珍客と、まったり温泉事情

  ――Side リシュナ



「ふぅ……、癒されるな」


「「「はにゃぁ~……」」」


 いつもとは違う、なんだかとろ~んとした心地になるぬくもり。

 今、私とディル君、それとオルフェ君はとあるお客様の腕の中だ。

 クシェルお兄様やレゼルお兄様よりも大きな体格の、だけど、とっても優しい穏やかな目をした男性。

 初対面の人なのに、こうやってぎゅ~っと抱き締められていても、嫌という感情が全く湧かない。

 存在そのものが、絶対無敵の癒し系というか、何か特別なオーラかフェロモンでも発しているのだろうか?

 私とディル君達がまるで子猫のように蕩けきっている姿を、向かい側のソファーに座っているクシェルお兄様が、呆れ気味に観察している。


「ファル兄貴……、レゼルの奴が拗ねるぞ」


「父上と母上が、妹達を可愛がって来い、と、そう言ったんだ。兄弟妹的に間違ったスキンシップではないだろう?」


 頭の上で静かな余韻を持って響く、低音よりももう少し重みのある音。

 私が瞼を開けてその顔を見上げると、そこには弟妹を、というよりも、小動物を愛でているかのようなアメジストの瞳が微笑んでいる。

 ファルディアーノ・ソレイユ・グラスティア……。

 突然、何の予告もなく我が家にやって来たこの人は、なんと、レゼルお兄様とクシェルお兄様のお兄様だった。

 お土産に、手作りのケーキやクッキー、それにお花まで持って来てくださって……。


「お前達は、嫌だろうか? 私にこうされるのは」


「「「もっと、むぎゅむぎゅしてください!!」」」


 礼儀正しくて、優しくて、抱き締められても不快感が全くない人。

 それどころか、こうされていると、心と身体の疲れが一気に抜けて、内側から癒されていくかのような、そんな素敵なぬくもりを、誰が嫌がるというのか。

 私達三人からの返答に、ファルディアーノお兄様の目元がもっと深く和む。


「リシュナ……、お前、後、覚悟しとけよ」


「はにゃ~……」


 クシェルお兄様が何を危惧しているのか、最高のぬくもりに身を委ねていた私の頭は完全に思考を放棄していた。こういう光景を見たら最後、『某あの人』がどういう反応を起こし、どんな顔をするのか……。

 すでにその未来を察知していたクシェルお兄様が注意を続けようとした矢先のこと。

 ――我が家の扉が大きく開け放たれ、上機嫌な声が響き渡ってきた。


「たっだいま~!! 愛する我が家!! 愛する俺の家族!! 俺の可愛い、いも……ぅ、と、――ん?」


「はぁ~……、バッドタイミングだな」


 グランヴァリア王国に行っていたレゼルお兄様がフェガリオお兄様を抱え帰還した瞬間。

 玄関口から見て左の方にあるリビングスペースから、ファルディアーノお兄様が肩越しに振り返り、私達もレゼルお兄様の方にひょいっと顔を出した。

 ピタリと重なり合う、私とレゼルお兄様の視線。

 

「……あ」


「…………」


 飼い主を裏切ったペットの気持ちになってしまうのは、……仕方がない。

 


「あぁ、お帰り、レゼル。邪魔をさせてもらっている」


 三年前のちょっと怖い出来事を思い出してしまい、つい、ファルディアーノお兄様の胸元に添えた手に力が入り、ぎゅっと服を握り込んでしまう。

 レゼルお兄様は私が誰かと仲良くする事に文句は言わないけど、必要以上の接触には不満げな顔をする。

 大図書館のアウニィーさんに抵抗むなしく、むぎゅむぎゅされた時も、その現場を目撃したレゼルお兄様の機嫌が悪くなってしまって……。

 だから、今回もまたそれかな、と思ったのだけど。

 すぅー……、と、レゼルお兄様の笑顔が消え、てっきり、凄く冷たい顔になるかと思いきや、――え?


