私は中途半端な存在だったようです

「お嬢さん、おはようございま~す! 朝食の時間ですよ~!!」


「いや……、先に一階の風呂場で汗を流させるのが先だ。リシュナ、着替えも用意してある。行って来い」


 騒々しい足音が聞こえるなと思っていたら、ぼんやりと窓の外を見ていた私の耳に軽いノックの音が響き、扉は許可の声を待たずに勝手に開けられてしまった。

 相変わらず自分の身体に合っていないだぼだぼの洋服を着た男の子……、吸血鬼のレインクシェルさんと、昼夜問わず子供に泣かれそうな強面の顔をした残念な美形ことフェガリオさんが、私の寝台までやってくる。


「……」


「ん~? どうしたんですか~?」


「熱の方はどうだ……? 少しは楽になったか?」


 可愛らしく首を傾げるレインクシェルさんの横で、フェガリオさんが私の額に手を伸ばしてきたけれど、それを直前でぺしっと払った。

 夜が明けてから熱が下がったとはいえ、やっぱりまだ上手く力が入らない。

 払ったというよりも、弱々しく拒絶の意思を見せた私の手がフェガリオさんのそれに触れた瞬間、向こうが手を引いてくれたというべきか。

 それでなくても眉間に皺が寄っているのに、今の私からの拒絶でさらにぐっと皺が深まってしまった。だけど、一晩熱に魘されながら気づいたのだ。

 あの時、洞窟の中でレゼルクォーツさんは二人に対して『確認』をとっていた。

 そして、二人は反対するでもなく、それを容認……。

 つまり、この二人にも私がこんな状態にされてしまった責任がある。


「どうして、レゼルクォーツさんを止めてくれなかったんですか」


「それが、最善の選択だと思ったからだ……」


「可愛らしいお嬢さんが自分から死を望むなんて勿体ないですからね~。まだ人生始まったばかりなんですから、是非とも希望溢れる未来を歩んでほしいな~と」


 フェガリオさんの方は、強引な手段をとった事に多少なりとも罪悪感の欠片のようなものが感じられるけど、レインクシェルさんは違う。――全然悪いなんて思ってない。

 のほほんと構えながら寝台に上がり込んだ挙句、すりすりと私の身体に懐いてくる始末だ。

 例えるならば甘えたがり屋のオス猫。私をレゼルクォーツさんの隷属者にした事に対して全く罪悪感を感じていないらしいレインクシェルさんは、私がまだ死んでいない事を素直に喜んでいるようだ。――私からすれば、大迷惑の展開なのに。

 引き剥がそうと両手でその小さな身体を押し退けようとしても、……ビクともしない。

 どこにそんな強情な力があるのか、謎だ。


「クシェル……、離れろ」


「え~、柔らかくてふにふにしてて、触り甲斐があるんですよ~。はぁ~、女の子っていいですよね~、すりすり」


「警備隊に突き出すぞ……」


 見かねたフェガリオさんが、幸せ一色に染まっているレインクシェルさんの首根っこを掴み上げると、床に向かって放り投げた。

 ごろんと、小さな身体がボールのように転がっていく。

 壁の方にぶつかった瞬間、その小さな身体がもくもくと巻き起こった煙に包まれて、個人的には多分そうだろうと予想をつけていた『元の姿』に戻った。

 黄色に近いクリーム色の髪色やアメジストの双眸に変化はなかったけれど、その外見はフェガリオさん達と同じ青年の姿そのもので、「あ痛たた……、酷いですね~、お兄様は大事にしてくださいよ~、フェガリオ」と発された暢気な声音は、子供の姿の時よりも甘い響きを纏った低いそれだった。


「それが……、貴方の本当の姿なんですね? レインクシェルさん」


「無邪気な子供の姿で女の胸に顔を埋めるただの変態だ。極力近づかない方がいい……」


 軽蔑一歩手前の冷たい視線で大人の姿になったレインクシェルさんを一瞥すると、フェガリオさんが寝台の横にあった椅子を引き寄せ、そこに腰をかけた。

 やはり、吸血鬼という存在は、見た目で実年齢を計ってはいけないようだ。

 子供の姿で人の油断を誘い、子犬のような甘え方で擦り寄ってくる変態吸血鬼。

 私もへらへらと笑っているレインクシェルさんを冷たくひと睨みすると、フェガリオさんに視線を戻した。レゼルクォーツさんを止めてくれなかった事には当然腹が立っているし、願いを絶たれた感情のままに罵りたい気持ちもある。だけど、それでは何の意味もない。


「私の身体を元に戻す方法を、教えてください」


「それは……、お前には無理だ。暫くの間は心の傷を癒す事に専念しろ」


 私には無理……? それは一体どういう事なのだろうか。

 何か難しい手間のかかる方法を用いなければ、この隷属化の状態を解けないと……?

