隠す。レゼルお兄様! 何も見えませんよ!!


「おやおや。本当に過保護なお兄さんだ。これなら、お嬢さんを裏切る心配はないかな」


「黙れド変態野郎っ!! 勝手に試された事にも苛立つが、今はそれより聞きたい事がある。――お前達は一体『何』だ? そっちの女王もだが、何故リシュナに関わろうとする?」


 国王様がいても、レゼルお兄様は警戒を解いていなかった。

 剥き出しの牙を見せつける獣のようにロシュ・ディアナの女王様を睨みつけ、私を守ろうとしてくれている。

 だけど、その無礼な態度を嘲笑ったり怒ったりもせず、女王様は申し訳なさそうに微笑む。


「ごめんなさいね。……これから為すべき事の前に、色々と把握しておかなくちゃいけない事が多くて」


「女王様?」


「アレス様達にはもうお話してあるのだけど、一番に話さなければならなかった相手は、貴女なのよ。……リシュナちゃん」


 仮面の人と宰相様が道を開け、レゼルお兄様も何かを察したのか、横に身体を引いた。

 女王様が私の目の前で立ち止まり、ゆっくりとその場に膝を突く。

 私の頬へと伸ばされた優しいぬくもり。

 切なげに細められた女王様の双眸……。


「初めまして、リシュナちゃん。……私の、愛する姪っ子ちゃん」


「……女王、様? 何、を」


 姪? 誰が……、誰、の。

 何を言われたのか、その意味を掴めないでいる私の身体を、女王様がぎゅっとその両腕に抱く。

 あたたかい……。そして、……懐かしい、……この、匂いは。

 

「陛下、どういう事ですか? ロシュ・ディアナの女王が……、いや、この女は」


「控えろ、レゼルクォーツ……。その方は、今でこそ女王の座を奪われているが、ロシュ・ディアナの正統なる血筋の方であり、先代の女王陛下だ」


「はぁあっ? こ、このドジッ子が……、せ、先代の、本物の……、女、王?」


「だから、控えろ。言葉を慎め……、ふぅ」


「仕方がありませんよ。我らが先代女王陛下のドジは真性のものですから」


「ですじゃな。陛下のドジだけは……、昔から救いがありませんからのぅ」


 あ、女王様と一緒に会談に出ていた、辛辣な物言いのシルクさんと、お付きのおじいさんだ。

 私を抱き締めて、何やら感動している女王様にジト目を向けていらっしゃる……。

 

「ですが、正真正銘、我らロシュ・ディアナ種族を束ねる、先代の女王陛下なのですよ。非常に残念な事ですが!」


「もうっ!! シルクの馬鹿っ!! 女王のお仕事はしっかりやっていたでしょう!! それと、私のドジは、短所じゃなくて、チャームポイントだって、『ディアナ』だって言ってくれていたわっ!!」


「はいはい。それはどうでもいいですから、話を元に戻してください、陛下。――時間がありませんよ」


「脱線させたのは誰かしらねっ……。はぁ、ごめんなさいね、リシュナちゃん。でも、ドジでも、お仕事はちゃあんとやってたんだから、信じてね」


「は、はぁ……。あ、あの、……で、さっきの、その、……姪、というのは」


 女王様達のやり取りのお陰で肩の力は抜けたような気がするけれど、疑問はまだ解けないままだ。

 目の前の女性が、ロシュ・ディアナの先代女王陛下で……、私の事を、姪と呼んだ理由。

 

「う~んとね……。そのままの意味、なのだけど……。リシュナちゃんは、私の妹の娘なのよ」


「妹……? 私の、……私、の、お母、……さん?」


「そう。ロシュ・ディアナの王族であり、私の妹王女である……、『エリュシィーア・ディアナ』。それが、貴女のお母さん」


 エリュ、シィーア……、ディア、ナ。

 ロシュ・ディアナ王家の……、王、女?

 瞬きも出来ない程の衝撃が、私の思考を止める。

 自分がロシュ・ディアナの種族である事は知らされていたけれど、お母さんも同じであると、知ってはいた。

 だけど、……王家? 王女?

 

『お前のせいでっ!! お前のせいでっ!! あの子は駄目になった!!』


『我が種族の誇り高き血をっ、よくもっ!!』


 ……なんだか、納得出来た気がする。

 ロシュ・ディアナは、神に仕える眷属。

 それ故に、自分達の種族性に対しての誇りや執着心が強い。尋常でないほどに……。

 私のお母さんが王族だったのなら……、当然、混血を身籠った事を厭うだろう。

 種族の血に他種族の要素を入れたくないのなら、なおさら……。

 だとしたら……、私を罵倒していた、……もう顔も覚えていないあの赤い爪の女性も、王、族?

