傲慢な吸血鬼と過保護な吸血鬼
「……ふぅ」
人の世界、吸血鬼達の世界。そのどちらにも存在している、夜空の煌めき。
バルコニーの縁に両手を添え、私はぼんやりと澄み切った天空を眺め続ける。
それぞれの父親と時を過ごしている、子供達の事を、考えながら……。
ディル君達は人間の世界で暮らす事を選んでくれたけれど、……。
「う~ん……」
あの子達に自分の想いを伝える事が出来た。後悔を抱えたまま、この国を後にしないで済んだ。
だから、後は待つだけでいいはず……、なのに。
「何か……、違う」
あの時、人間の世界で学ぶ事があるとそう言ったあの子達の選択に、嘘はなかった。
けれど……、ディル君達は、自分達のお父さんを嫌ってはいるわけじゃない。
悲しい事や辛い事があっても、心の底ではヴァネルディオさん達を愛している。
父親の本当の笑顔が見たいと、そう、望んでいるはず。
それなのに……、このまま一方的に袂を分かつというのは……。
「こぉ~ら、夜風に当たりすぎると風邪引くぞ~」
「ん……。重いですよ、レゼルお兄様」
ふわりと背後からまわされた温もりと、頭の上に乗った重み。
冷たい夜風から私を守るように優しく包み込んでくれたレゼルお兄様に、「不法侵入ですよ」と抗議する。
勿論、文句を重ねたところで、このお兄様がへこたれるわけもないのだけど。
案の定、反省一切なしの穏やかな笑い声で誤魔化し、レゼルお兄様は私の頭の上で顔を揺らしながら一緒に夜空を眺め始めた。何も言わない。ただ、一緒にいるだけ。
その、一緒に寄り添ってくれるだけのぬくもりに、私も何も言わず、身を委ねる。
もう私に出来る事は何も残されていない。本当に、待つだけの時間。
レゼルお兄様が現れなかったら、本当に……、風邪を引くまでここに一人だったかもしれない。
だけど、一人にはならない。この人の優しさが、ぬくもりが、私を捜し出し、包み込んでくれるから。
「……レゼルお兄様、そろそろ部屋に戻ります。寝る前にお茶を飲もうと思うので……、ご一緒、しますか?」
妹としての甘え方なんてよくわからないけれど、こうやって気遣ってくれるレゼルお兄様に何かを返したい。
だから、お茶に誘ってみたのだけど、くるりと振り向いた先で私が見たのは。
何だか感動気味にデレッとしている吸血鬼の姿だった。
「うぅっ、リシュナがっ、リシュナがっ、俺を茶に誘ってくれるなんて……っ。ああっ!! 夢かっ、これは夢なのかっ、俺の妄想なのかっ!! いや、違うっ!! 可愛い妹のぬくもりが、確かにぃっ、この腕の中にあぁああああっるっ!! 夢じゃないっ!! 現実だぁあああああああっ!!」
この人の兄像とは、妹像とは一体何なのか……。
お茶に誘ったぐらいでこのハイテンション、変質者レベルで残念な美形と評する以外に言葉が浮かばない。
「少し照れた顔!! 上目遣いの可愛い眼差し!! 神様ありがとうぉおお!!」
「……はぁ」
私の唇から漏れた溜息は呆れ半分、微笑ましさ半分の曖昧なものだった。
まぁ、しんみりとしているよりはマシだけれど……、ん?
ふと、身体がむずっとした感覚を覚え、光に包まれた私は不意打ちの変化に襲われた。
視線の位置が高くなっていく、四肢が急激に成長し、そして。
「う~ん、やっぱり、まだ完全には制御出来てませんね、これは……」
予め、突然の変化にも服が対応出来る術を習っておいて良かった。
レゼルお兄様の目の前で大人の姿になってしまった私は、胸の前にかかっている髪をさらりと梳いて、ほっと息を吐く。……しかし、私の変化を目にしたレゼルお兄様の様子が何やらおかしい。
私の姿をじっと見つめる事数秒、口をぱっくぱくと開け閉めし始め、突然大声をあげられてしまった。
「茶!!!!!」
「え?」
「茶!! 茶の支度をしよう!! そうしよう!! あぁ、そうだっ!! 何かあっさりとした茶請けもっ」
「レゼルお兄様……?」
「リシュナ!! お兄様は茶請けをGETしに旅立つ!! すぐに戻ってくるから、風邪を引かないように暖かくしているんだぞ!!」
「はぁ……」
こんな夜更けに……、茶請け?
