朝食を頂く事になりましたが、一人怖い人がいます。
「凄い目に遭いました……」
部屋に戻ってきた私は、よろよろと扉の縁に手をつきながら疲労困憊の声を零す。
何故か怒ったレゼルクォーツさんに放り込まれた宿屋のお風呂場。
そこは少し広めに作られており、十人ぐらいが一度に入れる大きな浴槽があった。
お風呂自体はほど良い温度で気持ちよかったものの……、問題は入浴時間が一緒になった旅行中のマダム達だった。小動物を見るような目に認識された瞬間、「可愛いわっ、可愛いわ~!」と強引に捕獲され、お世話という名の猛攻を受けた私は、ようやく部屋に戻って来られたのだった。
宿屋で用意されていた服を着て戻ってきたものの、仁王立ちをしていたフェガリオさんに速攻で捕獲され、鏡台の前の椅子にぽふんと。
「あの……」
「ちょっと待っていろ……」
部屋に設置されてあるクローゼットに向かうと、フェガリオさんは両開きの取っ手を掴み、手前に引いて見せた。……何で、自宅でもないのに大量の可愛らしい洋服が完備されているのだろうか。
ぽかんと意味不明な状況に口を開けてクローゼットの方を見つめている私の視線の先で、フェガリオさんはてきばきと今日の一着を選び取った。
「フェガリオ……、さん」
「万歳だ、リシュナ……」
「え……」
お手本のように両手を挙げて見せたフェガリオさんにつられて、私もつい万歳をしてしまった。
その隙を見逃さず、自称『お兄様』というよりも、むしろお母さん的な手際の良さで持っていた服を私に纏わせたフェガリオさんが、今度はブラシやリボンを両手に薄紫の私の髪へと魔の手を伸ばす。逆らう暇もなかった……。たった数分で自慢の妹スタイルにされてしまった私は、強面だけど満足顔のフェガリオさんと鏡越しに目を合わせた。
「フェガリオさん、これ……、楽しいですか?」
「そうだな……。お前が来てからは、朝の支度を手伝うのが日課にはなっているな」
なるほど、つまり、楽しいんですね?
表情は怖い人のそれだけど、フェガリオさんが心底喜んでいるのがわかる。
あの家でお世話になっていた数日間、この人の女子力のスキルの高さには感心させられたものだ。
食事や洗濯、裁縫……。女性に必要なスキルが、この人には全て揃っている。
そして、自分の腕を揮う事で、誰かに楽しんで貰ったり、その成果を目にするのも好きのようだ。
まぁ、着せてくれる服は可愛らしいし出来も申し分ないので良いのだけど……。
さて、これからどうしたものか……。
レインクシェルさんからの悪趣味な仕掛けによって、自分の死への覚悟が甘いのはわかった。
確かに、私の中には……、本当は生きていたいけれど、死んで逃げなければという卑怯な考えが存在している。『あの人達』に捕まれば、逃げ延びたはずの絶望がまた私の存在を丸呑みにしてしまう。そして、逃げ続けた罰が……、確実にこの身を襲うだろう。
正直言って、絶望一色の未来しか見えない自分に、私は床に視線を落として奥歯を噛み締める。
誰かと関われば、私の事情で不幸にしてしまう可能性もある。
けれど、逃げようと思っても、今の私はレゼルクォーツさんの隷属者。
逃げたとしてもすぐに捕獲されてしまうのは目に見えている。
かと言って、主であるレゼルクォーツさんを殺す事なんて、私には出来ない。――八方塞がりだ。
「リシュナ……、朝食を食べたら散歩に行くぞ」
「散歩……、です、か?」
「あぁ。レゼルとクシェルも一緒だ。今日は天気がいいからな。そこでゆっくりと……、お前の事を聞かせてほしい」
「……どうしても、ですか?」
段差のついたフリルのスカートを握り締める私の頭に、フェガリオさんはその右手を伸ばしてくる。ぽんぽんと励ますように撫でられると、その手が私の手を引いて歩き出した。
