収束と、怒れる吸血鬼のお仕置き

 ――Side リシュナ


「フェリア・スノウを鎮める方法を教えてやる」


 あっという間に辿り着いた天獅竜、フェリア・スノウの巨大な頭部の眼前。

 クロさんの生み出した無数の鎖がその四肢をきつく縛り付けるように絡み付いており、フェリア・スノウが身を捩り咆哮を上げる度に、鋼の擦れ合う悲鳴が響く。

 こちらに喰らい付いてこようとするフェリア・スノウの凶悪極まりない大迫力に肩が震えるけれど、怖がって泣く暇などない。


「時期にフェリア・スノウの縛(いまし)めが解ける。急ぐぞ」


「はい……っ」


 血走り狂喜に染まっている巨大な目玉を見据え、私はクロさんの唱える音に耳を澄ませる。

 ロシュ・ディアナの意味もわからず、自分の背中に何故翼が生えているのかもわからず、唯ひとつわかっている事は、――自分にフェリア・スノウを救う術(すべ)がある、という希望の光のみ。

 なら、今はそれだけを考えて意識を集中させよう。


「…………」


 クロさんの小さな囁きの音を聞き取りながら、私は高らかな声で謳うように後を追って紡ぎ続ける。人の言葉とは違う、難しい発音の調べ。一度聴いただけでは再現に苦労しそうな音なのに、私は一言一句支(つか)える事なく形にしていく事が出来た。

 ――などという奇跡はなく。


「ふぎゃっ!!」


「……小娘、何をやっている?」


「お、音が、難しすぎて……っ、か、噛みっ、……噛み、まし、た……っ」


「…………」


 そんな絶対零度以上に厳しい目で睨まないでほしい。

 振り返らなくてもわかるクロさんの苛立ちに小さくなりながら、私は詠唱の音が難しすぎると文句を呟く。どこかで聞いた事があるような気もする。だけど、音にするには難解で……、発音が上手くいかないのだ。

 

「く、クロさん……。ど、どうしま、しょう? もしかしなくても、八方塞がり、ですか?」


 やれと言われてすんなり上手くいくものではない。

 そんな現実をひしひしと感じながら、私はようやくクロさんへと振り向いた。

 背後の荒ぶる天獅竜、……そして、今目の前にいる、――大魔神級に恐ろしい気配を醸し出している傲慢な吸血鬼。流石の私も……、ちょっとだけ泣きそうな気分になる。


「……あの母親にして、愚鈍な娘あり、か。抜け癖のあるところが、……そっくり過ぎて、今すぐに引き裂いて、肉塊(にくかい)に変えてやりたくなる」


「し、仕方ないじゃないですか……っ。誰でも初めての事は」


「もういい。お前は我に身を委ねていろ。我が唱えさせてやる。今度は正確にな」


 と、クロさんがうんざりとした溜息を吐いた後に、私の身体は勝手に天獅竜の方を向き、唇も同じように自分の意思を無視して音を紡ぎ始めた。

 さっきの残念な結果とは違う、神聖な気配を纏っているかのような響き。

 クロさんが私を操っている。説明されなくても、それくらいはすぐにわかった。

 操られているという状態を心地良いとは思えないけれど、……確かに、この方が何の問題もなく事を成せそうだ。

 詠唱の旋律と共に、自分の中から何か不思議な感覚が外に向かって湧き上がり、額の奥から熱が生まれてくるような気がして……。

 

「――っ」


 天獅竜……、フェリア・スノウを見据えながら詠唱を紡ぐ最中、視界に広がった別の光景。

 見た事もないような文字、紋様の類が中心から溢れ出し……、何もかもが、別の世界を創り出していく。雲の群れが風の流れと共に幕を引くように消え、やがて見えたものは、――幾つもの大地。

 正確には、空に浮かんでいる、幾つもの島と呼べばいいだろうか。

 まるで、王都の図書館で借りた本に載っていた、浮遊大陸そのもの。

 それぞれの大陸に聳え立つ、色の違う光を纏った巨大な柱。

 浮遊大陸の上空と、若草の香りや美しい花々に彩られた大地には、背中に白い翼を抱く人々の存在があった。子供達が好んで読む、童話の世界の天使を連想させるような、神秘的な美を抱く翼の人々……。彼らの傍には名前を知らない動物達が寄り添い、その中には……、天獅竜達の姿もあった。私の瞳は、その世界を真上から流れるように捉えており、他にも町の類や神殿めいた建物の姿を目にする事が出来たのだけど……。

