い、ひ、ひ


それから時瀬は記憶がない。ただ意識が戻った時には、自分でも気色が悪いほどのにやけ面でユーコの前に立っていた。

「ユーコ、おめでとう。彼氏できたんだってな。ラグビー部のやつらしいじゃん。体力あるし、さぞかしベッドでも体育系なんだろ。俺なんて懸垂一回もできないし、勉強ぐらいしか取り柄ないからな。うらやましいや」

 いひひ、と卑屈な笑い声を上げながら時瀬は自分で自分を殺してやりたいと思った。同時に、今目の前にいる美少女を彼女にした男への劣等感が雷よりも大きな音を立てて心を引き裂いた。

 ーーほんとは時瀬くんと付き合いたかったんだけどね。時瀬くん、勉強ばかりで恋愛興味なさそうだし。ベッショくん、一途そうだし。まあ、いいかなあ? と思って。それに彼、こないだの模試で学年二位だったんだよ。

「いひひ、そう、へー、すげーなー、俺なんて四十六位だしなー、まあ夏だしな、青春青春!」

 なにか言いたげなユーコを置いて、時瀬は急いでトイレに駆け込んだ。便器に座り、出来るものなら下水に流れていきたいと彼は願った。

 次の日、三日オナニーを我慢していた安西は期待に股間を膨らませながら、時瀬の新作を開いた。

「一睡もせず書いたんだぜ、名作できちゃった」

 目の下に隈を作った時瀬の笑顔が、安西の脳裏によぎる。安西は大学ノート二冊に渡る時瀬の作品をもう一度読み、そして閉じた。

「時瀬、どういうつもりだよ」

 放課後、珍しく安西が時瀬をグラウンドに呼び出した。部活に励む連中が、砂ぼこりをあげながら、汗にまみれている。時瀬は愛読書を睨み付けるようにしている。決してグラウンドを見ようとしない。

「官能的な小説だっただろ?」

「どこがだよ。あんだけのページ数のベッショーリ殺人事件読まされる身にもなってみろ。まあいいや。とりあえず、早くエロ小説書けよ」

 安西が帰った後、時瀬は一人グラウンドに残っていた。直立不動で何かを睨み付ける。 

「時瀬くん珍しいね。いまからベッショくんたちとスタバで勉強会するけど一緒にどう?」

 シャンプーの香りをさせながら、勉強を終えたユーコが時瀬を誘った。ベッショーリがブレザー姿で現れた。

「なあ、ベッショ。お前って何のためにラグビーしてんの?」

「え? 自分の限界を知って越えるためだけど?」

 不意を突かれたベッショーリは反射的に答えた。

「時瀬は? なんか目標あるの? 努力とかしてんだろ」

「俺? ありまくりだって! 文豪!文豪! 努力ぐらいするよね! 毎日ユーコのエロ小説書いてるし、こないだなんてお前が殺される名作書き上げたところだぜ? それから…それから…」

 逃げるように時瀬は場を離れた。ユーコたち女子はきょとん、としていた。

「すげえな、時瀬。こんど読ませろよ!」

 時瀬の背中にベッショーリが声をかけた。ベッショーリの優しさが、時瀬の敗北感をさらに増幅させた。

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