 呪いのようなこの立場をなかった事に出来るなら、私はなんだってする。

 だから、レゼルクォーツさんと私の間で結ばれた忌まわしい縁を解く方法を教えてほしい。

 身を乗り出してそう懇願していると、思わぬところから助けが入った。

 

「ふふ~、教えてあげましょうか~?」


「教えてください」


「クシェル……、何を考えている?」


 私を寝台からその腕に抱え上げたレインクシェルさんを止めようと、フェガリオさんが立ち上がる。けれど、二人の視線が交わった瞬間、フェガリオさんは息を呑むように引き下がった。

 見上げた先に見えたのは、それを目にする者に絶対的な恐怖の片鱗を感じさせるかのような、どこまでも冷たい無慈悲な光を宿したアメジストの双眸だった。

 けれど、すぐにその気配は掻き消えて、レインクシェルさんは私を腕に抱いた状態で部屋の外に向かってしまう。しかも、鼻歌まじりだ。


「完全な隷属を強いられていた場合には、無理なんですけどね~。幸いな事に、お嬢さんとレゼルの主従関係は半分だけしか成り立っていません」


「半分……、だけ?」


「はい~。今ならあっさり解けちゃえますよ~」


 フェガリオさんの言っていた事と違う。

 『私には無理だ』と言われた言葉と、今の『あっさり』はどう考えても矛盾している。

 どういう事なのかを聞きたかったけれど、スキップまで始めたレインクシェルさんに、私の声は全く届いていない。すれ違う人達に愛想の良い挨拶までして進路を迷う事なき突き進んでいる。


「お邪魔しま~す!」


 軽快に踏み込んだのは宿屋の中にある一室。

 さっきまでいた部屋とそう変わらない間取り。違いがあるとすれば、この部屋の窓は閉まっていて、カーテンに覆われているせいか、闇一色に染められているところぐらいだろう。

奥の寝台の方では、誰かが眠っているようだけど……。 

私を寝台の傍へと運んだレインクシェルさんが、丁寧な仕草で床に私を下した。


「今、灯りをつけるから、ちょっと待っててくださいね~」


 カーテンを開ければいいのでは? そう指摘する事も出来なかったのは、レインクシェルさんの動作が素早すぎたせいなのかもしれない。ぽっと灯ったランプの火が、寝台で眠るその人の顔を照らし出す。……レゼルクォーツさんだ。

 朝になって少しは身体が楽になった私とは違い、レゼルクォーツさんの顔や首筋には大量の汗が伝っており、どう考えても異常事態にしか見えない。

 

「どうなってるんですか……?」


「自業自得の姿なのでお気になさらずに~、ですよ。お嬢さんを隷属化する時に、予想していた以上の『反発』を受けたようで、二、三日はその状態でしょうね~」


「はんぱ……つ」


「はい~。吸血鬼は相手を隷属化する際、対象が人であればそれほど苦労する事もないんですけど、お嬢さんの場合は……、人じゃなかったですからね~。思っていた以上の反発が酷くて、お嬢さんを隷属状態に持ち込めた時なんて、そりゃあもう酷い状態に追い込まれてましたよ~」


 あの洞窟の中で、私の首筋から血を吸い上げ、同時に隷属に必要な『干渉』を行った代償。

 他種族への吸血行為にさえ、負担はゼロとは言えないのだと、レゼルクォーツさん自身も言っていた気がする。吸血鬼にとって何のダメージもなく捕食出来るのは、人間だけ……。

 吸血行為以上の真似を他種族に仕掛ければ、その代償はさらに膨れ上がる。

 