「――ファル兄貴!! 俺もむぎゅむぎゅしてくれぇえええええっ!!」


「ぇえっ!?」


「よしよし。レゼルは良い子だな。ついでに、頭も撫で撫でしてやろう」


 私達ごとがばりと両手を広げ、ファルディアーノお兄様に抱き着いてきた大きな大きな弟さん。

 その顔は、くしゃくしゃに歪んでいて、今にも大泣きしそうな子供そっくりで……。

 まぁ、怒られたり文句を言われたりするよりはマシ、なのだけど……。


「うっ、ぐぅっ……、れ、レゼルお兄様っ、苦しっ、ちょっ、ど、どさくさに紛れて、こっちに頬ずりしないでくだ、さぃっ!!」


 間に挟まれている私達は、大迷惑、というよりも、命の危険に晒されているようなものっ!!

 それなのに、ファルディアーノお兄様は特に慌てるでもなくレゼルお兄様の頭を撫で撫でと、落ち着きがありすぎて、逆に怖い……。


「おじいさまの気配が残っているな……。逃げてきたのか? レゼル」


「うぅぅっ!! もうちょっとで殺(や)られるところだった……っ!!」


「だ、だからっ、レゼル、おにい、さまっ、ちょっ、ちょっと、は、放れてくだ、さいっ」


 それに、レゼルお兄様の懐には何故か気絶しているフェガリオお兄様までいて、――み、密度が、さらにっ!! こ、このままだと、私達の命がっ!!

 三人であっぷあっぷしながら、脱出を図ろうとしていると、急にかかっていた圧力が消え去った。


「帰って早々、鬱陶しい真似してんじゃねぇよ、愚弟。ほら、どけ。ガキ共がぺしゃんこになるだろうが」


「うぐぐっ!! く、クシェル兄貴っ、く、苦しっ、痛ぇっ!!」


 子供のようになっていたレゼルお兄様の首根っこを鷲掴んで回収してくれたのは、クシェルお兄様だった。

 ふぎゃんっ!! と情けない声を漏らし、絨毯に転がされたレゼルお兄様……。

 クシェルお兄様がイライラした様子でその背中を踏み付け、ぐりぐりぐり……!!


「たかが、クソジジィ一匹にエンカウントしたぐらいで泣きつくんじゃねぇよ」


「く、クシェル兄貴だって……っ、じーさまに会ったら毎回ボコボコにやられてるだろう、がっ」


「ヘタレなお前と一緒にすんじゃねぇ。俺はジジィに真っ二つにされようが、心までは折らせねぇよ」


「ぐぐっ……。……はぁ、てか、なんでファル兄貴がいるんだよ。何も聞いてないぞ」


 負けを認めたのか、懐からよろよろと小さな白旗を出して振り振りしながらこちらへと振り向いた顔。

 クシェルお兄様も、ファルディアーノお兄様が訪問してきた時はすっごく驚いていたけど、……。


「あの、クシェルお兄様」


「なんだ?」


「どうして、ファルディアーノお兄様がいらっしゃった時、あんなに驚いていたんですか? 普通に吃驚(びっくり)した、とは違う気が」


「リシュナぁあああっ、帰ってきた元祖お兄様は無視なのかっ!?  そして、なんで、初対面のファル兄貴をもうお兄様呼びなんだっ!? 早すぎるだろっ」


 と、匍匐前進でこっちに向かいながら喚いているレゼルお兄様は無視しておこう。

 でも、本当に不思議だ。自分のお兄さんが訪問してきたぐらいで、大絶叫するほどの驚きを発する人なんて……。解放されたディル君とオルフェ君も同じように頷き、三人でファルディアーノお兄様達を見やる。

 すると、クシェルお兄様が自分の髪をくしゃくしゃと乱しながら口を開いた。


「ファル兄貴は……、あ~……、なんつーか、……まぁ、所謂あれだな。引きこもりなんだよ」


「引きこもり……?」


「クシェル、それには語弊があると思うぞ? 私は任された仕事がない時は気が向かない限り、外出しないだけなんだ。だが、外出しない時も、庭でちゃんと日光浴をしている」


「今日以外で、前に外出したのはいつだ?」


「ふむ。そうだな……、確か、……半年ほど前だな」


「な? 正真正銘の引きこもり体質だろ?」


 部屋に籠りきりよりはマシと思うのだけど……。

 でも、どちらかというと、お庭を散歩したり、日光浴をしたりしているのなら、健康的な部類なんじゃ?