部屋から廊下に出て、階段を下りて朝食の席へと向かう。
宿屋の女将らしき人が慌ただしく朝食をお客さん達に提供しながら駆け回っている姿が見える。
嗅覚に触れてくる美味しそうなスープの匂いや、目に映っているふかふかのパンの姿。
ぐぅぅ……と、情けない音が下から聞こえた。そういえば、昨日は朝食を食べた後にすぐに出発して村へ戻って来たから、それから何も食べていなかった。
「リシュナ~、フェガリオ~、こっちですよ~!」
暢気で柔らかな声音にビクッと反応した私は、言葉遣いがすっかり物腰の穏やかなものに戻っているレインクシェルさん……、何故か子供の姿に戻っている彼が端の席から手を振っている事に気付いた。にっこりと愛想の良い可愛らしい子供……、だけど中には凶悪な悪魔が潜んでいる。
フェガリオさんに手を引かれて席へと向かうと、どの食事がいいかとメニュー表を手渡された。
もう……、怒ってはいないのだろうか? フェガリオさんの横に座った私は、恐る恐るレインクシェルさんの顔を窺う。あの時感じた、怖いほどの殺気は感じられないけれど……。
あの時のレインクシェルさんは、確かに本気で怒っていたと思う。
私が中途半端な存在だから、自分の弟が迷惑を被った、と……。
「ん~、どうしましたか~?」
「……あの、ごめんな、さい」
「クシェル……、リシュナに何をした?」
何か怖がらせるような事をしたんだろうと低く険のある声音を向けながら、フェガリオさんがレインクシェルさんを睨みつける。
私はフェガリオさんの腕に手を添えて、「悪いのは私です……」と事実を述べた。
最初は、自分をこんな不死同然の身体にしたレゼルクォーツさんの事が理解出来ず、善意の押し売りはやめてほしいと思っていた。
だけど、それをさせてしまったのは……。他でもない、私自身の覚悟の甘さが招いた事で。
結局、死を求めていながらも、贅沢を言っている自分がいたのだと、痛感したのだ。
本当に死にたいのなら、私はいつでも死ぬ事が出来たはず。
それなのに、死に方に駄々を捏ねていたせいで、レゼルクォーツさんに拾われる羽目になってしまった。本当に、私の中途半端さが全て悪かったのだ。
「あははっ、もしかしてさっきの~、……僕が本気でお嬢さんに対して怒ってるとでも思ったんですか~?」
「違うんですか……? 私が、レゼルクォーツさんをあんな状態に追い込んでしまったのに」
「まぁ、その辺は事実なんですけどね~。だけど、僕がお嬢さんに伝えたかった事は、別の事なんですよ~」
「どういう事だ、レインクシェル」
やって来た女将さんに注文を伝え終わったレインクシェルさんが、にこやかに頬杖を着いて笑ってみせると、フェガリオさんの片眉が不機嫌そうに跳ね上がった。
あの時、私が一泊した部屋の方に残っていたフェガリオさんは、どうやら後から追いかけて来てくれたそうなのだけど、レインクシェルさんがレゼルクォーツさんの部屋の扉に張った結界と防音効果のせいで、一度戻る事を余儀なくされてしまったらしい。
そんな細工までしていたのかと、レインクシェルさんの要領の良さに脱帽するしかない私は、びしばしと敵意を放つフェガリオさんを宥めつつ、話の続きを促した。
「な~んか、お嬢さんの『死にたい』って思いに違和感があったんですよね~。ご両親や村の皆さんが亡くなった事で気落ちしているのは聞きましたけど、どちらかというと、『逃亡』の意味合いの方が強いんじゃないかな~と」
「そういえば……、お前は俺とレゼルクォーツに、自分といると不幸になる、と、そう言っていたな……?」
「……はい」
テーブルの端に置いてあった冷水ポットを引き寄せたレインクシェルさんが、三人分のコップに水を注いで差し出してくる。