「勿論、お嬢さん自身も大きな負担を負いました。それが、あの高熱状態の事です」


「でも、私の熱はほとんど下がってます……」


 吐き出される呼吸は荒く、とても辛そうに見える……。

 苦しげに呻きながら、自分の中の何かと闘っているかのように、レゼルクォーツさんは何かを小さく口にしながら、自分の上に掛かっている毛布を払いのけた。

 自分の胸元を押さえながら、身の内で起こっているのだろう苦痛に抗うその姿。

理不尽な事をされたのは自分だとわかっているのに、知らず、私の右手がレゼルクォーツさんのシーツに放り出されている左手に向かいかけた。

 けれど、隣から好奇心に溢れた視線が自分の手元に注がれている事に気付いた私は、すぐにそれを引っ込めた。


「隷属化を強いる際に、お嬢さんの負担がある程度まで軽減されるように、レゼルが力を尽くしたんだと思いますよ~? お嬢さんに死を選んでほしくない一心で、こんな状態に陥る事すら、わかっていながら、ね。下手をしたら、自分だって死ぬ可能性もある危険な真似なんですよ~」


「そんな事……、頼んでま、せん」


「頼まれていなくとも、レゼルはそういう子なんですよ~。目の前で絶望している儚い存在を見捨ててはおけない。たとえ本人が自分の手を拒んでも、その命を光の中に戻す為に……、レゼルは 心を尽くす。我が実弟ながら、色々損な役回りばかりしてる性分です」


「ただの……、自己満足、……じゃないですか」


 死を望む人達が、その小さな心の中に何を抱えているかは、それがどれほどの重さなのかは、誰にもわかる事はない。話を聞いても、本人でなければ、その苦しみを本当の意味で理解する事は出来ない。一時的な同情心や正義感で関わって来られても……、迷惑、なのに。

 そう思うのに、どうしてだろう。誰かが自分に生きていてほしいと強く願ってくれている……。

 自分の為に、その命を危険に晒してまで、未来を与えようとしてくれた……。

 その事実が、私の中に余計な迷いを生み出してしまう。

 レゼルクォーツさんが、純粋に私の事だけを考えて救おうとしてくれたわけではない事も知っている。別の何かが、彼の心の傷となっている何かが、目の前で死を選ぼうとしている命を救えと、その衝動を後押ししているのだろう事も……。

 そうわかっているのに、胸の奥が……、どうしてこんなにも、――苦しいの?

 切ないように鼓動を締めつけるレゼルクォーツさんの姿。

 その唇が、確かな音で私の名を紡ぐのが聞こえた。

 駄目……、駄目。――捕まっちゃ、駄目。


「レインクシェル……、さん」


「はい~」


「隷属化の解き方を……、教えて、ください」


 早く逃げてしまおう。この忌まわしい呪いのような立場を解いて、もう一度、一人の状態に戻ろう。少し掠れてしまった自分の声を耳にしながらレインクシェルさんに解き方を尋ねると、何故か……、私の手に短剣の柄が握りこまされた。


「対吸血鬼用の武器です~。今なら一発でOKですよ~」


「……は?」


「完全な状態であれば、お嬢さんはレゼルに武器の刃さえ向ける事は出来ません。ですが、隷属化は半分だけ……、レゼルもこの状態……。今なら主側の影響力が薄くなってますから、お嬢さんでもあっさり殺せちゃいますよ~」


 何を……、言っているの?

 自分の同族であり、実弟とまで呼んだレゼルクォーツさんを、私に殺せ、と?

 笑顔を崩さないのほほんとしたレインクシェルさんの軽い物言いに、私は意味がわからず、短剣を床に落としてしまった。

 それを拾い上げたレインクシェルさんが、手のひらでそれを弄びながら軽口を叩き続ける。


「隷属者が死ねる方法は唯ひとつ……。主である吸血鬼を自分の手で殺すか、他者の手によって吸血鬼が殺される時を待つだけ。どうです~? 結構単純で簡単でしょ~?」


 ――わざとだ。

 私が誰かの命を奪えないのをあの洞窟で見ていたから、それを知った上で、私にお遊びの希望を与えたのだ。私がそれを知ってどんな反応をするのかわかっているくせに、それを見て楽しんでいる。私は肩を震わせ、偽りの笑みを刻む吸血鬼を睨み上げた。