 

「ともかく!!」


「きゃっ」


 引きこもりの定義について一人思案していると、クシェルお兄様のお仕置きから脱してきたレゼルお兄様が私をファルディアーノお兄様からベリッと引き剥がしてしまった!

 あぁっ、私の癒しがっ、あったかな巣がっ。

 

「ファル兄貴がただの散歩でここまで来るわけがないだろ? ……サラに何か、いや、親父達から何か面倒な頼まれ事でもしたんじゃないのか?」


 サラ? 聞き覚えのない名前……。

 レゼルお兄様の顔を見上げていた私は、その音を口にした時の……、一瞬だけ垣間見えた苦痛の色に痛みを覚えた。サラ……、サラ。きっと女性の名前なのだと、この人にとって……、特別な情を向けられている相手なのだと、本能的に直観する。

 ファルディアーノお兄様はディル君とオルフェ君を絨毯に下ろし、もう冷めてしまった紅茶に手を伸ばす。


「安心しろ。サラなら落ち着いている」


「……そうか」


「レゼル……。用件の方だが、たまには遠出をして来いと母上に脅さ、いや、勧められてな。ついでに、義妹への挨拶と、結界の補強と、穴がないか見て来い、とも言われてきた」


 三人のお兄様達が何かを探り合うように話をしている間中、私の視線はずっとレゼルお兄様の顔ばかりを見ていた。


(レゼルお兄様……、サラって、誰なんですか? どうして、あんな辛そうな音で……)


 ほんの一瞬だけ。あの音に……、レゼルお兄様の感情の全てが込められていた。

 いつも私の事を可愛い妹だと、面倒な程に絡んでは甘やかしてくるこの人の心が……、サラという誰かの存在だけでいっぱいになったのだと、何故か、そう思えたのは……、私の気のせい、なのか。

 話が終わるまでの間、私の心はモヤモヤとした嫌な感覚に苛まれながら、目の前の服を強く、強く……、握り締めていた。






 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「はふぅ……」


 ファルディアーノお兄様がグランヴァリアにお帰りになってから一週間。

 今日も特別クラスでの授業を終え、平穏に一日が終わりに近付こうとしている。


「お風呂最高です……、はわ~」


 この三年の間に改装された、異国情緒を感じさせる『露天風呂』仕様の大浴場。

 湯船の周りには大きな石がぐるりと並び、嗅ぎなれないけれど良い匂いが鼻腔に漂ってくる。

 お湯には薄っすらと緑が滲んでいて、時々、カポーンと、謎の音が聞こえてくるけれど、それもまた、不快ではなく、なんだか落ち着くものだ。

 

「レゼルお兄様~……、気持ちいいですね~。はぅ~ん」


「だなぁ。……このまま、ふあぁぁぁ、マジで寝そうな心地良さだ」


「同じく~」


 私の隣、というか、少し離れた距離にいるレゼルお兄様が、お酒の入っている異国の徳利(とっくり)という、上の部分に口があり、下部分はふっくらとした造形の物を持ち、お猪口(ちょこ)と呼ばれているグラスがわりの器を使って最高の時間を楽しんでいる。

 ちなみに、レゼルお兄様の見上げている視線の先には、王都の遥か上空に広がっている美しい夜空が天井の代わりに幻想的な世界を演出していた。

 兄妹二人、のほほ~んとまったり出来る最高の環境。

 ちなみに、何故私とレゼルお兄様が混浴仕様なのにお互い平然と、いや、気を抜きまくって和んでいるのかというと、――慣らされたから、だ。

 別にいかがわしい事をされた、というわけではなく、男所帯の中で暮らして行くにあたり、ある程度の免疫を作っておいた方が良い、というクシェルお兄様の案のお陰である。

 家の中では、誰かが上半身裸で出て来る事や、お風呂上りに下着姿で出て来る、という事もあるし、……まぁ、この大部分がクシェルお兄様がしでかす事なのだけど。……レゼルお兄様もたまにやらかすし。