甘い物など食べたら、太ってしまうと思うのだけど……。
爆煙を巻き起こすような勢いで室内に消えてしまったレゼルお兄様を見送り、やれやれと肩を落とす。
この身体が初めて変化を迎えたあの朝は、見知らぬ他人と思われ怖い目で睨まれ脅しを受けた。
で、今度は……、大人の姿になった途端に、目の前から逃亡されてしまう、と。
まぁ、子供にしか見えなかった妹が突然大人の女性に変化するのだから、戸惑うのは当然、か。
何だか胸の奥にもやもやと納得出来ないような感覚を覚えながら、私もその後を追うとした時。
「誰?」
視線を感じ、バルコニーの先へと振り向いた私は、空から舞い降りてくる黒い影を見た。
夜風に舞う、波を描く長い黒髪。音のひとつも立てずに私の前に立った傲慢な吸血鬼の肩には、愛らしく鳴き声を上げるシロちゃんの姿もあった。
天獅竜、フェリア・スノウの子供。小さな翼をパタパタと羽ばたかせ近寄って来たシロちゃんを胸に受け止め、両手に抱き締めた私は、その頭を撫でて笑顔を向ける。元気そうで良かった。
「クロさん、フェリア・スノウは?」
「休息中だ」
「そうですか」
相変わらず偉そう、というか、絶対的支配者の気配で私を静かに見下ろしてくるクロさんに首を傾げていると、その手がゆっくりと私の顔に伸びてきた。
手袋の嵌められている、ぬくもりを感じない、擽るような仕草の感触。
「……似ているな」
「……お母さんに、でしょうか?」
「そうだ。中身は似ていないようで何よりだが……、やはり、腹の立つ顔だ」
嫌っている、といったニュアンスは感じられない。
かといって、好きなのかというと、そこはちょっと微妙なところで……。
ただ、クロさんの瞳には、私の存在を通して、私のお母さんを懐かしむ気配があった。
「ふん……」
クロさんにとって私のお母さんがどんな存在だったのか、国王様が話してくれた女性と重なる部分はあるのか、それを確かめたくて、それとなく尋ねてみる。
「私のお母さんを、知っているんですね?」
「ドス黒い化け物級の女だ」
「……化け物、級」
「お前の顔を見ているだけで八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られるが、まぁいい……。そんな事よりも、娘、対価を寄越せ」
「……その事、なんですが。あの、……別の物じゃ、駄目、でしょうか?」
「何?」
クロさんに協力して貰う為に交わした契約。その対価がつまり、――私の血だ。
吸血鬼という種族性からして連想しやすい対価だけど、正直、……困る。
あの時は少しくらいないいですよと答えたものの、レゼルお兄様の激怒状態を目の当たりにした以上、そんな迂闊な真似は出来ない。やったら確実に第二回のお仕置きが発生してしまう。
「契約は絶対のものだ。勝手に対価を変えるな」
「わかってます、けど……。その、私の血を貴方に提供すると、物凄く……、怒る方がいまして」
「ふんっ、知るものか。我は我の働きに見合った対価を要求しているだけだ」
はい、わかってました。クロさんにそういう慈悲とか、空気を読んで気を遣うとか、そういうスキルないんですよね? 自分の好きなように行動するのが普通なんですよね? ……どうしよう。
「あの、……血を提供したとして、それが他にバレないようにする事って、出来ませんか?」
「何故そんな面倒な真似をする必要がある?」
「知られると、また大変な目に遭う可能性があると申しますか……。あの、私、隷属者なんです。だから」
「知っている」
それなら少しは気を利かせてくださいよ。
あぁ、でも、クロさんには関係ないのか。対価を頂いた後に私がどうなろうと、この傲慢な吸血鬼からすれば、何の関わりもない、他人の不幸。
「傷付けたくないんです……。あの人を」
「我には関係のない話だ。だが、隷属者の立場で、主以外の吸血鬼と契約を交わした罪は重い。我に血を捧げる事を、罰だと思え。愚かなロシュ・ディアナの娘」