 幾つかの浮遊大陸が集まった、その中心に……、ある物を見た。

 建物全体がほぼ一色で染め上げられている街並みの奥に立つ、巨大な陣を描く紋様を背にしたお城のような建築物。……あれは。

 見た事がある建物だと、自分の中で認識した瞬間に見えた、―― とある女性の、笑顔。

 それは優しいものでも、慈愛に満ちたものでもない。

 私の中の、幸福で上書きされたはずの絶望を呼び覚ます、恐ろしい笑み。

 直後に私の視界は現実の景色を取り戻し、全身におぞましい気配が絡み付いた。


「ぁああっ!! ……い、いやぁぁっ」


「――っ!? おい、どうしたっ」


「いやっ、いやっ、嫌!! 嫌嫌嫌嫌嫌ぁあああああっ!!」


 詠唱の途中で身体の自由を取り戻したのか、それとも、術の発動中にそうなったのかはわからない。過去に受けた、身体と心の傷が強引に引き摺り出されるかのように、あの頃の出来事が蘇っていく。生まれて来てはいけなかった者、穢れたおぞましい存在、消えてしまえ、醜く引き裂かれて肉塊となり果てろ。そう、罵られ続けたあの日々が……!!

 狂った人間のように絶叫を上げ、私はクロさんに支えて貰っていたその感触を振り払い、そして、――飛ぶ術(すべ)を知らない身体が闇へと放り出された。


「小娘!! ――ぐっ!!」


 空へと舞い散っていく涙を血のようだと思いながら落下の道を辿った私は、身動きの一部を取り戻したフェリア・スノウがクロさんをその猛威で打ち据える場面を見た。

 だけど、クロさんを心配する余裕などなく、自分の中で荒れ狂う過去の酷傷に苛まれ、どんどんと地上に向かって落ちて行くのみ。

 嫌、嫌、――嫌!! もうあの頃には戻りたくない!! 自分の全てを否定され、拒絶されるだけの、あの辛い日々と向き合うのは、もうっ。


「レ……、ゼ、ル、……レゼ、ルっ、お兄、様……っ!!」


 助けて、助けて……!! 私が欲しいのは、あの冷たい牢獄で過ごした日々じゃない。

 私が求めてやまないのは、今、決して手離したくないと渇望しているのは――。

 村を焼かれ、大切な人達を失い……、死を望んでいた私が、もう一度、生きたいと思えた、その理由を……。――あの人(レゼルお兄様)の、あの温かな笑顔に、包まれて、いた……、い。

