第52話 カンボジア編 慢性自殺
積み上げられた粗大ゴミ。落書きの消し後がベットリと残る壁。
初めて「さくら苑」に立ち入った時の印象は、とても子供たちが健全に暮らせる環境とは言い難かった。
中庭では、シラミ対策のためか頭を丸坊主に刈り込まれた女児が走り回っている。
子どもたちの着る服はどれも粗末で、あちこちが継ぎ接ぎだらけだ。
※ ※
この孤児院は、あるベンチャー起業家の寄付によって設立され、当初は日本人スタッフが住み込みで支援にあたっていたという。
他で手に負えない問題児を積極的に受け入れたため、シェムリアップ近郊の地域では最後の拠り所になっていたようだ。
だが、精力的な取り組みも長くは続かなかったのである。
スタッフが突然日本に帰ってしまったのを皮切りに運営が行き詰まり、20人近く暮らしていた児童たちは、今残る数名を覗いて別の孤児院への転所を余儀なくされた。
現在は、そんなさくら苑を見かねたシェムリアップ在住の日本人有志たちが再生に動き始めたところだという。
※ ※
「驚いたでしょ。これでも前に比べればだいぶマシになったんだ。新しく加わった支援メンバーが献身的に通ってくれてるみたいだね。それでもカバーしきれず、今のように大人が不在の時間があるのが現状だよ」
俺は物憂げに語るうっちーさんの後に続いて、二階へと上がった。
すると、二段ベッドがずらりと並ぶ大部屋の窓から、ツーンとくる独特の臭気を感じたのだ。
「あれっ?!」
俺は、臭いの正体に心あたりがあった。
(シンナーだ!!)
※ ※
ベッドの陰には、虚ろな目でビニール袋を膨らませる少年がへたり込んでいた。
「たかがシンナー」と侮るなかれ。シンナーの乱用は発展途上国の深刻な社会問題である。どこでも簡単に手に入るうえに、心身へ及ぼすダメージは覚醒剤を含めた他のドラッグよりも強力だ。また、その陶酔感はマリファナなどとは比べものにならず、蒸気吸引がもたらす作用は、「死んでしまっても構わない」と思うほど邪悪な快楽に満ちている。
シンナーの吸引が「慢性自殺」と称される所以だ。
俺は、若気の至りで中学生時代に手を染めてから、耐え難い依存性に辛酸を舐めた経験があった。それゆえ、少年の手から強引にシンナーを取り上げても事態は解決しないことを知っていたのだ。強制的にやめさせたいのなら、閉鎖病棟での隔離が必要だろう。
なんとかしてやりたい・・・。
これからカンボジアは酷暑期に入る。いつ熱中症になっても不思議ではない。
「うっちーさん・・・。俺、シェムリアップにいる間に何か協力できないか考えてみます」
※ ※
「・・やか。・・・ア。。」
それは、差し入れのジュースを置いて、部屋を出ようとしたタイミングだった。
「・やか。ア・・ヤカ」
「んっ!!?」
俺は、少年の口元に耳を寄せた。
「・ヤカ。アヤカ、アヤカ・・・」
なんと、少年が確かに「アヤカ」と繰り返している。
同姓同名?偶然の一致?
そうではない。
絶対的な確信。
アヤカさんは、ここに来ていたのだ!
この名が聞ける瞬間をどれほど待ち望んだか・・・。
「ありがとう・・・。本当にありがとう・・・」
嗚咽を漏らす俺の背中を、うっちーさんが何も言わずに擦ってくれた。
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