第46話 茹でガエルの法則
俺が腐らず前向きになれている理由の一つに、格闘技がもたらしてくれた影響は少なくない。
中学で陸上を辞めて以来、スポーツとは無縁だったアラサー男は鈍りきっていたが、とにかく今はボロボロになるまで身体を動かしたかった。
鉄は熱いうちに打て。日本人の先生が教える総合格闘技の道場がプラカノンにあるとの情報をキャッチした俺は、時を移さず入会を決めたのだ。
初めは思うように動けず、全身が筋肉痛に襲われたが、1ヶ月もする頃には一通りのメニューがこなせるまでになっていた。
身体を鍛えることで、頭にまとわりつく分厚い雨雲がウソのように消えたのである。「肉体と精神は密接に関わっている」と、強く実感したのだ。
また、ジム通いは心身の健康だけでなく爆発的な人脈の広がりに繋がった。
道場には、ASEAN諸国で活躍する沢山の日本人起業家が在籍するため、これまで接点のなかった人々との交流が劇的に増えたのである。
※ ※
プロンポン駅の近くにある「いもや」は、昭和レトロな内装の日本式居酒屋だ。
この日は、カンボジアで旅行会社を営む「うっちーさん」がジムに顔を見せたため、稽古終わりにじっくり呑もうと決まったのである。
賑わう店内の小上がりに通された一同は、プレミアムモルツで乾杯すると、刺し身、焼き鳥、厚揚げ、もつ煮と、ここぞとばかりに注文した。
運ばれてきた大衆料理をつまみに、皆が日本人に生まれた幸せを噛みしめている。
バンコクに来たばかりの頃は「ファック!トウキョー!」などと悪態をついていた俺も、最近はすっかり日本びいきだ。
口を開けば母国の批判。
そんな人間は海外では信用されないのである。
当然だろう。自分のルーツに誇りを持てない恩知らずと誰が一緒にビジネスをやろうと思うか?
現状を嘆くばかりの若者も、海外から日本を眺めてみれば自分たちがどれほど恵まれていたかに気付くはずだ。
日本では派遣労働やブラック企業が社会問題だが、自らの意思で搾取システムに組み込まれる、無知で無気力な労働者側にも責任がある。
いくら政治家に文句を言ったところで世の中の支配構造は変わらない。
それならば、自分自身の価値観を改めてしまったほうが、よほど手っ取り早い。
世界一のパスポートと強い円をもってすれば、チャンスはそこら中に転がっている。
熱湯にカエルを投げ入れると驚いて飛び跳ねる。
ところが、ぬるま湯に浸けて徐々に温めると、気付いた時には跳躍する力を失い茹で上がってしまう。
ご存知『茹でガエルの法則』だ。
まさにこれが、「日本の今」ではなかろうか。
ネットで知り得ぬナマの情報が飛び交う酒席は、どんな有名講師のセミナーよりも面白かった。
ジム仲間御一行のテーブルは自然と熱を帯びてくる。
そして、全員のグラスがビールから日本酒へと移ったところで、うっちーさんが気になる話題を口にした。
「いやー、まいったねー。シェムリのゲストハウスでバイトの募集をかけてたんだけどね。なんとオカマちゃんから応募がきちゃったのよー。僕が面接したわけじゃないんだけどさ。外見は完全に女の子だって。さてさて、どうしたもんか・・・」
「!!?」
傾ける冷酒の盃がピタリと止まった。
「その話、もっと聞かせてください!」
「あれ~、カズくん。ソッチの趣味があるの~?若いっていいねぇ。ガッハハハハ」
うっちーさんは、手の甲を頬に当てる古臭いオカマポーズを作った。
「実は、ずっと所在がつかめないレディーボーイがいるんです!」
俺の鬼気せまる様子に、ただ事ではないと悟ったうっちーさんが状況を語ってくれた。
彼の経営する日本人宿(シェムリアップ)の面接に訪れた人物は、去年までバンコクで働いていたそうだ。
説明された特徴もアヤカさんを連想するには十分である。
(間違いない。彼女だ!)
「連絡先とか履歴書に書いてなかったですか?」
「事務所に帰れば調べられるんだけどねぇ・・・。連絡があったらすぐ知らせるよ」
「ありがとうございます。でも、いいんです」
「・・・・・」
「うっちーさん、カンボジアに戻るの週明けって言ってましたよね?」
「うん、そうだよ」
「自分もシェムリアップについていきます!」
翌朝、俺は眉間にシワを寄せるSVに1週間の休暇を願い出た。
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