「うるっ」「深まる」「吉」

矢口晃

第1話「うるっ」「深まる」「吉」

「うるっ」「深まる」「吉」



 でもまあ、よかったと思うことにしよう。

 よかったと思うか思わないか。それは僕自身の自由だ。

 自由なんて言葉は、いったいぜんたい、どこにでもある。でもそれが、本当の意味でかどうなのかということになると、とたんに全然自信がなくなる。

 自由、ということばくらい、無責任な言葉は、他にはあまりないだろう。神社で引いた「吉」のおみくじを除いて、ほかには。

 僕のいる国の法律は、僕たちにたくさんの自由を保証しているらしい。発言する自由だとか、表現する自由だとか、寝る自由だとか、仕事を選ぶ自由。

 そんなあたりまえのことがいちいち法律に書かれていること自体が、僕にはなんだか不自由なことに感じられるけれど、ともかく、法律は僕たちの自由を許してくれている。

 じゃあ、僕たちはいったいどれほどに本当に自由なのだろうか。

 働かない自由は、あるのだろうか。いやなことをしなくても生きている自由は、あるのだろうか。お金じゃない方法で、日々を暮らしていく自由はあるのだろうか。時間にしばられない自由は、あるのだろうか。

 そう考えたら、自由なんてとても胡散臭い言葉に思われてくる。

 道路工事をしていた。ガードマンのおじさんが、この道は危ないから迂回して下さいと僕に言った。だから、そう、僕はここであえて「だから」と言いたいのだ。なぜかって、この「だから」にこそ、僕の自由が表現されているから。そこには僕の意思がある。選択がある。法律で保障された、自由がある。

 だから、僕は迂回をしろと言われた道を、あえて堂々と突っ切っていった。重機を操縦するおじさんが、とてもいやそうな目で僕のことを見た。僕に無視をされたガードマンのおじさんも、僕の背中側からやいのやいの声を荒らげていいた。でも、僕にはそんなことは全然気にならない。僕はこの道を突っ切っていくという、自由を選択した。ここを重機で掘るのも、おじさんの自由だ。僕に迂回を頼むのも、ガードマンの自由だ。そして僕がこの道を通っていくのも、同じように僕の自由だ。

 別々の三人の、法律で保証された自由が、この半径二メートルくらいの狭い範囲で出くわしてしまった。そしてその三つの自由が、奇しくも対立をしてしまった。自由は、時として対立をする。でも、それは仕方のないことだとあきらめよう。なぜなら、法律で守られているのだから。

 みんな、自分の自由は正当だと主張する。そしてそれは、誰も間違ってはいない。でも、その対立が深まるばかりで、どうしても解決しない時には、いったいどうすればいいのだろうか。武力をもってこれを制圧する。その自由は、確かにあるはずだ。でも国の法律は、武力、暴力で紛争を解決することを、僕たちに禁じている。

 ちょっと待ってくれよ、と僕は言いたくなってしまう。さっきまで自由を保証するといっていた人が、突然僕たちに、暴力を振るう自由を禁止するなんて。

 でも、ここまで来て、どうやらやっと肩の重さが幾分か和らいだようだ。なぜかって、本当の自由の意味が、やっと分かったからだ。

 この世の中で、本当の意味で自由なのは、暮らしている僕たちなんかじゃない。最も自由で気ままなもの。それは、法律だ。

 だって、そうじゃないか。働かないのは自由だと僕たちに言いながら、納税するのは義務だと同じ口で反対のことを言う。寝るのも食べるのもみんなの自由だと言いながら、寝る時間や食べる時間は、会社や学校が決めていいと言っている。子供にはお酒を飲ませるなという。二十歳未満は未成年だという。愛があっても、二人の人とは結婚するなという。

 そんな自由気ままな法律に振り回されている間に、僕は穴に落っこちてしまった。重機のおじさんが、一生懸命掘っていた大きな穴だ。僕は自由について真剣に考えていたから、足元にこんな大きな穴があるなんて、ちっとも気が付かなかった。重機のおじさんの呆れたような顔が、青空に浮かんで見える。ガードマンのおじさんの慌てたような顔が、雲のように浮かんで見える。おじさんの掘った穴の土の壁が、その二人へ向かって僕の下から垂直に伸びている。

 なんだか、突然おかしくなってきた。声を出して、笑いたくなってきてしまった。

 僕は、穴に落ちてしまったことを、全然後悔なんてしていない。むしろ、僕は穴に落ちてよかったとさえ思っている。

 いや、むしろ逆だ。僕はこのことを、よかったと思うことにするのだ。

 僕は無性に込み上げてくる笑いをかみ殺しながら、さっき隣町の神社で引いてきたおみくじを財布の中から取り出して、広げてみた。

 おみくじには、大きな文字で、「大吉」と書いてあった。

 「前途明るかるべし。艱難辛苦容易く乗越え、更なる成果を得る機運。己信じ、思う進路を直進することで成功あり。」

 そう、おみくじを信じるのも、僕の自由だ。おみくじくらい、信じさせてくれ。僕には、他に信じられるものなんて、何にもないのだから。

 幸せになる自由は、僕にはあるのだろうか。もしあるのだとすれば、それは、いったい誰が握りしめているのだろうか。なぜ僕に、与えてはくれないのだろうか。

 自分を信じて直進しても、結局穴に落ちる。それが僕の人生だ。

 不幸になる自由なのだろうか、結局、僕に持たされていのは。

 困っている二人のおじさんの顔を穴の底から眺めているうち、僕はなんだか、どうしようもなくこの状況がおかしくなってきてしまって、もうどうしようもなく笑いたくなって、突然、うるっとした。

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「うるっ」「深まる」「吉」 矢口晃 @yaguti

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