「悪趣味……、です」


「さぁ、どっちが悪趣味でしょうね~」


「どういう……、意味、ですか」


 レインクシェルさんは寝台の端に腰かけると、短剣の刃をそのシーツの上に突き立て、それをぐっと抉り込ませる様子を私に見せながら語り続ける。


「お嬢さんは、自分が情を向ける相手が、どんなに止めても死ぬと言い張ったら、どんな気持ちになりますか~?」


「それ……、は」


「辛いですよね~? 苦しいですよね~? その人に生きる選択をして貰えない自分自身の無力さに、身を引き裂かれそうな痛みを味わうと思うでしょ~?」


 顔は笑っているのに、その短剣の柄を握り締める力は正反対だ。

 レインクシェルさんは、……怒っている。

 自分の弟であるレゼルクォーツさんがその身を賭けてまで繋ぎ止めた命を、また捨て去る道を探そうとする私の存在に、心の底から腹を立てて……、憎んでいる。

 

「レゼルのやっている事は確かに偽善で傲慢ですよ~。我が弟ながら、放っておけばいいのにと毎回思うんですけどね~。馬鹿すぎて、吸血鬼らしくない男ですよ……」


「……」


「だから、弟がお嬢さんにやった事を許せなんて言いませんよ~。自分で好きにやって返り討ちに遭うだけの話ですからね~。ですが、僕の事を悪趣味というのはどうなんでしょうね……」


 シーツに抉り込まされていた短剣が勢いよく引き抜かれたかと思うと、何をされたのか理解する前に、私の首筋を紅の雫が伝っていた……。

 ダンッ!! と、大きな音を立てて、背後の壁に何かが突き刺さった音の後に、ようやく肌の痛みを感じ始めた私は、目を瞬く事も忘れ、理解した。

 レインクシェルさんが放った短剣の刃が、私の首筋を掠って通り過ぎていったのだ。

 目にも見えないほどに、その感触さえも感じる暇もなく、放たれた『敵意』。

 私を見つめるその顔から笑顔が消え失せ、レゼルクォーツさんと同じアメジストの双眸に、明確な殺意が滲んだ。


「お前だって……、レゼルの心を殺そうとしただろう」


「――っ」


 がらりと変わったレインクシェルさんの口調。

 洞窟の中でも、僅かにその片鱗は垣間見えていたけれど……、これは、怒る以上の感情の荒波を抱いているのではないだろうか。

 どこから取り出したのか、今度は暗器の役割を果たす鋭く細長い刃を指と指の間に挟み込み、私の身体のいたる部分に掠らせながら壁に叩きつけていく。

 あとから遅れてやってくる……、レインクシェルさんの憎悪が成した痛み。


「正直言って、俺はガキが死のうが生きようが心底どうでもいい。所詮は他人の人生だ。勝手に選んで勝手に落ちろ。だけどな、俺の事を悪趣味というのなら、お前もそうだ」


「私、は……」


「中途半端なんだよ……。仇のボンクラ吸血鬼達の事にしたってそうだ。命を奪うのが怖い? だから自分で死んでくれ? 他人任せもいいとこだな。全身で不幸を背負ってますって顔して、人の情を強請るのがお得意ときた。いいご身分だな」


「私は、強請ってなんか……、ないっ。一人で、いたかった、のに……、そっちが、勝手にっ」


「じゃあ、なんで村に戻らなかった?」


「――っ」


 もう一撃、放たれた刃の切っ先が、今度は私の左腕の真ん中に突き刺さった。

 今度は、すぐにその痛みが肉を駆け巡り、抉られた部分から血の染みが広がり始める。

 痛い……、痛い……。心の奥が……、爛れそうな程に、熱くて苦しい。


「村が隣国に襲撃された時、お前は逃げたんだろ? その後、村に戻って兵士共に殺られて死ぬ事も出来たはずだ。それをしなくても、獣の多い山の中で転がってれば、幾らでも肉を食らってくれる獣共が沸いて出たはずだ。レゼルの目に映る前に、な」


「それ……は」


「何故、レゼルが面倒な真似をする前に死んでくれなかったんだ? そういえばお前、あの洞窟の奥にある毒素で死ぬとか何とか言ってたな? 結局は自分自身の手で死ぬ方法は全部蹴ってるじゃねーか。本当は怖いんだろ? 痛くて怖い死に方が……」


「違……っ」


「そのせいで、ウチのお人好しなレゼルが振り回される羽目になった。中途半端な奴がうろちょろした結果が、これだ。どうだ? 悪趣味なのはお互い様だろう?」


 もう限界だった……。この人は、見てもいないのに……、知っているのだ。

 お父さんとお母さんを、村の皆を失った後、私は一緒に逃げた男の人にも置いて行かれて……、一度は町で買ったナイフで自害を図った。だけど……、首筋に当てた冷たい感触が、命を奪う刃の存在が、どうしても……、怖く、て。