私はそれを受け取って、一口だけ、気持ちを落ち着けるためにそれを含んだ。
「もういい加減話しちゃいましょうよ~。これだけウチの弟達に大迷惑かけちゃってるんですから、話す義務がありますよね~? ありますよね~?」
「う……」
この人……、本当はまだ怒ってるんじゃないだろうか。
笑顔だけど、私の心にドスドスと嫌味な棘が刺さってくる。
自分の弟にあそこまでさせといて、だんまりはもう許さねーぞ? ……そう聞こえた気がする。
だけど、これを話したら後戻りは出来ない。確実に巻き込んでしまう。
俯く私に、レインクシェルさんは逃げ場を塞ぐように言葉を重ねてくる。
「全部言っちゃった方が楽ですよ~」
「ら……く?」
「はい~。見たところ、お嬢さんはまだまだお子様じゃないですか~。人生も経験も浅い浅いのダブルコンボです~。自分の中に抱えて悩むだけ無駄ってやつですよ~」
「それは……、同じような事を、レゼルクォーツさんにも、言われました」
自分達に全てを話して、死ぬ以外の道を見つけ出せと……。
出来るものならそうしたい。誰かに助けて貰いたいと、そう甘えそうにもなってしまう。
だけど、やっぱり怖い……。怖いの……。
私のせいで、レゼルクォーツさん達が、もしも……、殺されたりなんかしたら。
自分の不幸に他者を巻き込む恐ろしさ……。私には、この人達を引き摺り込む勇気はない。
……と、レインクシェルさんに拒絶の意思を見せようとした、その瞬間。
「お嬢さ~ん……、さっさと~……、吐きやがれ」
「――!!」
こ、怖い……。子供の姿になっているというのに、レインクシェルさんの笑顔が一瞬だけ引っ込んで、凶悪極まりない気配が滲みだした。
あぁ、やっぱりあっちの口の悪い攻撃的な性格が素なんだ……。
思わず、表情こそ変えずに済んだものの、私は真顔でフェガリオさんの腕にしがみついた。
同情の眼差しが、頭を撫でる感触と共に注がれてくる。
「クシェル……、不用意に威嚇をするのはやめろ」
「いえいえ~。こうでもしないと、お嬢さんが素直になれないだろうな~と、そう思いまして……、ねぇ?」
「それをやめろというに……。リシュナ、大丈夫か?」
「はい……」
私の抱えている厄介事を引き受けてくれようとする気遣いは嬉しい。
だけど、ドスの効いた低音をその姿で出すのはやめてほしい……、切実に。
ギャップが受けるという話も聞いた事はあるが、これは絶対に違う。
こんな恐ろしいギャップはいらない……。
女将さんが運んで来てくれた朝食を前に、何とか話を逸らそうと話題を美味しそうな卵のスープに向けると、……レインクシェルさんの殺気が強まった。
それが余波を出してしまっているのか、レインクシェルさんの後ろの席に座っているおじさんが、「ひぃいっ!!」と、本能的な危機を察知してダッシュで二階へと……。ごめんなさい、何の罪もないおじさん。やっぱり私は、人に不幸を与える事しかできないようです。
周囲の席の人達も、放たれる殺気の余波で微妙な顔をしているし、このままでは不味い。
厨房に戻りかけていた女将さんが、恐ろしい形相でこっちを見ている。
「は……、は、話し……ま、す」
「そうですか~。それはそれは、めでたい事ですね~。じゃあ、皆で仲良く朝食を食べた後で、……ゆっくり話を聞かせて貰おうか」
「は、はい……」
「この極悪冷血吸血鬼が……」
私を脅すように頷かせたレインクシェルさんに苛立っているのだろう。
フェガリオさんは私を連れて、もうひとつ後ろの席に移動した。
レインクシェルさんから私を隠すように背中を向け、視線の威力をその広い背中で全カット。
他にも気配を遮断する何かを施してくれているのだろう。