 なんにせよ、男性というものに慣れておくのが後々の為だとクシェルお兄様に力説され、男の人の上半身やちょっと無防備な姿に慣れる訓練を施された。レゼルお兄様はすっごく反対していたけど。


『だ~め~だぁあああああっ!! 女の子は奥ゆかしく、恥じらいがあってこそだろう!! 野郎の裸なんか、可愛い妹にガン見させられるかあああああああああっ!!』


『あぁ? じゃあよ、お前のその可愛い可愛い妹が、ある日突然、全裸の不審者とかに遭遇したらどうすんだよ? 妹の初ガン見がクソ野郎の汚物でいいのかよ?』


『あの、流石に慣れるといっても、男性の下の部分は絶対見ませんからね? 見ませんよ……!!!! 絶対にっ!!!!!!!!!!』


『当たり前だああああああっ!!』


 で、何がどうなったのかはもう覚えていないけれど、結局、男性の露出された肌に対する免疫を養う為、私は徐々に徐々に、頑張って慣れていった。勿論、下半身は除く。 

 だから、自分の身体にはタオルを巻き付けているし、レゼルお兄様も腰にタオルを巻いているから、特に抵抗なく一緒に温泉を楽しめている、というわけなのです。はふ~ん、温泉気持ちいい。

 楽園のような場所でまったり出来る幸福に感謝しながら、私はレゼルお兄様がぐいっと喉奥にお酒を煽る様子を盗み見る。


「レゼルお兄様……」


「ん~?」


「お酒、って、美味しいですか?」


「そうだなぁ。これは異国のもんだが、結構クセになる刺激と旨味がある。普段飲んでるワインも好きだが、これは大人にならないとわからない味だろうなぁ」


 大人……。今の私は子供の姿だけど、本来の姿である大人の姿もちゃんとある。

 一応、人間の世界では十六歳で成人だから、今十七歳の私は立派に大人だ。

 だけど、ロシュ・ディアナとしてはどうなのだろう?

 吸血鬼達の王国を統治する国王様のお話では、ロシュ・ディアナも彼らグラン・ファレアスも、人間よりも歳を重ねなければ成人出来ないと聞いている。

 なら、たった十七年と少ししか生きていない私はまだ子供?

 

「レゼルお兄様、私がお酒を飲めるようになるのはいつですか?」


「は?」


「私も、レゼルお兄様と同じように、お酒の味を知って、楽しんでみたいです」


 真顔でそう訴えると、レゼルお兄様はコトンと徳利をお盆に置き、凄く困った顔でう~んと唸り始めた。

 お酒のセットを載せているお盆が、ぷかぷかとお湯の海をゆっくりと泳ぎ始める。


「お前は、ロシュ・ディアナ、だからなぁ……。あ~……、成人年齢に関する詳細が曖昧、というか、……そんなに酒が飲みたい、のか?」


「すっごく、というわけじゃありませんけど、……レゼルお兄様と共有出来ない楽しみがあるのは、……寂しいなぁ、と思いまして」


「――ッ!?!?」


 前から思っていた。大人の楽しみだと言って、レゼルお兄様達は子供の私達じゃ楽しめないものを持ち出して……、自分達の世界から私達子供を放り出す。

 その度に、なんだかモヤモヤして、納得出来なくて、狡い、って、そう思ってしまって……。

 大人と子供の間にある壁なんか、無くなってしまえばいいのに。

 そんな不満が、実は心の片隅に消える事なく残っていた。


「い、いいか? リシュナ……っ。俺達は人間とは違う。だから、お前が俺と一緒に酒を楽しみたいと言ってくれるのは、時空の壁を打ち破って飛び出すぐらいに嬉しいが、今はまだ駄目なんだ」


「だから、あとどれだけかかるのか聞いているんです」


「……い、今、十七歳、だから……、…………あ、あと、百年!! そ、そうだ、百年はかかる!!」


「ひゃ、百年……?」


 何故か、物凄い力を声に込めて力説したレゼルお兄様の姿に引きつつ、私は慄く。

 子供だ子供だと言われている私だけど、あのもうひとつの姿なら、大人と言っても大丈夫なんじゃないか、って、おう思っていたのに……っ。私、大人の姿を持っているのに、大人じゃないの?

