目覚めと共に最悪のルートが開いていました。

「お父さん……、お母さん……」


 小さく零れ出た自分の声に、私はゆっくりと目を覚ます。

 けれど、朧気に夢と現実を彷徨う私の意識は、まだ戻りたくないと駄々を捏ね、すぐ傍に感じている温もりへと無意識に頬を擦り付けた。――それが『誰』の温もりであるのかにも、気付かずに。


「リシュナ……、お前は幸せになるべきなんだよ。俺が……、絶対に、そうしてやるからな」


 何だろう……。さっきまで聞こえていた台詞と同じなのに、お母さんの声じゃない。

 低く、優しい蕩けるような甘い声音は、間違いなく……、男性のそれだ。

 その音で一気に現実へと戻った私の意識は、瞼を押し開けさせた。


「……」


「お、目が覚めたのか? おはよう、リシュナ。とは言っても、もう真夜中だけどな?」


「……」


 さらりと胸元に流れ落ちている蒼く長い髪……。

 私の視界を淡い光で照らしているランプの灯りで浮かび上がっているのは、お母さんの膨らみのある胸ではなく、少し肌蹴られた夜着の隙間から見えるぺったんこで……、硬そうな胸板。

 自分が頬を擦り付けて懐いていたのは、残念すぎる場所だった。

 試しに、ぺたぺたと両手で感触を確かめてみるけれど、……やっぱり夢じゃない。

 私の反応を眺めているその人の顔を、恐る恐る見上げてみる。

 

「どうした?」


「……お母さんじゃない」


 現実を思い出せば、それは当然の事で……。

 しょんぼりと呟いた私を眺めながら、その人……、自称『お兄様』こと、レゼルクォーツさんは私の背中を撫でながら微笑んでみせる。

 おかしい……。洞窟の奥にいたはずの私が、あそこで最期を迎えるはずだった私が……、何故、レゼルクォーツさんと添い寝状態で寝台に入っているのだろうか。

 

「……思い出しました。最低最悪の変態鬼畜吸血鬼の所業を」


「待て。確かにお前の意に沿わない事をした自覚はあるが、変態鬼畜吸血鬼って……、お兄様の繊細な心をグサグサ毒舌剣で追い詰めてくるのは頼むからやめてくれ」


「嫌です。……貴方なんか、大嫌いです」


「嫌われてもいいから……、お前に生きていてほしかったんだけどな?」


 そう自嘲気味に笑うレゼルクォーツさんから離れようと身を捩った時、私はある事に気付いた。

 身体が……、熱を抱いているかのように重く感じられる。

 まるで高熱を出した時のようだ。そのせいで、身体に上手く力が入らないし……、それに。


「どうして……、貴方も同じ状態なんですか? 変態鬼畜吸血鬼さん」


「うん、だからそれ今すぐやめような? そろそろお兄様も泣いちゃうぞ」


 軽口を叩いてはいるけれど、レゼルクォーツさんの夜着の隙間から見える肌には大量の汗が浮かんでいるし、表情にも……、よくよく観察してみれば無理をしているような節が窺えた。

 本来、高熱を出している状態の時は、健康な人の体温に触れると低く冷たく感じられるはずだ。

 それなのに、レゼルクォーツさんの首筋によろよろと手を伸ばすと、何も感じない。

 完全に自分と同じ熱を持っているのだと気付いた私は、静かに尋ねた。


「何故……、ですか?」


「お前に酷い事をした報い……、かな」


「答えになっていません……。『あの時』私に……、一体『何』を、したのですか」


 ぽたりと力を失った手を、レゼルクォーツさんが弱々しく自分の手の中に掴み取る。

 私の願いを退け、何の予告も同意もなしに首筋に噛み付いたレゼルクォーツさん……。

 あの時確かに、私はこの吸血鬼に血を啜られ、――『何か』を体内に注ぎ込まれるかのような感覚を覚えた。レゼルクォーツさんの喉が私の血を飲み干す音と、急激に遠のいた意識。

 自分が無理矢理に洞窟から見知らぬ場所に移された事を悟った私は、また邪魔をされた事実に心の奥底で憤慨した。あの毒素の溢れる場所でなら……、確実に死ねたかもしれないのに。