 頭の中で掘り起こそうとした記憶が、……一瞬だけ、その人の顔を朧気に垣間見せる。



 ――……。

 


「うっ!!」


「リシュナちゃんっ!?」


 突然こみ上げてきた猛烈な吐き気。

 

「うぅっ、ごほっ、ごほっ……、ハァ、ハァッ」


「リシュナ!!」


 レゼルお兄様は、相手が女王様である事にも構わずに彼女を私の前からどかせ、私の傍に膝を突く。

 肩にあたたかなぬくもりが重なり、背中を擦られる。


「はぁ、はぁ……っ。す、すみま、せんっ、……うぅっ」


「喋るなっ。陛下!!」


「ん?」


「はいっ!」


「いや、ロシュ・ディアナのじゃなくて、ウチのっ、ウチの陛下!! 親父を呼んでくださいっ!! それと、兄貴をっ!! ファル兄貴をっ!!」


 悪夢を見た時よりも、酷い。

 吐き気はどんどん強くなり、私の身体から血の気が引いていく。

 私はレゼルお兄様の腕の中に倒れ込み、呼吸を乱しながら意識を霞ませていく。

 ……見え、た。何か、が……、忘れていた、……あの、悪夢、が。

 

「リシュナちゃんっ、リシュナちゃんっ、しっかりっ!!」


 女王様が必死に声を掛け、私の意識を呼び戻そうと手を握ってくれた。

 ドタドタと、室内に慌ただしい音が響き始める……。

 沢山の声が、気配が、……徐々に、私の意識から、消えて、いく。




 


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――Side レゼルクォーツ



「リシュナ!! リシュナっ!! ――っ!! 女王っ、リシュナに何をした!!」


「落ち着け、レゼル! ……二種族の力が暴走しているな。意識は落ちているが、……女王よ、手伝って貰えるか?」


「はい!! 勿論です!!」


 ロシュ・ディアナの先代女王と話をしていたリシュナに起こった、突然の異変。

 俺の目からも、女王が何かした、ようには思えなかった……。

 だが、リシュナは話をしている最中に吐き気を覚え、尋常ではない早さで体調を崩し、意識まで失ってしまった。呼吸は荒く、夜着越しに大量の汗を掻いている事がわかる。

 何故だ……? あの話の中に、リシュナの身体を、力を暴走させるような何かが……。

 いや、母親の件だけでも、リシュナにとっては予想もしていなかった衝撃だったはずに違いない。

 だが、……それだけが原因のようには。

 俺は、腕の中にいるリシュナへと手を翳す二人の王に心の中で縋りながら、大事な妹の苦しみが一刻も早く取り除かれる事を願った。

 ――その最中、どこからか小さな声がした。


「――が、……っているのかも、……ない、ね」


 微かに聞き取れた、若い男の声。

 この室内に、そんな声の奴がいただろうかと違和感を覚えたが、リシュナの辛そうな声に意識がそちらへと戻る。二人の王はリシュナの中で荒れ狂う力を確実に鎮めていく。


「レゼ、ル……、お兄、様」


「大丈夫だっ。すぐに楽になるからっ、だから、安心しろっ」


「わた、し……、はぁ、……はぁっ、……あれ、……は、うぅうっ、……い、やぁっ、いやっ、……あああっ、あぁああっ、いやぁああっ」


「リシュナっ!!」


 薄っすらと開いた瞼。リシュナの瞳が、現実ではない何かを捉えているかのように、その手を天井に向かって伸ばす。それは、拒絶だ……。俺達には見えない何かに覚え、リシュナは逃げようともがいている。


「いやっ、いやぁああっ!!」


「陛下っ!! 女王!!」


「レイズ!! アイツらはまだか!!」


「私達がリシュナちゃんの力を抑えようとしても、心の乱れが邪魔をしてっ、――リシュナちゃんっ!! 目を覚まして!! 現実に意識を戻せば、楽になれるのっ!! だからっ!!」