 大人になるまで、あと、百年も……。


「ごぽぽぽぽぽぽぽぽ」


「うわぁああああああっ!! リシュナぁああああっ!!!!! 沈んでるっ、沈んでるっ、浮上しろぉおおっ!!」


 ざば~ん!! と、ショックのあまりお湯の中に沈んだ私をレゼルお兄様がマッハで引き上げてくれる。

 

「はぁ……、そんなにショックだったのか?」


 身体だけじゃなくて、結い上げている髪からもボタボタ水滴が落ちていく。

 レゼルお兄様は石の囲いの外に置いておいた木製の洗面器、いや、風呂桶という物からタオルを取り、私の顔や髪をわしゃわしゃと拭き始めた。

 

「そんなに……、早く大人になりたいのか?」


「……そういうわけじゃ、ない、んです、けど。いえ、やっぱり、早く、大人に、なりたいです。人間みたいに」


「リシュナ……?」


「今は特別クラスで学ぶ事が多いですけど、出来れば、……高等部の授業も全て終了して、卒業出来たら……、人間の人達と同じように、就職したいな、と」


 そうすれば、少しずつだけど、レゼルお兄様達に恩返し出来る。

 だけど、人間でない私が成人出来るのは、遥か先の事……。

 身体が大人であれば、人間の世界でも就職出来るのか……、それとも、偽造して働きに出るのか。

 いや、問題はそこじゃなくて……。


「……兄様、に、あと百年も」


「ん?」


「なんでもありません。……はぁ」


 レゼルお兄様達に子供扱いされて過ごす日々も勿論幸せだとは思う。

 だけど、時々……、自分が大人だったら、……この人は、私に弱味を見せたり、相談事をしてくれるのかな? と、思う事もあったりするわけで。

 ふと思い出したのは、ファルディアーノお兄様が訪ねていらした時にレゼルお兄様が口にした、『サラ』という、多分、女性の名前。

 レゼルお兄様の……、痛みを抱えたあの声音と、辛そうな表情の意味を、私はまだ知らない。

 グランヴァリアの『寵児』、その意味も、まだ……。

 

「ふぅ……、別に子供のまんまでもいいじゃないか。子供はお得だぞ~? 大好きなお兄様に毎日むぎゅむぎゅして貰えるし、周りからの愛情をいっぱい貰える」


「……そう、ですね。贅沢な話、ですよね」


「まぁ、お前は自立心が強いからな。早く大人になりたいって気持ちはよくわかる。でもな? 俺はまだまだ、子供のお前と楽しい毎日を過ごしたいんだ。もっともっと、お前に幸せな時間を与えてやりたい。俺の我儘かもしれないが、駄目か?」


 うぅ……っ。そんな風に優しく微笑まれながらそっと抱き締められると、駄目って言えないどころか、このぬくもりにずっと甘えていられるなら、子供でもいいかなって思えてしまうから、……困る。

 完全に子供扱いで頭を優しい手つきで撫でられ、願いを込めるかのように、額の前髪を掻き上げられてキスを落とされてしまう。考えなきゃいけない事は沢山あるのに、この蕩けるような幸せに溺れていたくなる。


「レゼルお兄様……、ん?」


「どうした? 急に変な顔して」


「いえ、……あの、何か、変な音が聞こえるよう、な?」


「は?」


 ブクブクと、レゼルお兄様の背後の辺りから聞こえる、水泡が沸き上がってくるかのような……。

 

「げっ!!」


 悪寒でも感じたのか、レゼルお兄様が発したその声の直後、異変の正体が明らかとなった。

 どばーん!! と湯船の中から飛び魚のように現れた全身ずぶ濡れの黒い影がレゼルお兄様の頭を鷲掴み、片手一本で、――あ。


「ぐはぁあああああああっ!!」


「れ、レゼルお兄様……!!」


 まるで石ころ同然の扱い。手加減など一切なくぶん投げられたレゼルお兄様は大浴場一番奥の白い柱に激突という、非常に痛々しい末路を辿った。どぼんと湯船に沈んだのを見届ける。

 あ、あ、あぎゃっあぐっ、ばばんがばばばばばばばんばばっ!!