「俺は、お前を死なせたくないんだ……」


「それは、レゼルクォーツさんの自分勝手な願いです……。私は、終わりが欲しい、ただ、それだけ……、なのに」


「そうだな……。だけど、俺にだって譲れないものはある。お前に恨まれても……、諦めきれないものが、な」


 寂しそうに微笑むレゼルクォーツさんに、私はさらに怒りを募らせる。

 生きている方が幸せだと、一体誰が決めたというのだろうか。

 私の事を心から思い遣ってくれている事は伝わってきたけれど……、それを受け入れてはいけない。――絶対に。

 私が生きていると、一緒にいる人達に迷惑がかかる。『協力者』を失った私は、『家族』を作る事は許されず、彼らを不幸にする前に離れなくてはならないのだから。

 

「リシュナ……、お前、人間じゃないよな?」


「――っ」


 不意に、また逃げ出す為の案を練り始めた私に、レゼルクォーツさんは遠まわしにではなく、確信を突くように、それを口にした。

 熱を抱いているはずの身体から、一気に血の気が下がっていくかのような強烈な恐怖と怯えが走る。強張り震える身体を、レゼルクォーツさんを逃げないようにしっかりと自分の胸に抱き寄せながら、言葉を続けていく。


「人間相手に強引な吸血行為を行っても、普通は容易く浸食する事が出来る……。けど、それ以外の種族、特に強い力を持ってたり、吸血鬼と相性の悪い種族の血に干渉しようとすると、反発反応が起きる」


「……」


「まぁ、お前と出会った時にも、死にかけの身体に俺の力を注ぎ込む時に感じはしたんだが、強い干渉を行ったお蔭か、なんとなく……、お前が怯える理由がわかった気がした」


「やめて……、くだ、さい」


「お前、言ってたよな? 自分といると不幸になる、って」


 私が、一人を望み、最期を望む背景を察したと静かに、けれど、やはり身体にかかっている負担のせいか、レゼルクォーツさんはきつそうに喋り続ける。

 逃げなきゃ……、全てを聞き出される前に、早くこの温もりから離れないと……っ。

 辛い身体に無理をお願いして、私はぐぐっとレゼルクォーツさんの胸に両手を突いて離れようと暴れ始める。巻き込む前に、早く、早く、逃げないとっ。

 だけど、やっぱり私の力じゃ何も成せなくて、別の方法をとる事にした。


「前にも言いました。貴方には……、関係ありません。私が何者であれ……、何の、関係、も」


「お前は、俺の妹だ……。どこにも行かせないし、不幸にもさせない」


「……野蛮で、冷酷非道で……、変態の、鬼畜な吸血鬼の妹になんて……、なりません。――気色の悪い人外の、家族に、なんて」


 我ながら相当に酷い事をぶつけていると思う。

 一緒にいると吐き気がする、こうやって触れられているだけでもおぞましい……。

 そんな風に、思ってもいない事を静かに淡々とぶつける私に、早く憤慨してほしくて……。

 私はこの人を傷つけるような言葉を吐き続けた。


「嫌い……、大嫌いなんです……。し、死んでほしいくらいに……、傍にいられると……」


 最後の方は、もう声が震えていたように思う。

 『死んでほしい』……、なんて、たとえ人外といえど、向けていい言葉なんかじゃない。

 自分が口にした毒は、向けた相手の心を引き裂き、自分が思っている以上の傷を抉るように与えてしまうのだ。


「これで、わかったでしょう? 私は……、貴方にとって、可愛い妹にはなれませんし、なりません……。すぐに、出て行きます、から、早く……、離れ、て」


 泣きたい気持ちを堪えながらレゼルクォーツさんの表情から目を背けたまま、私はその温もりから逃げようと足掻く。無言になって何も言わない彼の心は今、きっと深く傷ついている事だろう。

 そう、……思ったのに。


「俺は……、お前のそういう不器用なところも好きだよ」


「――っ」


「本当は一人で寂しいくせに、本当は……、死にたくなんかないくせに、誰かを不幸にしない為に、無理をしてるんだよな?」


「違いま……すっ」


 大きな手のひらに頬を包まれ、ぐっと上に向けられた私は……、あってほしくない『温もり』に目を見開いた。見捨ててほしいのに、私が言った毒を突き返すように、酷い罵倒を浴びせてもいいのに、どうして……。


「やだ……、そんな優しい目で……、私を、見ない、で」


「怖がるな……、リシュナ」


「嫌!! 離してっ、私にそんな目を向けないでっ!! 嫌い、大嫌いっ!! 吸血鬼なんか、嫌ぁあっ!!」


 レゼルクォーツさんが私に向けた感情の気配は、紛れもなく、家族を想う情に溢れた優しい眼差しだった。まだ出会って数日しか経っていないのに、どうしてそんな気持ちを抱けるの?