「ぁあああっ、やぁああっ、来ない、でっ、……いやっ、いやぁああっ、ああああああああああああああっ!!」


 陛下と女王の力さえも拒絶するように、リシュナが激しく暴れ始める。

 俺は必死にリシュナの身体を自分の腕の中に抱え込み、動きを封じ込めようと力を込めるが……。

 リシュナの心を脅かす何かが狂気的な作用を促しているのか、その背に、前よりも成長した黒と白の両翼が大きな羽ばたきの音と共に現れる。

 暴走している二種族の力が禍々しい光を帯びながら混ざり合い、リシュナの歯にも変化を起こしていた。

 牙が……、グラン・ファレアスの吸血能力を使う為の牙が、リシュナの口内に生えている。

 それは今までに一度も見た事のない、リシュナの、グラン・ファレアスとしての姿だった。

 混血児として生まれてきた者は、二種族の特性を継ぐ者と、部分的にどちらかに偏るというケースがある。

 リシュナは、ロシュ・ディアナとしての要素を強く受け継いで生まれたのかと思っていたが……。


「レゼル……っ、はぁ、ぁあっ、……あああっ、ぐ、ぁあっ!!」


「リシュナっ!! ――ッ!!」


 俺の肩に縋りつき、その小さな手が俺の夜着をごと喰い破って肩に牙を立ててくる。

 

「うぅっ……!!」


「きゃああっ!! リシュナちゃんっ、駄目よっ!! めっ!! 暴走している時にそんな事をしたらっ」


「レゼル!! 少し我慢していろ!! 少々手荒いが、荒療治も致し方あるまい。女王よっ」


「は、はいっ!! お任せをっ!!」


 リシュナの負担を考えて控えていた方法を、陛下と女王が頷き合い、その手に己が種族の強い力を宿して小さな背中へと狙いを定めて叩き込む。

 

「ぁああああああああああああああっ!!!!!!!!!」


「リシュナっ!! 我慢してくれっ!! うぅぅっ、ぐっ」


 一度引き抜かれた二つの牙が、自分の中に入ってきた強大な力の奔流をやり過ごそうとするかのように、また俺の肩口へと鋭く喰い込んでくる。

 まるで、リシュナの悲しみが、苦しみが、俺の中へと流れ込んでくるかのように……。

 聞こえる。……リシュナの、『助けて!!』と叫ぶ、悲痛な声が。

 俺はリシュナの牙を拒まず、その頼りない小さな身体を掻き抱きながら痛みに耐える。

 このくらい、可愛いもんだ。

 リシュナの牙はまだ幼く、血を吸う力も大人には遠く及ばない。

 ただ噛んでいるだけ、と言えばいいか。

 これは助けを求めて苦しんでいるリシュナからのSOSだ。

 他の誰でもなく、リシュナが縋るのは俺一人。

 あの蹂躙派の地で別の男を頼ったリシュナが、今回はちゃんと約束を守ってくれている。

 

「そう、だ……。それで、いい、ん、だ。……幾らでも、……吸って、いい、から、……だか、らっ」


「んんんぅぅっ!! んんっ!! うぅぅっ」


「怖がらなくていい。お前にとって怖いものは、全部俺が打ち砕いてやる……。俺が、俺が……、必ず、お前を幸せにするから」


 リシュナの頭を撫でてやりながら偽りのない想いを囁くと、その若草色の瞳から大粒の涙が堰を切ったかのように溢れ始めた。

 