「罰……」
「それとも、血の代わりに身体を差し出すか? 今のこの……、あの女によく似た顔と、無垢なる身を」
クロさんの目に宿った、嗜虐の気配。
血の代わりに、この身体を……。私はクロさんから視線を逸らさず、口を開いた。
「か、身体を差し出すって……、何をさせる気なんですかっ」
「交わりだ」
「……交わり?」
「……知識がない、などと言う気か?」
交わり……。え~と……、え~と……。
信じられないと言いたげな険しい視線で見下ろしてくるクロさんだけど、正直……、わからない。
身体を差し出す。交わる。……連想的に考えてみても、わからない。
「はぁ……。あの女も面倒だったが、娘もか……」
「クロさん、交わりって何ですか?」
「……自分で調べろ」
「でも、早く知らないと、血の代わりに対価を差し出せません」
「後悔したくなかったら、血にしておけ。その方が楽に済む」
今度は残念な子を見る目……。
仕方ないじゃないですか……。辺境の村暮らしで、勉強も、そこまで高度なものは学んでませんしっ。
王都に住むようになってからは、一応、図書館に通ったりもしていたけれど……。
交わりという言葉は聞いた事がない。
「とにかく、血を寄越せ。我が要求する当然の権利だ」
この傲慢な吸血鬼には、子供や弱者に対する寛容さの欠片もないのか。
……いえ、ない事はわかっているけれど、少しは困っている私の気持ちを汲んでほしい。
私は首筋に顔を近付けて来ようとするクロさんから逃れる為に一歩足を退き、毅然と睨みつける。
「駄目です……っ。血の提供だけは絶対に!」
「おい」
――っ!! こ、この声は……。
背後からぞわぞわと肌に這い寄ってくる不気味な気配。
シロちゃんの可愛い鳴き声を耳にしながら振り向くと……。
「れ、レゼルお兄様……っ」
「……リシュナ、風邪を引かない内に、早く入れと言ったよな? あと、知らない奴と勝手に話しちゃ駄目だろ?」」
「く、クロさんは……」
いや、面識があるとか、そういう問題ではない。
私がクロさんと顔を合わせ、話をしている事自体を快く思っていない様子だ。
刺し貫いてくるかのような殺気を滲ませ、レゼルお兄様が早足で近付いてくる。
「リシュ、――っ!!」
伸ばされたその手が私の腕にかかる事はなく、代わりに漆黒の衣が私の身体を覆い隠した。
それがクロさんのマントだと気付いたのは、すぐ頭上でつまらなそうな声を耳にしたから。
「去れ、邪魔だ」
「リシュナを離せ……!!」
「対価を回収する。後は好きにしろ」
「対価だと……?」
「この娘に助力した対価だ。血を寄越すと、この娘は我に同意した。契約を果たすのは当然の事だろう? だから、邪魔だと言っている」
鬱陶しそうにクロさんがレゼルお兄様を睨む。勿論、レゼルお兄様も殺気を荒ぶらせて同じく。
マント一枚の壁は何の役にも立たない。そう思えるほどに、私の肌には恐れを抱く鳥肌が立ってしまっている。
あぁ……、知られてしまった。一番不味い事を。
隷属者云々を抜きにしても、レゼルお兄様は他の吸血鬼に吸血行為を許す事はないだろう。
あの晩、怒ったレゼルお兄様の様子から、そう感じ取ったから。
「んっ……! く、クロさんっ、離してくださいっ。レゼルお兄様には私から話しますっ」
「必要ない。主を裏切った隷属者には似合いの余興だ。この場で我の牙に穢される姿を、あの主に見て貰え。良い薬だ」
黒一色の壁が消え去ったかと思うと、クロさんは嗜虐の気配を湛えた双眸で私を見つめ、首筋にその鋭い牙を突き立てようとした。――レゼルお兄様の、目の前で。
天獅竜を鎮める為に吸血行為をされた時とは違う。
血を、いいえ、触れられたくない、今の自分の姿を見られたくないという感情が恐怖と共に噴き出し、私はレゼルお兄様の名を叫びながら左手を必死に伸ばした。
直後、私の首筋に触れたはずの牙の感触が消え、身体が浮く感覚に襲われる。