 けれど、伸ばした手の先に見たのは、今度こそ全ての自由を取り戻し、大口を開けて私を喰らいにかかってきたフェリア・スノウの姿だった。


「グォオオオオオオオオオッ!!」


 見える……。血塗れた、大きな牙が並ぶフェリア・スノウの口。

 もうすぐ、もうすぐ……、私も、さっきのクロさんみたいに。

 肝心なところで、私はきっと失敗してしまったのだ。

 フェリア・スノウを正気に戻す事は出来ず、クロさんに手伝って貰ったのに、満足にその役目を果たす事も出来ず……。状況を、さらに悪化させてしまった、役立たずな、私。


『お前のような出来損ないのクズは、私達に甚振られるか、魔物の餌になるか、その程度の役にしか立たないわね。汚らわしい、罪の塊』


 その通りだ、なんて……、思いたくなかった。

 自分にだって、生まれた意味はある。今はなくても、それを作っていける努力を、する事が出来るはずだって……。だけど、……今の私は。


「ごめん、……な、さい。私の、せいで……、フェリア・スノウ……、シロちゃん……、皆」


 間近まで迫ってきたフェリア・スノウに喰らわれる瞬間、それでも心が求めてしまったのは、帰りたいと願ってしまった場所は――。


「ウチの妹を餌扱いするんじゃねぇえええええええええええっ!!」


「グガァアアアアアアアアアアアッ!!」


「……え?」


 閉じた瞼の裏で聞こえた、誰かの怒鳴り声と、フェリア・スノウが何かの衝撃を受けたかのように上げた、苦痛の声。

 真っ直ぐに猛スピードで落ちていた私の身体は、下からしっかりと救い上げられた。

 服越しに感じられる……、優しい温もり。

 目を開けると、……も、物凄く不機嫌なレゼルお兄様の顔がっ。


「れ、レゼル……、お兄、様」


「…………」


 何も、答えてくれない。

 憎悪、とまではいかないけれど、私に対して怒っている気配を向けているレゼルお兄様が、私をその腕に抱えて、フェリア・スノウから距離を取るように飛んでいく。

 気まずい空気がお互いの中に、いや、私だけがそう思っているのか、声をかけるのが怖くなって、視線を周囲に逃がす。

 頭を振ってダメージに耐えているフェリア・スノウは、その体躯の真ん中を白銀に輝く巨大な陣に捕らわれており、徐々に動きが弱まっていくのが見えた。

攻撃の手を受けたクロさんの方は体勢を立て直し終わっていて、新たな鎖を生み出して拘束に動いているようだ。

 お子様吸血鬼達のお父さんやその側に属している兵士達は場の状況を静観。

 フェガリオお兄様とお子様達、そして、シロちゃんは私達を心配そうに見ている。

 

「り、リシュナ~!! 大丈夫か~?」


「ディル君……。レゼルお兄様のお陰で、何とか命拾いしたみたい、です。心配をかけて、すみませんでした」


「突然悲鳴を上げたから吃驚しましたよ。レディ、お怪我は?」


「リシュナ……、落ちた、から、気が気じゃなかった……。無事で、良かった」


「二人とも……、本当にすみませんでした」


 フェガリオお兄様の腕の中に収まっている二人の頭を撫で、肩口から顔を乗り出しているディル君の頭にも手を伸ばす。三人とも、本気で心配してくれている。……私なんかの、為に。

 フェガリオお兄様も、……レゼルお兄様も、同じように。

 だけど、今私を横抱きに支えてくれているレゼルお兄様の気配は普段と大違いの迫力を滲ませており、私に向けられている視線はずっと冷たいまま。

 帰りたかったはずの居場所。求めていたはずの、心地良い温もりが……、今は、逃げ出したいくらいに、私を居た堪れなくさせている。


「あの……、私、フェガリオお兄様の方に移動したいのですが、――痛っ」


 救いを求めて逃亡案を口にした私の腕や太腿の辺りに、少し強い痛みが走った。

 そして、そんな僅かな痛みよりも恐ろしい気配が、一気に強まってしまった事に気付く。

 拾っただけの存在に向けてくれた、温もりのある優しい眼差しは……、どこ?

 見上げた先に佇むレゼルお兄様の表情は別人のように冷酷で……、怖い。


「レゼル……、その気配を仕舞え。リシュナが怖がっている。嫌われるぞ?」


「今は感情を抑えている暇がない。――リシュナ」


「は、はい……っ」


「帰るぞ」


「え? あ、あの、まだ、フェリア・スノウ……、天獅竜をっ」


 嫌な予感をひしひしと感じながら、私はレゼルお兄様の腕の中からその背後に視線を投げる。

 まだ、フェリア・スノウの件が片付いていない。

 それに、お子様達のお父さんとの話も……!!

 だけど、視線の先に巨大な竜の姿はなく、私は意味がわからず首を傾げてしまった。

 

「小娘のせいで手間取ったが、フェリア・スノウは無事だ」


「あ、クロさん」


 腕の中に何かどっしりとした白いものを抱えたクロさんを出迎えると、そこにはシロちゃんと同じ種の竜が。

 

「ミュイ~!!」


「ミュっ、……ミュィ~」


 フェガリオお兄様の頭の上で震えていたシロちゃんが翼を広げて宙に飛び出し、苦しそうに呻いているもう一匹の竜に身を摺り寄せる。

 

「もしかして……、この子が、フェリア・スノウ、ですか?」


「お前が取り乱す前に術自体は発動していたからな。もう一歩早くにそんな事が起きていれば、術は意味を成さなくなっていた」


「そうですか……。良かった、です」


「なら、もうここにいる意味はないな。リシュナ、帰るぞ」


「れ、レゼルお兄様?」


 解放されたフェリア・スノウとシロちゃん、そして、クロさんを一瞥し、レゼルお兄様は私を抱えたまま、その場を離れ始める。

 

「レゼルお兄様、まだ帰れません……っ。クロさんにも聞きたい事がありますし、それに、ディル君達のお父さ」


「そんな事はどうでもいい!!」


「――っ」


 やっぱり、……怖い。私の知っているレゼルお兄様じゃない。これは、これは……、誰?