「……レ、……ゼ、……ッ」


 皮膚を抉る力が弱まり、俺の胸に爪を立てていたそれも、徐々に落ち着きを取り戻し始め……。

 リシュナが、自分から牙をゆっくりと引き抜き……、その瞳に、光が戻った。


「レゼ、ル……、お兄、様?」


「ん……。陛下達の力が、……やっと、作用してくれた、かな?」


「あ、あぁぁ……っ。わ、私、……私、……な、何、をっ」


 自分の口の中に何があるのか、今、何をしていたのか、情報が一気に押し寄せてきたのだろう。

 リシュナの背中に生えていた両翼も、場に羽根を舞い散らせながら静かに消えていく。

 陛下と女王の力が二種族の力を抑え込む事に成功した証だ。

 ……だが、今度は俺にした事でまた暴走しそうだ、と予感した俺は、戸惑い怯えているリシュナの首筋に顔を埋め、その肌に悪戯めいたキスをしてから囁いた。


「いやぁ~、可愛い妹の初吸血が兄の俺相手とは、ふふふふふふっ、最っ高のサプライズだったなぁ~!」


「きゅ、吸、血……!?」


「愛する妹の牙の痕がバッチリ! ほらっ、俺の、こ・こ、にぃ!」


「い……」


「でも、やっぱり、まだ初心者だもんな~。手加減とか、どの角度が良いとか、これから俺が教えてやんなきゃ~。手取り足取りで」


「――ッ!! いやぁあああああああああああああああああっ!!」


 その後はもう、予想通りだった。

 俺に吸血行為をやっちまった事実を突きつけられたリシュナは酷い羞恥心を覚えてしまったらしく、俺の頬に渾身の一撃をお見舞いし、そのまま……、気絶してしまった。

 直後に到着した俺の親父とファル兄貴が、心と身体のケアをする為にリシュナを別室に連れて行ったが……。


「レゼルクォーツ……! 貴様っ、家族だ兄妹だと言いながら、リシュナをあんな目に遭わせるとはどういう事だ?」


 認めないだの、ずっと我を張っていた男が、こんな時だけ父親面だ。

 頬に赤い手形がついた俺の気遣いを察するでもなく、散々部屋の中を追い掛け回された。

 途中からあのド変態な仮面野郎もその追いかけっこにまざっていたが……、まぁ、それはいい。

 ファル兄貴の生まれながらの癒しの力なら、リシュナの心の中で起きた異変の元凶を優しく癒してくれる事だろう。それに、親父がついていてくれるなら、暫くは安心だ。


「何かを……、思い出してしまったのかもしれませんね」


「ん?」


 部屋の隅でフェガリオとクシェル兄貴に、あまり嬉しくないフォローを貰いながら座り込んでいた俺は、陛下の傍にいたロシュ・ディアナの先代女王の憂い顔に首を傾げた。


「先程、私が申し上げた事に偽りはありません。リシュナちゃんは私の妹の娘であり、私の姪です。そして、ロシュ・ディアナ王家の血を引く者……。ただそれだけの情報しかまだお話ししていませんが、恐らく」


「情報は、記憶の鍵でもある。あのお嬢さんにとって思い出したくない悪夢も、何か重要な鍵が追加されれば、ふとした瞬間に開いてしまうかもしれない。特に、忘れたい程に忌まわしい記憶は、思い出した時の反動が酷い」


「……リシュナの過去も、把握済みって事か?」


 女王と仮面の男に探る目を向けた俺は、あるひとつの疑問を覚えていた。

 ひとつは、ロシュ・ディアナの先代女王がリシュナを自分の姪だとわかっているのなら、何故……、悲惨な目に遭っていた頃のリシュナを助けてくれなかったのか。

 何故、リシュナの母親を知っていながら、妹母娘が引き離される事態を、どうにか出来なかったのか。

 湧き上がる苛立ちは相当のものだが、それをぶつけても意味はない。

 なにせ、女王は今、先代という立場だ。隠居するような歳じゃないだろうと、なんとなく察してはいたが……。


「レゼル、あまり咎める目で女王を見るな。彼女もまた、リシュナと同じ被害者なのだからな」


 女にはあくまでフェミニストを貫けとばかりに、陛下が俯いた女王の肩をさりげなく抱いた。

 俺も別に女王を責めたいわけじゃない。いや、責められるわけがないと、もうわかっている。

 リシュナを抱いた時の感極まっていたあの表情。リシュナを呼ぶ声。

 心根が素直であたたかな人柄なのだと、誰だってわかるからな。


「……アンタもリシュナと同じように、エグい手で女王の座を追われたわけか」


「レゼルクォーツ、他国の王族に無礼を働くな。グランヴァリアの品性が疑われる」


「今は礼儀だの何だの守ってる場合じゃないだろ? 宰相殿……」


 俺が知りたいのは、リシュナに関わる全てだ。

 母娘に何があったのか。何故、リシュナだけが幽閉され、理不尽で横暴な仕打ちを受けなくてはならなかったのか。知りたいことは山ほどある。


「構いません。もう女王でもありませんし、……ロシュ・ディアナの国にも、必要な時にしか帰っていませんから」


「どういう事だ? アンタは、ロシュ・ディアナから来たんじゃないのか?」


「今の私は……、『在るべきではない者』、なのです」


 在るべきではない……、そういう事か。

 この女王が先代と自分の立場を告げてきた理由……。


「ロシュ・ディアナでは、アンタは死んだ事になっているんだな?」


「若くして国を継いだ麗しき先代陛下は、たったの百年余りでその御代を奪われた……。表向きには病死という事になっているが、騎士殿……、君が言った通り、とてもエグい方法でこの世から抹殺されそうになったのだよ」