お蔭で穏やかな朝食の時間を過ごす事が出来るようになった。
卵と野菜のスープを掬おうと、深めの木のスプーンで試みるけれど……、何故か思うように上手く力が入らない。高熱は引いたものの、やっぱりまだ、本調子とはいかないようだ。
うむむ……と、小さく悪戦苦闘していると、私の様子を見かねたのか、フェガリオさんがその右手を伸ばしてきた。私の手からスプーンをやんわりと放させて、自分の手に持つ。
「フェガリオ……、さん?」
ひょいっとスプーンにスープと具材を掬い上げて、それを真顔で私の口元に運んでくる。
首を傾げる私に、「食べろ」と、一言。これは所謂、「はい、あ~ん」という行為だろうか。
まだ病み上がりの私を助けようとしてくれているようだ。
スプーンをはむっと口に含み、もぐもぐと咀嚼する。……美味しい。
「……お前の願いを退けるような真似をしてすまなかった」
「……はい?」
「隷属化の件だ……。お前の命を繋ぎ止める為とはいえ、酷い真似をしたと、そう、感じている……」
反対する事をせず、黙ってそれを容認した事を言っているのだろう。
『最善の事をした』……、そう口にしてはいたものの、フェガリオさんの中で全く罪悪感を覚えないわけでもなかったのだ。その事に関しては、私も気付いていたけれど……。
こうやって改めて謝ってくるところが、強面のフェガリオさんの内面を優しさを表しているかのようで、私も恨む事は出来なかった。あくまで、私の為に目を瞑ってくれたのだろう。
レゼルクォーツさんが私を隷属化する事で、とりあえずは自殺の類を防ぐ事が出来る。
それから、時間をかけて説得しようと……。
全ては、私の選択が遅すぎたせいなのだと、思わざるを得ない。
レインクシェルさんの言う通りだ。中途半端な私の存在が、二人の心を掻き回すだけ掻き回した結果が、これ。反省すべき点の多さに、私は表情を和ませると、フェガリオさんの申し訳なさそうな眼差しを見据えた。
「私も、色々と……、ご迷惑を、おかけしました。私と関わった事で……、縁を持ってしまった事で、フェガリオさんの心も傷付けてしまいました」
「……隷属化された今でも、気持ちは変わらないのか?」
「自分の中で……、最善だと思えるのは、やっぱり……、この命を、終わらせる事だって、そう、思っています……。だけど、同時に……、怖くも、感じるように、なりました」
「怖く?」
コップに入ったお水を口に含み、ふぅ……と、吐息をつく。
私の事情に巻き込む以前に、もう二人とは十分に関わりすぎている。
通りすがりの他人ではなく、ひとときでも、家族として過ごしてしまったあの家での時間。
出会う前に終わる事が出来ていれば、こんな思いを抱かなくても良かったのに……。
互いの存在を知り、多少なりとも情を分かち合ってしまった以上、私が死ねば……、この優しい人達の心に、消えない傷を刻んでしまうのだと、本当の意味で悟ってしまった。
だから……、これからどうするべきか、もう自分の事情を話す事を承諾してしまった以上、私は逃げる事は出来ない。
「とりあえず、レインクシェルさんの目からは逃れられそうにありませんし……」
「すまない……」
「いえ……。自分でも、正直話さずにいる事に限界を感じてもいましたから……」
私の事情を知れば、もしかしたら……、レゼルクォーツさん達の方から私を捨ててくれるかもしれない。そうなれば、晴れて私は自由の身。そうなってくれれば、……消える事に悔いはなくなる。
レゼルクォーツさんとフェガリオさんだって、私の抱えている厄介な事情を聞いて、そのまま面倒を見たいとは思わないだろう。きっと……。
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