 服を突き破って肌に喰い込んでくるんじゃないかと思えるような痛みに眉を顰め、私は何も言えないまま……、レゼルお兄様に従うしかなかった。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「――きゃっ!!」


 視界を開く余裕もないスピードで帰り着いた、グランヴァリアの王宮。

 警護についている城兵や女官の人達を悪い意味で驚かせながら、レゼルお兄様は部屋のひとつに私を連れて入った。鍵の閉まる音、寝台に放り出された自分の身体。

 ぽふんと、豪奢な寝台に私の身体が沈むと、ギシリと不穏な音が聞こえた。

 カーテンのように壁を作りながら流れ落ちてくる、長く蒼い髪。

 穏やかなはずのアメジストに滲む、強い苛立ちの気配に……、身が竦む。


「リシュナ……。言い訳でもしてみるか?」


「い、言い訳……、って、何の事、ですか」


 覆い被さってきたレゼルお兄様の視線に抵抗してみると、その綺麗すぎる吸血鬼の顔が至近距離に近づいてきた。

 愛想たっぷりに接してくる、いつものレゼルお兄様じゃない……、別人に見えるような、その目。

 レゼルお兄様の冷えた指先が、私の首筋を……、クロさんの牙が喰い込んだ場所を這う。

 ぞくりと全身を震わすような感覚に私が身を捩り逃れようとしても、そっと押さえ付けられている重みは動かない。


「んっ……」


「勝手に俺の傍を離れた事も許せないし、怪我をして、血だらけになってるこの姿も許せない……。けどな? 一番許してやれないと思うのは、お前が俺を頼らなかった事だ」


「何の、事ですか……」


「あの場で、お前は……、俺じゃなく、あの男を頼った。すぐ近くにいた俺を呼ぶでもなく、あの男に……っ。その上、簡単に吸血行為まで許した。どういう了見だ?」


「ひ、必要だった、から……、あの時は、仕方、なく。血を吸われるとは、思いませんでしたけど」


 蹂躙派の長。その一族の血を引くクロさんを頼った私の選択は、グランヴァリアの王様に仕えるレゼルお兄様にとって、我慢ならない事……、だったのだろう。

 

「国王様やレゼルお兄様達に、迷惑をかけるつもりだったわけではないんですが……。成り行き上、仕方なく、と申しますか……。クロさんが長の一族だったなんて、途中まで知りませんでした、し……」


「俺が言いたいのはそんな事じゃない。たとえ知らなかったのだとしても、何故、抵抗しなかった? 俺に助けを求めなかった? 何故、大人しくされるがままになっていた? あの男が嘘を吐いて騙してると、そう疑う気さえなかったのか?」


「それは……。その、偉そうで……、あまり、……好きじゃ、ない、人、でした、けど……、嘘を吐く必要性がないように感じたので」


「そんな保証、どこにもないだろうが……!! 近くにいた俺に意見を求めるでもなく、何をやってるんだお前は!! 考えが足りないにも程があるだろう!! 万が一の事が起きていたら、俺は、俺はっ!!」


「うっ……。ご、ごめん、なさ、ぃ」


 本気の大迫力で怒鳴られて、限界にきていた涙腺が一気に崩壊した。

 昔、あの牢獄に捕らわれていた時も、周囲の大人を怖いと思い続けていたけれど……、それに対する恐怖と、レゼルお兄様に抱くこの感情は別物だった。

 レゼルお兄様の怒りは、同時に、愛情の深さを示すものでもあったから……。

 私がディル君のお父さん達について行って……、戦場にまで首を突っ込んで、勝手な行動ばっかり取って、レゼルお兄様達を心配させてしまったから。

 クロさんの事をよく知りもせず、フェリア・スノウの事で力になってくれるかもしれないと、会話の内容から勝手に思い込んで……、信用してしまった事が、どんなに危険な事だったか。