 自分の弱さを痛感しながら最後に行き着いたのは、楽に死ねる方法だった。

 飢えて何も出来なくなれば、先に意識を失ってこの命は終わりを迎えてくれるだろう。

 だけど、中途半端な状態で獣に肉を貪られるのは怖い。

 それもあって、私は極力危険な獣がいないあの森を死に場所に定めた。

 あそこなら……、完全に死を迎えるまでゆっくり出来ると、そう思って。

 だけど、本当は……、死にたいという思いはあっても、死ねる覚悟は……、どこになかったのだ。

 本気に『死』を望んでいたのなら、一緒に逃げた人において行かれた時に、すぐに村へと戻って、隣国の襲撃者達の前に立つべきだったのだ。

 それなのに、一番簡単な死に方を選ばなかったのは……、それを意識の底に沈めていたのは……、やはり、心のどこかで生き延びたいという欲求があったからなのだろう。

 だから、レゼルクォーツさんやフェガリオさんが向けてくれた温かな優しさに、何度も絆されそうになって、自分の抱えているものを全て忘れたいと思った時さえあった。

 中途半端……、レインクシェルさんの言う通りだ。

 死にたい死にたいと思うのに、いざ自分で自分を殺す刃を手にとったら、その恐ろしさを目の当たりにしたら、何も出来ずに震えるしかなかった弱い自分。

 生物の本能としては正しいのだろうけれど、……私は、私、は。


「うぅ……」


 腕に突き刺さっている暗器に手を這わせる。べっとりと……、生温かい血の感触が手のひらに広がっていく。死ねない身体になったのに、それでも……、この痛みも、視界に焼き付く赤色の世界も……、何もかもが、恐ろしい。


「怖い……、こわ、いっ」


 私が怖がっているのは、この痛みに対してなのだろうか……。

 それとも、『死』という終わりの世界を、ようやく本当の意味で理解し始めたからだろうか……

『あの人達』から受け続けた恐ろしい仕打ちの日々。

 逃亡先で家族になった、お父さんやお母さん達との温かな日々。

 隣国の襲撃で家族を亡くし、一人死を求めて彷徨った僅かな日々。

 鋭い痛みと共に膝を折った私は、傷口を押さえながらその場に蹲った。

 『あの人達』に見つかる事が怖い。連れ戻されてから何をされるのかを想像しただけでも、息が詰まるように苦しい。その為に、全てを終わらせようと決めたはずだったのに……。

結局……、私の中途半端な覚悟のせいで、不幸にする人を増やしただけ、だったのか……。

 私と出会わなければ、私がもっと早くに痛みも恐れも覚悟して最期を迎えていれば、レゼルクォーツさんやフェガリオさんが情を分ける必要もなかった。

 レゼルクォーツさんが……、こんな風に辛い状態に追い込まれる事も、なかった。


(あぁ、やっぱり私は……、不幸しか生み出せない)


 仇も討てず、さっさと死ぬ事も出来ない……、何もかもが、中途半端な私。

 こんな存在の為に、レゼルクォーツさんは……。

 私はゆっくりと寝台に向かうと、大粒の涙を零しながら口を開いた。


「ごめんなさい……、ごめんなさい……。私のせいで、こんな目に遭わせて、ごめんなさい」


 嗚咽まじりのそれは、自分の中途半端な道に、この心優しい吸血鬼を巻き込んでしまった事に対する謝罪の言葉だった。私と出会わなければ、レゼルクォーツさんが心を痛める必要もなかったのに。時間を戻せるのなら、いっそ……、『あの人達』の許で殺されておけば良かったのだ。