こちらに向かって飛び込んで来た影の一撃を躱し、私を腕に抱いて宙へと逃げるクロさん。
憎悪と暗い光を宿したアメジストの双眸が、バルコニーから私とクロさんを睨み据え、すぐに追ってくる。
「リシュナを離せ……。そう言ったはずだ」
「同じ事を言う気はない。黙って見ていろ。手駒の管理ひとつ出来ん、愚主よ」
「リシュナは俺の妹だ……!!」
「隷属者は元々、吸血鬼の玩具であり餌だ。この娘をそうしたのは、貴様自身だろう? 妹と思う者を、貴様は所有物として手元に置いている。おかしな話だと思うが?」
「違います……!! レゼルお兄様は私の為にっ」
私の命を生かす為に、絶望し、死を選ぶ道を断ってくれた人。
レゼルお兄様は私の恩人で、クロさんの言っているような目的で隷属者に変えたわけじゃない!!
「クロさんっ、レゼルお兄様は私の事を救ってくれたんです!! 私が、私がっ、自分の命を粗末にしようとしたから!!」
「ふんっ、だからどうした? 理由があろうと、その吸血鬼は今もお前を縛り続けている。必要がなくなれば、その契約を解く事も可能だと、わかっていないはずがない。随分と傲慢な事だな?」
挑発的な笑みを向けたクロさんに、レゼルお兄様が言い返せずに押し黙った。
所有物のように扱っている事に対しての、肯定の意味じゃない。私を今も縛り続けている事が事実だから黙っているだけ。
「レゼルお兄様は心配しているだけなんです!! 私がまた、自分の命を捨てたりするかもしれないと……、その可能性を考えてっ」
「隷属者の主としての所有欲や傲慢さはない、と? お前はそう思うわけか」
「はいっ」
「なら、問題はない」
「どういう事ですか……っ」
私を取り戻す隙を窺っているレゼルお兄様を一瞥し、クロさんが私を片腕一本で抱きながら顎を持ち上げる。
「我がお前の血を吸ったところで、あの男に何かを言われる筋合いなどない、という事だ。己(おの)が所有物ではないと言い張った以上、誰に手を出されようと黙認するしかない」
「ふざけるな……!!」
「何を憤る事がある? この娘は貴様のものではない。そう言っただろう? 我が血を吸ったところで、別に死ぬわけでもなく、事が終われば、貴様の手許に戻る。何も問題はない。簡潔な答えだ」
クロさん曰く、私を自分のものだと思ってないのに、何故口を出す権利がある? 怒る必要がある? という事らしい。それに対してレゼルお兄様は、「兄だからだ! 保護者だからだ!!」と、怒鳴り返すのだけど……。
「話にならんな。貴様がやっているのは、疑似的な家族ごっこというやつだ。所詮は赤の他人だと自覚しろ」
「クロさっ、――っ!!」
相手をする事に飽きたクロさんが私の首筋に牙を立てる。
勿論、レゼルお兄様が私を救い出そうと飛び込んで来てくれたけれど、間に合わなかった。
私を抱えているのに、軽やかな仕草で一撃を躱しながら、首筋へと喰い込んだ牙の感触。
「リシュナぁああっ!」
「あっ、……ぁ、ぅぅうっ」
吸血行為。餌として貪られるその行為は、人にとって痛みだけのものではない。
肉を抉り込む痛みを感じるのは一瞬の事で、すぐに奇妙な疼きが全身へと広がっていく。
拒みたいのに、嫌悪感があるのに……、それさえも呑み込んでしまうかのような、危うい感覚。
身体の全てが喜んでいるかのような、蕩けていく心地を味わう。
怒声を上げながらまた攻撃を繰り出してくるレゼルお兄様を嘲笑で躱し、また、牙がさらに奥へと喰い込んでくる。
「――やはり、ロシュ・ディアナの血は、別格だな」
「……す」
「レゼル、お兄、様……?」
白い手袋の指先で自分の口に付いている血を拭ったクロさんが挑発的な意図を持った嘲笑を向けると、レゼルお兄様の身に変化が起きた。
綺麗なアメジストの双眸が、真っ赤な血のように染まっていく。
「――殺す!」
「れ、レゼルお兄様……!?」
その背中を突き破り、宙に現れた漆黒の……、あれは、翼?