 

「ごめんなさい……っ。レゼルお兄様っ、ごめんっ、なさ、いっ」


「……泣いても、許してやらない。俺の気持ちを……、あの時の苦痛を、思い知らせてやるまでは」


 まだ、その声音に温かさは戻らない。

 涙を零しながら震える私の首筋に、クロさんの痕がある場所に、レゼルお兄様の牙が触れてくる。


「いいか? 隷属者が主以外の吸血鬼に肌を許すという事は、最大の禁忌だ……。裏切りを犯した証明でもある。お前は、それをやったんだ……」


 知らない。そんな掟があったなんて、私は……。

 だけど、レゼルお兄様は無知な私を責めるように、その牙の切っ先でクロさんの痕を抉り……、一気に肉を裂いた。


「ぁああああ……っ!!」


「……ん」


 内側を焼かれるような感覚と同時に、全身が甘く痺れるような刺激が広がってゆく。

 クロさんの痕も、感触も、何もかも……、レゼルお兄様の熱で上書きされてしまう。

 血を啜る小さな音が、低く掠れた吐息と一緒に聞こえてきて……。

 私は、レゼルお兄様の頭を抱え込み、必死に途切れがちな声で訴えた。

 

「ごめん、な、……さいっ。そんな、事、知らなく、て……っ。痛っ、……で、でもっ、私は……、レゼルお兄様を、裏切った、わけ、じゃ……っ。うぅっ、痛ぅっ」


 容赦なく肉の奥まで牙を抉り付けられ、レゼルお兄様の怒りがどれほど強いのかを思い知った直後、ようやくその牙が私を解放してくれた。

 自分の口元を手の甲で拭い、泣いている私にレゼルお兄様が向けた眼差しは……。


「……拾った時に、決めたんだ」


「……レゼル、お兄様」


「お前は、俺が守る、って……。本物の妹と同じように、お前を大切に想いたい、幸せにしてやりって……、そう、思ったから、拾った。お前の兄貴になって……、この手で、守り抜くと、そう、決めたから」


 ふわりとシーツに広がっている私の薄紫の髪を一房指先に絡めて掬い上げ、レゼルお兄様は切なげなその瞳を閉じて、そっと口付けてくる。

 過去に何か、……傷を負い、その贖罪代わりに誰かの助けとなりたい、そう願う吸血鬼。

 私はそれを知っていて、わかった上で、この人の妹になった。

 私は、この人が自分の傷を癒す為の存在。この人は、私が生きる為の、理由。

 お互いに、お互いを利用しているような関係だと、そう思った事もあった……。

 だけど、きっとそれだけじゃない。私達の関係は、依存しているようでもあり、同時に……。

 ――何か、自分にとって、新しい大切な何かを探り合う為の関係。

 そんな気も、している。


「あの男の言いなりになって、俺の事なんか構いもせずに行ったお前が……、らしくもなく、憎くなった。兄貴なのに、俺はお前の力になってやれないのか、って。頼りないのか、って……」


「そんな事ありません……!!」


「リシュナ?」


「違うん、です……っ。私は、私はっ、ずっと、レゼルお兄様の事を、心の中で呼んでました……っ。ディル君のお父さん達の所にいる時も、どんな、時も……、ずっと、ずっと、レゼルお兄様の、事を……っ、一番、……頼りに、してまし、たっ」


「…………」


 本当は、ずっと傍にいてほしかった。その温もりの中にいたかった。

 そんな本音は恥ずかしいので胸の奥に隠し、私は精一杯の言葉でレゼルお兄様に訴える。

 頼りないなんて、そんな風に思った事は一度もない。

 絶望と、死という名の救いを求めていた私を、貴方はその手で、優しい温もりで救い上げてくれた人。貴方と一緒に暮らすようになってから、私は新しい幸せを見つける事が出来た。

 だけど、中々上手く伝える事が出来なくて、普段あまり使わない声帯が悲鳴を上げ、声が掠れて情けなくなってしまう。


「リシュナ……」


「だ、誰より、も……、レゼルお兄様の事を、い、一番、信用、して、頼りに、して、ます、から……っ。だか、ら……、だか、ら、もう、……怒らない、で、くだ、さいっ。いつもの、いつもの……、優しい、レゼルお兄様、にっ。……うぅっ、ひっく」