 年月の経過と共に酷く、残虐になっていった仕打ちは、助け出される事がなければ恐らく、私はもうこの世にいなかった最悪の結末を迎えていた事だろう。

 けれど、むしろ……、その方が良かったのだ。私のせいで優しい心を持った人が傷付くくらいなら……。


「ごめんなさい……、私が……、私が……っ、この世にさえ、……生まれて来なけれ、ばっ」


 放り出されていたレゼルクォーツさんの手をぎゅっと握り締めた私は、何度も同じ言葉を繰り返す。レインクシェルさんが悪趣味なら、私だって同じ。

 先延ばしにしていた『死』を掴めず、あの夜……、この人の目に映ってしまったあの瞬間から、私はレゼルクォーツさんの心配の種になってしまったのだ。

 拾われたのも、隷属者にされたのも、結局は私の弱さが招いた不幸だ。

 誰だって、目の前で死にたいと口にする存在をそのままにはしておけない。

 心の優しい人であれば、何とかして生きる道に引き戻してやろうと願うはず。

 特に、レゼルクォーツさんの場合は、同情心以上の真心を私に尽くしてくれていた。

 そんな温かで優しい人の心を、私は自分の中途半端な覚悟の為に、深く傷付けてしまったのだ。

 レゼルクォーツさんもフェガリオさんも私の事を気遣って優しくしてくれたけれど、レインクシェルさんは違った。私の中に在った弱い部分を表に引き摺り出して、もう一度自分のそれと向き合えと、道を示してくれたように思う。

 涙の止まらない私に、謝罪を繰り返す私に、もう刃は飛んで来ない。

 

「リシュ……ナ、どう……した?」


 その時、泣きじゃくっていた私の耳に、疲れ切った優しい声音が届いた。

 顔を上げると、弱々しく微笑んでみせるレゼルクォーツさんの顔があって……。

 ゆっくりと起き上ったレゼルクォーツさんが、私の惨状を見て、一気に覚醒した。


「ちょっ、り、リシュナ!? お前、その傷はどうした!? なんでこんな事にっ」


「……愛の、鞭、でしょうか」


「はああああ!? 愛!? 血みどろのどこが愛!?」


 一体誰がこんな酷い事を、と、レゼルクォーツさんの血走った殺気全開の目が、そろりと扉の方に逃げようとしていたレインクシェルさんの方に定まった。

 それに気付いたのだろう。レインクシェルさんがくるりと顔だけ振り返ってみせると、にへらと笑って見せた。


「だってね~、こうでもしないと、お嬢さん頑固一徹な感じなんだも~ん。仕方ありませんよね~。あ、あと、言っておきますけど~、お嬢さんの傷、全部幻影ですよ~」


「え……」


 高速で扉が閉められた直後、肌に感じていた痛みが嘘のように掻き消えた。

 レゼルクォーツさんが汗に濡れた手でぺたぺたと傷口を確認してくれたけれど、もう血の痕さえなく、あるのは熱の引いた身体に残る気怠さだけだった。


「くそっ……、あの馬鹿兄がっ」


「幻……、だったんです、ね。吃驚しました」


「お前の場合、あんまり表情に出ないから、吃驚に見えないんだが……。はぁ、意味がわからん」


「レゼルクォーツさん……」


 確かに呆気にはとられたし、やっぱりレインクシェルさんは悪趣味だという考えも消えなかったけれど、私はレゼルクォーツさんの手にまた力を込めてその顔を見上げると……。

 不思議そうに傾げられた彼の瞳を真っ直ぐに見つめながら、呼吸を整えた。


「あの……、色々と……、その、ご、ごめんなさい」


「ん? 何がだ?」


「私と出会ってしまった……、から、レゼルクォーツさんに余計なお世話をかけてしまいました。あの森に入る前に、……終わっていれば、良かった、のに」


 自分のせいで色々と大迷惑をかけてしまった事を謝罪すると、何故だか真上から感じる視線が極寒のそれに似たものへと変化したのに気付いた。

 レゼルクォーツさんが、見上げている私の頬を両サイドから指先で摘み、ぐにぃぃぃっと左右に引っ張り出す。


「いひゃいでふ……」


「お~ま~え~はぁ~っ、ようやく死ぬ事を諦めての謝罪かと思えば、またそれか!! 思考回路どうなってんだよ!! このお馬鹿娘が!!」


「いひゃ、いひゃいでふ~っ」


 お前は何も学習してない!! と、恐ろしい必死の形相で怒鳴りつけてきたレゼルクォーツさんが、私の小柄な身体をひょいっとその右腕の中に担いで寝台を飛び下りた。

 あれ、おかしい……。私はただ、自分の中途半端な覚悟のせいで、レゼルクォーツさんを傷付け迷惑をかけた事に対して謝罪しただけなのに。どうして怒るの?

 ドスドスと床が軋む程の音を立てて部屋の外に連れ出された後、私は問答無用で宿屋の一階にある女性用の集団風呂に放り込まれた。

 ――朝風呂にきたマダム的な体格の良い皆さんが、私を目にした瞬間、何故か、目をきらきらとさせてもふりにきたのは、本当に衝撃だった。

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