 その事件が起きたのは、今から五十年ほど前の事らしい。

 第一王女として国を継いだこの女王は、種族の未来を考え、外の世界との交流を行う為に奔走していた。

 だが、頭の堅い議会や、種族性を守る為に我を張る連中をどうこうするには、並々ならぬ労力が必要だった。

 そして、変革を望む女王をただ見ているだけで終わるわけもなく……。


「私を邪魔に思っていた者達は、私の、女王の食事に毒を盛りました。誰にでも効くようなものではなく、一個人にだけ効く……、猛毒を」


「哀れ、先代陛下は自分だけに適した猛毒をそうとは知らず呷ってしまい……、ああ!!」


「ふふ、ちょっとお口にチャックしましょうね、ド変態さん」


 陛下に支えられながらソファーに座った女王が、自分の背後でクルクルと踊りながら語る仮面の男を振り返りながら笑顔で圧をかけ、黙らせる。……そういう面では強いんだな。


「こほんっ。彼の言った通り、私は知らずに毒を飲んでしまいました。即効性の、猛毒を」


「なら何故……」


「その毒に、細工がしてあったからです。作った方が依頼者を陰で裏切り、仮死状態にしかならない成分で作ってくださったお陰で……、あまり認めたくはありませんが、私は救われたのです」


 毒の調合を依頼された者が、依頼者を裏切った、か……。

 女王にとっては奇跡に等しい舞台裏の話だが、何とも都合が良い話だ、と言えなくもないんだ、が……。

 女王の後ろで、仮面着けてんのにドヤ顔オーラでこっちを見てくるド変態が気になって仕方がない。

 まさかと思うが……。


「ド変態に助けられたんですか?」


「ええ……。前々から知ってはいた人なのですけど、まさかド変態さんに助けられるとは思いませんでした」


「ふぅ……、まったく。自分達と少々毛色が違うからといって、すぐ変態や変人の枠に当てはめるのはどうなのかね? いいかい? 人は、皆違って皆変態祭りという格言が」


「私は仮死の薬となったその毒のお陰で助かり、シルクや仲間と共に国から外の世界へと逃げ延びました。そして……、こちらの世界の事を学びながら、時を待っていたのです」


 暗殺されかけた悲劇の女王、か。

 恐らく、議会を始め、政敵も多かった事だろう。

 ……ところで、その仮面のド変態男はどんだけ自分の手柄を主張したいんだろうな?

 女王の顔の横にグイグイ自分の顔を亀の首みたいに……、あ、女王が奴の顔にアイアンクローを。

 俺がちらりと、奥の席で一人用のソファーに座っている陛下に目をやると、……笑いたいのを必死に堪えてるな、ありゃ。宰相殿はそのすぐ斜め前のソファーに腰を据え、話が早く進まないかと苛立っているようだ。

 俺も同感だ、宰相殿。早く話の本題……、リシュナに関わる事を聞きたい。


「それと、先にお伝えしておきますが……。リシュナちゃんがロシュ・ディアナの国に連れて来られたのは、私が暗殺されかけたのと同時期です。そのせいで……、私は自分が逃げるのに精一杯で……、あの子の事は後から知らされたのです。……本当に、本当に、ごめんなさいっ」


「陛下、あの時は仕方がなかったのですよ……。陛下がロシュ・ディアナに在られていたとしても、リシュナ様を救えたかどうかはわかりません。……始祖の祝福を受けた巫女である現女王が国を治めるようになったのですから」


 シルクと呼ばれていた女王の側近が仮面の男を蹴り飛ばし、その背後につきながら女王の華奢な肩に手を置いた。主と部下、という関係よりも、もっと親しみのある気配が漂う二人のように思える感じだが、それは別にどうでもいい。


「つまり、アンタが国を追われる際にリシュナがロシュ・ディアナに引き摺り込まれ、次に即位した現女王は……、話が通じる相手じゃない、って事でいいのか?」


 暗に、アンタを毒殺しようとしたのは、今の女王なのかという意味を含ませてみたが……。

 先代女王はシルクと顔を見合わせ、迷っているような素振りを見せ始めた。


「早くしてくれ。俺は全てを把握し、一刻も早く、リシュナの所に行きたいんだ」


「その……、リシュナちゃんの事なんですけど、……今から話す事は、絶対にあの子には教えないと、約束して頂けますか?」


「陛下……」


 女王の心配げな、意味深な言葉に片眉を跳ね上げ自国の王に視線を送ってみると、頷きが返ってきた。

 リシュナに話しては不味い事、というわけか。

 

「わかった」


「ありがとうございます。……現女王は、始祖……、あの、アレス様のお国にも、始祖様はいらっしゃるのしょうか? 伝説的な何か、ではなく」


「あぁ。公に出て来る事はないが、それなりに有意義な時間をお過ごしになられている」


「やはり、いらっしゃるのですね……。元は御柱様に仕えし夫婦神であったと、古い文献に断片的に残っておりましたので……」


 始祖……。どの種族にも源流たるはじまりの者がいるが、俺達の種族、グラン・ファレアスと、ロシュ・ディアナは違う。元が神に仕えていたせいかもしれないが、死した後も、魂となり、愛しき己が種族を守護しているのだと、そう聞いた事がある。……だが、