 目を見開いて驚いているレゼルお兄様の首に両腕をまわしてしがみつき、無我夢中になって同じ言葉を繰り返す。クロさんよりも、他の誰よりも、私が信じる光は、この人という存在そのものだから。……だから、どうか信じてほしい。私は、決してレゼルお兄様を裏切ったわけではない、と。


「レゼル、レゼルお兄様……っ」


「リシュナ……」


 私の心をわかってくれたのか、レゼルお兄様から感じられていた恐ろしい気配が瞬時に波が引いていくかのように消え失せ、……求めていた温もりがそっと抱き締めてくれた。

 

「本当に……、俺を頼りに思ってるのか?」


「思ってます……っ。誰よりも、一番、一番……っ」


「じゃあ、もう二度と……、俺から離れたりしないか?」


「しません……っ」


「必ず、俺を頼ってくれるか?」


「はいっ。……はいっ」


 愛情の滲むその優しい声音に何度も頷き、髪や背中を撫でられる。

 寄り添っていると安心出来る温もり。私の、大切な居場所。この腕の中にいれば、何も怖くない。

 

「あ、そうだ……。リシュナ」


「はいっ」


「最後にもう一個。『レゼルお兄様、大好き!』って可愛い声をくれると、お兄様、ものすっごく自信がつ」


「嫌です」


「ぐっ!! そこはノリよく便乗してくるべきとこだろうが~!!」


 むぎゅむぎゅと抱き締められながら、絶対に言うものかとお口にチャックを施す。

 頼りにしている、信じていると大声で言えても、それだけは言えない。

 だって……、絶対に調子に乗るもの。レゼルお兄様が有頂天になって、私がそんな事を言ったと他の人達に言いふらされても困る。


「リシュナ~っ、言おう!! 今この流れだからこそ言える、可愛い本音を!!」


「きゃー、へんたーい。ロリ○ン吸血鬼ー、襲われるー。警備隊の皆さん、お仕事ですよー」


「相変わらずの棒読み通報に、お兄様本気で泣きそうだよ!!」


「……ふふ」


 一日も経っていないのに、この普段通りのやり取りが嬉しくて堪らない。

 私の肩口に顔を埋めて嘆いているレゼルお兄様の頭をよしよしと撫でながら、私は見えないところでほくそ笑む。やっぱり、いつものこの人が一番……、好き、だと思う。

 どうしようもなくお人好しで、人の人生を勝手に変えてしまうような人だけど……。

 そのお陰で、今の私がある。レゼルお兄様は、私にとって神様以上に大切な存在。

 この人の傍が、私にとって幸せを感じられる場所なのだと……、心から思う。

 

「……悪かったな。怒りに任せて、酷い事して」


「いえ。まだちょっと痛いですけど、大丈夫です」


「ちょっと見せてみろ。治癒の術ですぐ傷口を塞ぐから……」


「んっ。……レゼルお兄様、くすぐったいですよ」


「我慢、我慢、ってな~。……にしても、アイツが吸血行為をしてから、その、お前の背中にそれが生えたわけだが……、どういう事なんだろうな?」


 労わる仕草で首筋の咬み痕を撫でられ、徐々に心地良い熱を感じながらその部分が癒されていくのを感じる。二人分の牙がぶすっと突き刺さった箇所だから、正直鏡で見ずに済んで良かった。

 でも、……クロさんが吸血行為を仕掛けたその後に起こった変化。

 レゼルお兄様が感触を確かめるように私の翼を触り、首を傾げている。


「本物、だな……」


「ロシュ・ディアナの血を目覚めさせた、って、クロさんは言ってましたけど……。全然聞き覚えがないんです。その、ロシュ・ディアナ、というの」


「……ロシュ・ディアナってのは、仮説でしかないが……、お前の母親の種族らしい」


「え?」


 レゼルお兄様が呟いたその言葉に、私の動揺を感じ取ったのか、両翼がバサリと反応を示した。

 ……感情と連動しているの? これ。

 

