やさしい雨

縹 イチロ

序章


 雨のなか、子供が独り泣いていた。

 深い森の奥、おいてけぼりにされて。


 曇天より降り注いだ雨は木立に遮られ、時より樹雨となって疎らな間隔をおいて雨垂れをおとす。何もかもが灰色に沈み込み、日差しの下でみられるような鮮やかさはなかった。全身びしょ濡れの少年は、粗末な小袖に身を包みひどく痩せていた。薄汚れて元気の良さはなく、この年頃には似合わない、どこか諦めたような悲しい目をしていた。


 泣いたところで誰も迎えには来てくれない。

 それはこの子も分かっていた。帰る場所も行く宛もなく、少年は森をさ迷う。

 寒さと空腹、そして何より心細さが彼を苛んだ。


 何処をどうさ迷ったのか、見知らぬ小道へ抜けた。

 森を二分して真っ直ぐと延びた路の、どちらへ向かえば良いかなど彼には検討もつかない。道上に立ち尽くし、雨に打たれるがまま途方にくれる。視界の届く限り遠く、道のりの末を見極めようと目を凝らした。


 頬を伝い落ちる涙のみが、彼に人らしい温もりを与えている。


 ふと、その道の上に歩を進める人影を見つけた。

 近づいて来るにつれ女人だ分かる。


 柳の樹のようにすらりとした立ち姿を、足元まで垂れた長い黒髪が際立たせている。市女笠いちめがさ、むしの垂れ絹の内に透ける涼しげな顔は白く、美しいが悲しげに見える。薄墨の坪装束つぼしょうぞくをまとい、背に大きな袋を背負っている。


 雨に濡れた道の上を滑るようにこちらに近づいて来た。

 直ぐに人ではないと解った。

 どこを見て解ったかと聞かれると、説明は難しいのだが、そう感じたのだ。


 目の前まで来ると足を止め、幼子をじっと見つめている。

 しばらく見つめたあと、彼にすっと手を伸ばした。 その手が一緒においでと誘っている。


「おれのこと食べるのか?」


 女は静かに面を横に振る。


「売るのか?」


 この問いに対しても反応は同じだった。

 ならどうしてと問い返せば、雨音のように穏やかな声が囁くように告げる。


「貴方も独り、私も独り。いい道連れになるでしょう」


 女が目を細めて笑った。

 村で聞いたことがある。生んだ子を亡くし、悲しみの余り死んだ女が雨女という妖化しになるのだと。子供が独りで泣いていると連れに来ると言っていたっけ。


 妖化しだと分かっても不思議と恐ろしくなかった。

 井戸のように深い瞳が返事を待っている。


 幼子がその手をとると、その目が潤んだようにわずかに光った気がした。頭と頬を撫でられる。優しい優しい手だった。


 垂れ絹の中へ引き寄せられると、雨は当たらなくなった。まるで雨粒が彼女を避けるように。


「名前はなんと言うの?」

「おれはセン」

「私は時雨」


 短い自己紹介が終わると、センは手を引かれるがまま雨女と歩き出した。どこに向かうのか聞かなかった。 そこ以外行くところはなかったし、聞いても解らないと思ったから。


 山道をひたすら歩き、霧の帳をいくつも潜り、道上、鏡のように空を写した大きな水溜まりに行き着いた。 その手前で時雨が止まる。


「センや。これから見えない道に入るよ。本当に私と来れるかい?」


 多分、この先は物の怪の世界なのだろう。

 雨女は彼に最後の確認をしているのだろう。ここで嫌と言えば、この心優しき妖化しは、センの手を離して独りで行くに違いない。そんな気がした。


「行くよ。時雨と行く」


 時雨は嬉しそうに微笑んだ。

 少し、休憩しましょうと、倒木に腰を下ろす。筍の皮に包まれた握り飯をくれた。 何も感じられぬほどに飢えていたセンは、それを見た途端に空腹を思い出して顔を歪める。


「ゆっくりお食べなさい。」


 雨女は握り飯をぜんぶセンにくれた。

 とても美味しかった。生まれてこの方すべて米の握り飯など食べたことはなかった。どんなに苦労して収穫しても、ほとんどを偉いやつらに取られてしまい、彼らの口にはいることはなかった。水害や冷害におそわれ、なけなしの稲を虫にさらわれても尚。そいつらは税を出せと彼らを追い詰める。


 本当は、末の弟が森へ来るはずだった。

 母は苦しい顔をして弟を手放そうとしていた。母が手を離したら、小さな弟は生きていかれない。そう思うと悲しくて堪らなくなった。

 母も、弟も、可愛そうでならなかった。


 だから自分が出てきたのだ。自分なら一人でも生きていかれるかもしれない。

 少なくとも弟よりは。


 すっかり食べ終わるのを傍らで見守っていた時雨は、自らの袖でセンの顔を拭うとしっかりと手をとった。


「さぁ、行くよ。怖いときは目を瞑って。手を放さないようにね」


 親鳥が雛を守るように袖の内へセンを抱く。その袖から、暖かな夏の雨上がりの匂いがする。

 センが怖さを感じる間もなく、そのまま共に水溜まりへ吸い込まれるように入った。 水面は揺らぐことなく二人を迎え入れ、何事も無かったように波紋ひとつ描かず静寂のなか空を写していた。

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