 語彙力不明になった私はガタガタと震えながら謎の言葉を吐き出し続け、動けなくなってしまう。


「レゼルクォーツ……」


 封じられし、古の大魔王が発する大地の鳴動が如きド低音……。

 自分でもちょっとよくわからないけれど、何故かお湯の中から現れたグランヴァリアの宰相様の表情と第一声に、私はそんな感想を抱いてしまった。――いや、そうじゃなくて、今、何をしたのっ!? この人はっ。

 

「れ、レイズフォード様っ、れ、れれれれれれれ、レゼルお兄様に何をっ」


 宰相レイズフォード様には、礼儀作法や色々な事を時々、グランヴァリアの地で教わっているけれど……、どうしてこの二人はいつもいつも、よくわからないやり取りをするのだろうか。

 顔を合わせれば、途中から嫌味が飛び交い、最終的には物騒な喧嘩に発展してしまう。

 最低最悪の相性……。上官と部下の関係だけじゃなく、二人は伯父と甥の関係でもあるのに……。

 

「あれが保護者たる者の責任を放棄し、好き勝手をしているからだ。私には制裁を下す義務がある」


「制裁……。で、でも、レゼルお兄様は私に何も悪い事はしていません!」


 と、勇気を出してモノ申してみたら、眼帯をしていない方の目でギロリと睨まれてしまった。

 でも、本当に何も悪い事はされていないのだ。レゼルお兄様は私を気遣ってくれただけ。

 家族という関係の愛情で優しく包み込み、私の過去の悪い思い出を全部塗り潰そうと……。


「さ、さっきの宰相様の仕打ちは、酷すぎると思いますっ。レゼルお兄様に、謝ってくださいっ」


「――ッ。……断る。私はグラン・シュヴァリエの長として、レゼルの伯父として、節度を持った行動を心がけるよう」


「謝ってください」


「うっ、ぐっ」


 いつもは呆れ気味に見ているだけだけど、今回は違う。

 だって、レゼルお兄様はレイズフォード様に何もしていなかったし、突然現れてぶっ飛ばしてしまったのはこの人だもの。完全に被害者はレゼルお兄様だった。

 だから、私はレイズフォード様の顔を真っすぐに見上げてお願いしたのだけど……。

 お湯の中からざばりと立ち上がったレゼルお兄様が、ニヤリと口角を上げた状態で顔を上げ、悪役のように嗤いながら言った。レゼルお兄様……、顔がべっとり血塗れになってますよ。


「ふっ、ふふふふふふ。――ドヘタレ宰相、ザマァぁっ! はーはっはっはっ!!」


「あ」


「……リシュナ、今のは……、喧嘩を売られたとみるべきだな?」


「は、はい……。売ってきましたね、完全に」


 私は、レゼルお兄様に非がなかったから、さっきは庇う事が出来た。

 だけど、今のはアウト。思いっきり、自覚ありでレイズフォード様に喧嘩を売ったレゼルお兄様。

 庇えない……。むしろ、残念すぎてどうしようもない。

 

「仕置に入る。お前はさっさと寝る支度でもするといい」


「えーと……、一応、お家を破壊しないように、お願いします」


 お馬鹿なお兄様をジト目で一瞥し、私はレイズフォード様にぺこりと一礼してから、何の迷いもなく大浴場を後にした。……レゼルお兄様、自業自得です。私の訴えも無駄に終わりました。

 

「反省してください、レゼルお兄様」


 私よりもよっぽど子供だ、あの人も、レイズフォード様も。

 身体が成人年齢に達さなくても、精神的には私の方がまともなんじゃないかと、心底そう思って溜息を吐いた何度目かの夜だった。

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