「あくまで、仮説の話だ。だが……、あの男がやった事でお前の身体が変化を起こした事から考えるに……、真実、なのかもしれないな」


「レゼルお兄様、ロシュ・ディアナとは……、何なんですか?」


「白の種族……、そう呼ばれている、伝説の種族だ。俺も詳しくは知らないが、閉じられた世界に籠り、他種族との接触を禁じられているそうだ」


 閉じられた、世界……。

 ふぁさふぁさと緩やかに翼を打つ自分のそれを振り返り、私はその名を口ずさむ。

 ロシュ・ディアナ……。白の、種族。私の、お母さんの……。

 

「じゃあ……、私が幼い頃に捕らわれていた、あの世界は」


「ロシュ・ディアナの世界、という事になるだろうな……。詳しい説明は後日陛下に受けるとして、とりあえず、今夜はゆっくり休め。もう限界だろう? 気力も、体力も」


「……はい」


「よし! じゃあ、早速添い寝を」


「別室のソファーで寝ます」


「ちょっ!! 今度は通報ネタもスルーして、さらに酷い対応!! こらっ、行くな!! もう二度と俺から離れないって言っただろうが!!」


「きゃー、レゼルお兄様のえっちー、へんたーい。ロリ○ーン、犯罪者ー」


「酷っ!! さらに不名誉なもんまで追加してっ、本気で泣くぞっ!!」


 だから、私は十四歳なんですよ。乙女なんですよ。年頃なんですよ。

 大人の男性と寝所をご一緒するなんて、普通に考えてアウトです。通報&逮捕です。

 毛布を抱いて寝台を出ようとする私の腰に情けなくしがみつき、駄々を捏ねるレゼルお兄様をずるずると引き摺りながら別室に向かう。


「リシュナ~っ」


「嫌です。駄目です。乙女心を学んでください」


「俺達吸血鬼は長命の種族だからっ、人間なんて皆子供みたいなもんなんだよ~!! 子供、子供っ、痛ぁああっ!!」


「子供じゃありません……!! 立派な乙女です!!」


「うぅ~っ。そんな事言ってもなぁ……、十四歳のリシュナを大人に見れる要素はどこにも……。うごっ!! 痛ぁあっ!! ぐふっ!! こ、こらっ、蹴るな!! 殴るなぁあああっ!!」


 訂正します……!! こんなデリカシーのない人なんか、全然頼りになりません……!!

 絶対に添い寝をして一緒に寝るのだと言い張るレゼルお兄様を蹴りまくって撃退した私は、その部屋の隣にある別室のソファーに逃げ込んだ。勿論、鍵もバッチリ掛けておいた。

 

『リシュナ~、リシュナ~っ!! またあの三馬鹿共が乗り込んでくるかもしれないんだぞぉ~!! お兄様が傍にいないと、攫われちゃうぞ~!!』


「ふんっ」


 ドンドンと未練がましく叩かれる扉を無視し、毛布を被り込んで瞼を閉じる。

 本当はディル君のお父さん達の所に戻りたいけれど、過保護なお兄様が今それを許す事はないだろう。むしろ、それを口実に私を抱え込んで寝台に潜り込む気満々に違いない。

 だから、とりあえずここは大人しく眠りに入り、明日、改めて連絡を取る事にしよう。

 あの地に残されてしまったフェガリオお兄様もすぐに戻って来るだろうし、お子様達は……、お父さん達の許に戻った可能性もある。

 クロさんは……、多分、報酬の件がまだだから、あっちから来てくれる可能性が高い。

 全ては、世界を光が満たす朝になってから……。それまでは、何もかも忘れて……。


『リシュナ~っ、リシュナ~!! 寒いっ、お兄様、すっごく寒いぞぉ~!! リシュナ~っ、二人で寝たら、あったかぬくぬくっ』


「…………」


 あまりにしつこすぎるレゼルお兄様に心底疲れつつ……、毛布から抜け出す。

 向かうのは、レゼルお兄様がいる部屋に続く扉ではなく、廊下に繋がっているそれ。

 扉を開け、丁度良く通りがかってくれた女官の人に伝言を頼む。

 ――面倒なグラン・シュヴァリエを引き取りに来て下さい、と。

 その伝言は無事に国王様の許へと届き、鞭を手にやってきた宰相様が駄々を捏ねるレゼルお兄様をビシバシと打ち据えて……、一時間後、何とか回収して行ってくれた。

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