私の白翼とよく似た形状をしているそれが、ばさりと夜空にはばたきの音を響かせ、羽根を散らす。
「グラン・ファレアスの寵児……」
「クロさん……?」
意味深な呟きと、危うげなものを目にしているようなクロさんの表情。
グラン・ファレアス……、それは、この世界の、吸血鬼達の種族名。
その寵児、とは……。レゼルお兄様
「厄介なものを野放しにしているものだな……」
呆れ気味に苦笑を零したクロさんが次に取った行動は、思いもがけないものだった。
「グラディヴァァアアアス……! ――っ!!」
私をその両腕に抱き上げ、レゼルお兄様に向かって――、ポォオオイッ!!
「きゃぁああっ!」
「リシュナあああ!!」
沢山のキャンディが散りばめられたかのような夜空が視界を流れ、どさりと収まったのはレゼルお兄様の腕の中。真紅の瞳が心配そうに私を見下ろし、ほっと息を吐いている。
「グラディヴァース、貴様……!」
「ふんっ。貴様が暴走する前に小娘を返してやっただけだろう? グラン・ファレアスの寵児は、扱いに手を焼くと耳にしているからな」
「――っ!! さっさと消えろっ。二度とリシュナの前に現れるな!」
「箍が外れる程に……、ロシュ・ディアナの娘に囚われたか」
「黙れ。リシュナは俺の家族、俺の妹だ。守るのが、俺の役目だ」
信念を持った力強い声音に、やはり、クロさんは嗤う。
「誰が決めた役目だ?」
「俺自身だ」
「その義務などない者が、何故そんな決意を抱く? 人形や餌への執着ではないとすれば、なおさら意味のわからん関係だと思うが」
「貴様に語る必要はない。去れ。二度と俺の、いや、リシュナの前に現れるな」
痛い程に掻き抱かれる身体。レゼルお兄様がクロさんに向ける、憎しみと、激しく滾る、怒りの気配。困っている人を、孤独と絶望に苛まれている人を放っておけない、心優しい吸血鬼。
私へと向けられている気遣いや優しさに嘘はない。――だけど。
……その根本は、過去に負った、何らかの傷。贖罪のように注がれる、無償の情。
クロさんは一度私の方に静かな視線を寄越すと、何も言わずに消えてしまった。
「くそ……っ」
「レゼルお兄様……」
「部屋に戻るぞ」
「……はい」
約束を破ったと、勝手にクロさんと会っていた事を怒られると思っていたのだけど……。
部屋に戻ったレゼルお兄様は、私の首筋に手を当て、指先で傷口をなぞりながら言った。
「リシュナ、次にあの男が現れたら、絶対に相手をするな。無理そうなら、俺を呼べ。隷属の契約を結んでいるから、すぐに駆け付けてやる事が出来る」
「……あの」
怒鳴ったり、この前の暴走を見せる事もなかった。
ただ、……辛そうな表情で、繰り返す。
クロさんだけでなく、他の吸血鬼相手にも、絶対に気を抜くな。常に警戒心を持て、と。
「わかりました……。でも、クロさんは、私の本当のお母さんについて、何かを知っているようなんです。多分、知り合い……、だと思うんですけど」
「駄目だ。お前の母親の事は俺が調べてやる。だから、二度と近づくな」
「でも……、――っ」
口答えしたわけじゃなかった。ただ、クロさんとお母さんがどんな関係なのか、お母さんの居場所を知っているんじゃないかと……、それを自分で尋ねたいと思っただけで。
でも、レゼルお兄様は私が自分に逆らっていると思ったのか、まだ塞がっていない吸血行為の痕へと尖った牙の先を触れさせ、ゆっくりと血肉を抉った。
「痛っ……」
血を吸っているわけじゃない。だけど、やっている事はこの前と同じ。