 違う……。きっと上辺だけだ。本当は自分の拾った死にかけの命に小さな希望を抱かせ、あとでズタズタに引き裂いて嘲笑う為に……、そうだ、きっとそうだ。そうでなくては……、困る。

 新しい家族を受け入れたくなくて、不幸になんてしたくなくて……、そう思い込んで心から叫び続ける。この温もりを拒む為には、レゼルクォーツさんに抱いた情を捨てなくてはいけない。

 少しでも私の中に隙があれば、……家族の温もりに抱かれてしまいそうになってしまうから。

 だから私は、気が狂ったように彼の腕の中で弱々しく叫びながら、罵倒の言葉を吐き続けた。

 だけど、レゼルクォーツさんは私を怒鳴るでもなく、叩く事も見捨てる事さえもせずに、私をその腕の中に強く抱き締めてしまう。


「リシュナ……、リシュナ、大丈夫だ」


「嫌っ、いやあっ、触らない、でっ」


 息が苦しい、涙が止まらない……。早くこの温もりから逃げ出したいのに、離れたくないと願ってしまう自分が抑えきれなくなりそう。

 私を宥めるレゼルクォーツさんの腕や手首に噛み付きさえした私に、どうしてこんなにも優しく出来るのだろうか。徐々に暴れる気力さえなくなり、嗚咽を零しながら荒れる息を持て余した私に、レゼルクォーツさんは檻の力を緩めた。


「なぁ、リシュナ……。話してみないか? お前の抱えてる辛いモン全部……」


「嫌……、で、すっ」


「お前はまだ子供だから、一人で全部抱え込んで逃げ道がないとか思ってるだけかもしれないだろ? その点、俺やフェガリオ、それに、クシェル兄貴は生きてる時間も長い……」


 それでも嫌だと答える私に、レゼルクォーツさんはやれやれと疲労の濃い溜息を零した。

 ゆっくりと寝台から起き上がり、支えを失ってぽふんと倒れ込んだ私を見下ろす形で、その手を私の薄紫の髪に差し込んでくる。


「俺達は……、これでもグランヴァリアじゃ上位クラスに入る実力者なんだぞ?」


「……」


 たとえそうであっても……、私はその優しい温もりに身を委ねてはいけない。

 私のせいでレゼルクォーツさん達に厄介ごとを持ち込み、私の事情に巻き込むなんて……、疫病神以外の何物でもないのだから……。

 それなのに、髪を指先で梳いてくれるこの人の感触に、私はどうしても絆されそうになってしまう。駄目……、駄目。私は、この世界に在ってはならない命なのだから。


「死なせて……、くだ、さい」


「駄目だ」


「迷惑はかけませんから……、一人で、どこか誰も来ない場所で、眠るだけです、から」


 枯れ果てそうになるほどに涙で寝台のシーツを濡らしながら懇願する。

 私がレゼルクォーツさん達の家族になれば、いずれ恐ろしい事が起こるのだ……。

 『あの人達』は手段を選ぶような人種ではないから、きっと私の家族に危害を与える事だろう。

 必要があれば、その命を奪い……、そして、また『あの場所』に繋がれる。

 絶対に避けなくてはならない最悪の未来を抱きながら、私は何とか起き上がろうと身体に力を込める。けれど、やっぱり高熱のせいで何も出来ない。


「許さない……。それだけは、絶対に」


「お願い……、お願い、だから、もう……、楽に、して、くだ、さい」


「駄目だ。それに……、お前はもう、『死ねない』」


「……今、なん、て」


 低められ感情のこもらない声でそれを小さく囁かれた私は、直後、首筋に鋭い痛みを覚えた。

 何……、レゼルクォーツさんに噛まれた場所が、ズキズキと痛み出す。

 横たわる私の顔へ、ゆっくりと美貌の吸血鬼が顔を寄せてくる。

 指先で耳に髪を掻き上げられ、レゼルクォーツさんの吐息が触れほどの距離に唇を近づけられる。


「リシュナ、お前は……、俺の、吸血鬼の――『隷属者』になったんだよ」


「れい……ぞく、しゃ?」


 傀儡でも、パートナーと呼ばれる契約でもなく、今、彼は何と言っただろうか?

 痛みを堪える様なアメジストの眼差しで……。


 ――『隷属者』と、そう、確かに口にした。

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