「本当にいるんですか? 陛下」


 つい、ぽろりと本音が出てしまった。

 始祖を祀る神殿とか、そういう物の事じゃないのかとも思ったが、陛下は至って真面目な顔で言った。


「普通にいるぞ。普通に自分の領域で寝起きし、美味い物を喰い、美酒を食らい、時には城下に繰り出して、俺の姿を使って娼館に、おっと」


「陛下……、それは王族たる私も初耳なのですが?」


 おいおい。始祖ってのは、そんな自由なもんなのか? つーか、いるのか、本当に。

 俺達はともかく、宰相殿も知らなかったのか……。

 きっと、王だけの秘密ってやつなんだろうな。

 その話を楽しそうに聞きながら、女王は小さな溜息を零した。


「とても良い事だと思います。グラン・ファレアスの始祖様が心穏やかにお過ごしになられているなんて。……ロシュ・ディアナの始祖様は、まったく、逆で……」


「ロシュ・ディアナの始祖殿も、魂だけの存在なのだろうか? 女王よ」


「はい。ですが……、始祖様はずっと、ずっと、何百年、何千年も、ある目的を達しようと、執拗になられていて……、とても、心健やかには」


「それは、……どこかに旅立たれた御柱殿を呼び戻す為の?」


「やはり、グラン・ファレアスの王ならば、お聞きになっていて当然ですよね……。はい、御柱様をこの世界に呼び戻す為、始祖様は儀式に使う『器』を探していらっしゃいます」


 この世界を創造せし御柱の君……。

 それは、お伽噺の類でしか感じられないような存在だが、神の眷属が実在するのなら……、神という存在もまた、否定ではなく、肯定されるべきもの、か。

 神が不在の世界にどんな影響が及ぶのかはわからないが、ロシュ・ディアナの始祖が躍起になってその帰りを待っている、という事は……。

 顎に拳を添わせながら俯いた俺に、穏やかに笑む気配が向けられる。


「レゼルクォーツさん、大丈夫ですよ。今のところ、この世界が滅びるとか、そういう危険な予兆はありませんから」


「わかるのか?」


「一応……。ロシュ・ディアナは神の眷属として今まで存在してきましたから、世界の異変などには敏感なのです」


「だが、今に安心できても……、未来までは読めないだろう? 女王陛下」


 俺の視界からフェードアウトしていたはずのド変態が女王の背後からまた顔を出してきた。

 その隣に立っているシルクが頭痛を覚えているかのような溜息を小さく零すが、奴の口を塞ぐ気はないらしい。


「未来を読めるのなら、こんなに不安な心地ではいないわ……」


「女王よ、少し横になるといい。話は俺が引き継ごう」


「アレス様……、ありがとう、ございます」


 女王を労わる眼差しを向け促した陛下に、女王が小さく頷いてからソファーに身体を横たえた。

 昼間はニコニコと笑っていたが……、どうやら疲労が溜まっているらしく、今は顔色が悪く見える。 

 いや、元から気を張り続けていたんだろうな……、何十年も。

 陛下が席を立ち、女王の傍に膝を突きながらその額に己の額を押し当てる。

 真紅の光と月明かりのように柔らかな白銀の光が淡く、小さく生じ始めた。


「――記憶は受け取った。暫し眠るが良い」


「で、も……」


 女王の体調と心を思い遣っているらしき陛下がその瞼に手を翳せば、女王は穏やかな寝息と共に瞼を閉じていった。……流石陛下。どんな時でも女に無理はさせないフェミニストだな。


「レゼル」


「はい」


「先程の世界の存続に関する話から答えるが、これに関しては俺も始祖から伝え聞いている。この世界は、いや、他の世界に関しても仕組みの根本は同じらしいが……。各世界に、親たる『御柱』の存在を刻む事で、世界はその命を保つ。だが、『御柱』が何らかの理由により、『不在』となった場合……。その期間が長くなればなるほどに、世界は自分が生きる為の力を持っている存在からそれを得られず、徐々に崩壊が始まる」