クロさんの刻んだ痕を自分の牙で上書きし、さらに深く、抉り付けてくる。
吸血鬼の習性、なのだろうか? 隷属の契約を結んでいる以上、レゼルお兄様は主、私はこの人の駒であり、人形。他の吸血鬼に穢されるという事は、縄張りを荒らされる事と同じ、なのかもしれない。顔を顰め、小さな苦痛の声を漏らす私を、レゼルお兄様が横目で冷ややかに見上げてくる。
まだ、アメジストの色合いが戻っていない、赤い、赤い、血塗れたその瞳で。
やはり、咎められているのだと、怒っているのだと……、全身がぞくりと震える。
「……あの男に会う事は、絶対に許さない」
あの晩から、二度目の……、恐怖。
明るくて優しかったはずの吸血鬼。その奥底に隠れていた、今まで気付く事のなかった、……引き出してはならないもうひとつの顔。
知っていたのは、表面的な部分だけだった。そう現実を思い知らされながら息を呑む私を暫くじっと見つめた後、レゼルお兄様はゆっくりと離れていく。
「わかったな?」
「……は、はい」
今は逆らわない方がいい。心を許し始めていた相手に覚えた、底知れない恐怖。
傷口を治癒されながら頷いた私は、レゼルお兄様が部屋を出て行った後に、ようやく力を抜く事が出来たのだった。
「はぁ、……はぁっ」
グランヴァリアの吸血鬼、グラン・シュヴァリエの座にある男。
私の、大切な……、お兄様。保護者。
今の私にとって、この世界で一番安心できる、頼れる、人。
だけど、……あの人は、レゼルクォーツという吸血鬼は、本当は、『何』なのだろうか。
胸元を押さえて息を乱しながら、顔に汗の滴が伝っていくのを感じる。
「ミュイ~!」
「……え? し、シロ、ちゃん?」
バルコニーに姿がなかったから、クロさんの許に戻ったと思っていたのに……。
真っ白な体躯に紋様の刻まれている天獅竜の子供が、心配そうな鳴き声で寄ってくる。
大人の竜よりは何倍も小さなその身体を両腕に迎え入れ、頭を撫でていると……。
「厄介な存在(もの)に執着されたものだな。お前は」
「クロ、さん……?」
窓張りのバルコニー・ドアの側に、消えたはずのその姿があった。
クロさんはこちらに寄って来ようとはせず、面倒そうな視線で私を見ている。
「忠告だ。お前の兄を気取っているあの吸血鬼に、『グランヴァリアの寵児』に、これ以上近付くな」
「……どういう事、ですか?」
「説明など必要ない。あれの傍を離れ、関係を断ち切れ。母親と再会する前に、――死にたくなければな」
「レゼルお兄様の傍にいる事が、何故、死に直結するんですか? 何の説明もなしに、いえ、納得のいく事を言われたとしても、私は」
――離れたくない。
あの人に感じた恐怖よりも強い、即座に口に出た答えだった。
レゼルお兄様が本当はどういう人なのか、どんな過去を、事情を抱えているのか、知らない事を怖いとは思うけれど、それでも……。
あの人が与えてくれた希望、愛情、優しさ、幸福な日々、そのどれもが、かけがえのないものだから。
「頑固なところは、あの女譲りか。――だが、お前があの男の傍に在る事で、いずれあの男を追い詰め、壊す事になってもいいと言うならば、共に堕ちろ」
「……」
「行くぞ、シルフィー」
「ミュイ~!」
「あ……、シロちゃんっ。待ってください! クロさんっ」
現れる時も、消える時も一瞬。
闇夜に溶け消えた傲慢な吸血鬼が私の声に答える事は……、なかった。
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