「じゃあ、この世界の御柱がいつまでも帰還しない場合……」


 ソファーに腰を下ろし、女王の頭を自分の膝に乗せてやりながら、陛下が頷く。

 俺達の生きる世界が子だとすれば、御柱は親、か。

 ならば、いつまでも戻って来ないその神は、親失格だ。

 なるほどな……。ロシュ・ディアナの始祖が焦り、御柱の帰還を叶えようとする気持ちはわかる。

 ――その話だけ聞けば、神の眷属としてご立派な事だと、感心も出来るんだが。


「陛下、御柱……、神とは、どのような手段で連絡を、いや、強制的に帰還させる事が出来るんですか?」


「『声』を、神の眷属たる者達がその声に願いを託し、御柱の神に乞えば応える、……という話らしいが、我がグラン・ファレアスの始祖曰く、「器を失っている我々では、届ける声を持たぬ」だそうだ。その為、ロシュ・ディアナの始祖は己が種族の中から力の強い者を『巫女』として据え、御柱の神に祈りを捧げ続けているそうだが……」


「どれもハズレばかりでね~。我が始祖殿は相当にお怒りのご様子だ。ククッ……、女性のヒステリーと言えばいいのかな。――もう何百人も被害者が出ている」


「……なら、先代女王や現女王はどうなんだ? 王家の血筋なら、器としても使えるんじゃないか?」


 女王に毛布を掛けているシルクが、面白そうに喋る仮面の男を苛立たしそうに睨む。

 こいつらは仲間、という認識でいいみたいだが、……利害関係がなければ誰が一緒になるいるものか! と言いたそうだな。


「そうだね。先代女王陛下も勿論、器として候補に挙がっていた。だが……、生憎と始祖殿と彼女の相性は悪く、器として使おうにも憑依出来なかった。使い捨ての駒として使われずに何よりだが……、現女王陛下はその面では運が悪かった。自由に飛び回っていた美しい小鳥は、五十年ほど前に外の世界から連れ戻され、――その身を捧げる他なかった。いやぁ、哀れな生贄になってしまったね、現女王陛下は」


「現女王陛下は類稀なる素質の持ち主であり、始祖が歓喜し、祝福まで授けた愛し子です。ですが、彼女もまた、我が主と同じく、ロシュ・ディアナに外の世界の風を招こうとしていた同志でした。始祖からの『器』として生涯を捧げよという命(めい)に逆らい続け……、『弱み』を握られた末に囚われの身となった」


 世界を存続させる為に、神への生贄とされた悲劇の女王……。

 陛下が補足した話によれば、『器』にさせられた者は始祖の憑依を受けるせいで多大なる負担を強いられ、御柱に『声』を届ける『祈り』の時にも、その命を削られる程のリスクを背負うのだという。

 生贄……、その表現を過剰な被害妄想の産物とは誰も言えないだろう。

 望んでその役目を負ったわけではなく、……脅されて、か。

 陛下達の話を聞くにつれ、不快な思いが胸に染みていくのと同時に……、ある答えが浮かび上がってきた。

 リシュナには決して話せない、……そう納得出来る程の材料が揃いつつある。

 俺が顔を上げ、宰相殿の方に視線をやると、……案の定、苦悶の色がそこにあった。

 

「……だが、現女王を『器』としても、始祖は御柱を呼ぶ事が出来ないでいるそうだ。本当にその『声』が神へと送られているのか、いないのか……。もしくは、神自身がこの世界に戻る気がない、のか。成果が得られないにせよ、『巫女』は命を削られ続ける」


 陛下の双眸に、始祖を心底嫌悪する怒りの情が滲み始める。

 世界の為とはいえ、あまりに多くの命を犠牲にしてきた神の眷属の……、その傲慢さに。

 そして、今、刻一刻とその命を削られ、使い捨てられようとしているのは……っ。


「陛下、グランヴァリアの力があれば、ロシュ・ディアナの国に乗り込めますよね? こっちにはもうロシュ・ディアナの先代女王達がいるんですから、扉は楽に開けるはずです」


「楽に、は……、無理だねぇ。本物の偽女王一行とすり替わった事もバレてるだろうし、国への入り口は全て封鎖され、『ロシュ・アルヴァーディナ』の団体が……、おやおや、やっぱり来てしまったか」


 暢気に不穏な情報を並べ立てた仮面の男が、窓の外に視線を流し、「せっかちさんだねぇ」と苦笑を感じさせながら呟く。――直後、王宮全体を押し潰すかのように生じた、強大な圧力。

 外から感じる気配は……。


「おい、なんでお前達と同じ気配が外に群れを為してるんだろうな?」


 仮面の男や、あの異空間で俺とリシュナを襲ってきた一段と、まったく気配が同じ集団。

 人はそれぞれ気配が違って当たり前だが、一種の群れに共通する全体的な気配に酷似している。


「その答えは、さっきあげたはずだけどねぇ。さてと、私は一足先に帰らせて貰おうかな。シルク、後はよろしく頼むよ。まぁ、……全員殺しても、文句は言わないから安心したまえ」


「はぁ……。割り切りが良いと言うべきか、……貴方はどこかで修理してきて貰った方がいいですよ」


「ククッ……。私を直してくれる奇跡の凄腕がいるのなら、お目にかかってみたいものだね。じゃ、私は帰るよ」


 この部屋に向かって強烈な殺気を束にしてぶつけてくる外の連中と関りがあるような事を言っておきながら、仮面の男は俺達に背を向け、後ろ手に両手を組みながら……、空間を渡る闇の中へと鼻歌まじりに消えていった。

 ったく……、結局何だったんだ、あのド変態は。

 最初に異空間で会った時に比べて、随分と人格がふざけたものに変わっていたが……。


「ふぅ……。女王が穏やかに眠っている時間を邪魔するとは、どこまでも無粋だな、あの連中は……。レゼル、異空間にあの連中を送り込んでおくから、お前達だけで対処出来るな?」


「はいは~い! 陛下が行った方が瞬殺で終わると思いま~す!!」


 あくまで女王を起こさずに、自分は動かないと宣言しているようにしか見えない陛下に、クシェル兄貴が手を挙げて言った。俺もそれには同意だ。陛下なら五分もかからずに殺れるだろう。

 

「俺には別の仕事がある。お前達が存分に暴れられる異空間の維持と、女王の護衛、有事の際の対処。外側の仕事はお前達よりも多く大変だ。というわけで、行って来い」


「えぇ~、なら、俺も外サイドがいい……っ」


「俺はリシュナの様子を見に」


「クシェル……、レゼル……、早く行かないと、陛下の前に、レイズフォード様に殺られるぞ。はぁ……」


「そうなりたくなければ、さっさと片付ける努力をしろ。私は先に行く」


 俺と同じく、リシュナに……、いや自分自身にとって信じ難い事実を知らされながらも、宰相殿は陛下に命じられるまま、静かに外の対処へと出て行く。

 ロシュ・ディアナの現女王……、リシュナの母親。

 そして、宰相殿にとっては、……かつての想い人。

 本気で愛した女の居所がわかり、現状まで知ってしまった。

 それでも……、アンタは自分を押し殺し、愛しい女の許に駆けつけたい衝動さえ隠し通そうとするんだな。

 

「……俺だったら、無理だ」


 そう、俺自身の話だったら、もし、リシュナがある日突然行方不明にでもなって消えてしまったら……。

 必死に捜しても見つからず……、長い年月の果てにリシュナの居場所を掴み、苦しんでいると知ってしまったら……。――俺は、誰の言う事も聞かず、飛び出して行ってしまうに違いない。

 失ってしまったぬくもりを求め、この腕に掻き抱く為に……。


「レゼル……、どうした? 早くしなければ、敵が城内に」


 宰相殿に自分を重ね、暫し足を止めていた俺はフェガリオの声でハッとし、……そして、両目を瞬いた。


「……レゼル?」


 俺は今……、何を、考えていた?

 愛おしいと思える女など一人もいやしないというのに、宰相殿と何を同じに考え、『共感』した?


「いや、……ははっ、ちょっと先の戦いで、疲れて……、すぐ行く」


「あぁ……。だが、きついのなら無理はするな。俺とクシェル、そしてレイズフォード様がいれば、すぐに片付くだろう。お前はサポート役にでも徹しておけ……」


「サンキュ」


 フェガリオの気遣いにへらりと笑い返し、足を急かして部屋を出て行く。


「……リシュナ」


 歩きながら無意識に囁いた妹の名。

 大切な……、大切な、……俺の――。

 胸の奥に灯った、心地良く淡い小さな光。

 俺を何よりも幸せな心地にさせてくれる、妹の可愛らしい笑顔。


「……リシュナ」


 ここにはいない妹の音を、もう一度囁く。

 返事などあるわけもないが、名前もまた、リシュナの一部だ。

 その存在を感じられるなら……、俺は――。


『……し、てっ!! 私のっ、……嫌、……嫌ぁああああああっ!!』


「――っ!!」


 喜びと、掴んではいけない『輪郭』に俺の心が触れようとしたその時。

 

「くっ……」


 ――俺の脳裏に、決して『忘れてはならない瞬間』が、ハッキリと蘇ったのだった。

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