第36話 悪夢の始まり

 夕暮れ時、スローボートは中継地点のパクベン村に到着した。


重い足取りで船を降りた俺たちは、待ち構える客引きの言うがまま、船着場から一番近くの安宿に荷をおろした。


「いやー、キツかった~。スピードボートにしときゃ良かったな・・・」


「ここでまだ半分っすからね・・・。マジ腰痛いっす」


疲労困憊の俺たちが愚痴をこぼしあっていると、そんな二人を嘲るように早くも問題発生である。


「ギャーーー!!」


ナオキの叫び声。


驚いて駆け付けたシャワールームには、長さが20センチはあろうかという巨大バッタが居座っている。大の男が二人も揃い、情けないことこの上ないが、何とかしなければ落ち着いて用も足せない状況だ。


困り果てた俺たちは庭で遊ぶ子供に助けを求めた。

すると、「ぼくに任せて!」と、すっ飛んできた男の子は、素早くバッタを捕まえると、なんの躊躇もなく後ろ足をポキッともぎ取ったのである。


「これ、焼いて食べると旨いんだぞ!」


「お、おう・・・。遠慮なく持ってってくれ」


 このように、パクベンの安宿はけっして快適とは言い難い環境だが、ここはラオスの山中だ。サソリや毒蛇でなかっただけマシと思わなければならない。


     ※     ※


 日が沈むと村の気温は一気に下がり、辺りの空気は予想以上に肌寒く感じられた。俺たちは、気合を入れて水シャワーを浴びるとライフワークの酒場探訪に出発した。


ところが、船着場から伸びるメインストリートは静まり返り、唯一、灯りが点くのは川に張り出すように建てられただけであった。


店の中では地元の肉体労働者らしき男たちが酒を飲んでいるが、を歓迎する雰囲気は皆無である。


チャレンジャーの二人も、正直、今回ばかりは非常に入りにくいと感じていた。


「どうしたもんかなぁ・・・」


と、そこで俺の決断を促したのは、ナオキがを見つけたからだ。


「うわー、あのバッタ、ホントに食べるんすね・・・」


"苦虫を噛み潰したような顔"とは、まさにこんな表情を言うのだろう。

なんと、店先のコンロで先ほど退治してもらったバッタとそっくりの物体が丸焼きにされている。


「よしっ。これは行くしかねーな!」


「えっ!マジっすか?」


怯えるナオキを横目に、俺は勢いで店の奥に進んだのだ。


     ※     ※


 酒場を切り盛りする老夫婦は奇異の目でこちらをうかがっていたが、俺たちがビアラオとバッタを注文すると、すぐに笑顔で応じてくれた。


運ばれてきた巨大バッタを前にナオキが閉口する。

しかし、先入観を捨てて口に放り込んでしまえば、大騒ぎするほどの物ではなかったと分かるはずだ。グロテスクな外観と裏腹に、香ばしくでカリカリの食感がビアラオと良く合うのである。


俺は、じっと凝視する客たちに向かって「グッド!」と親指を立てた。

すると、次の瞬間、酒場は大きな笑い声に包まれたのだ。


地元の食べ物を褒められて悪い気がするはずはない。

不信感を持つ相手と距離を縮めるには、彼らが食べる物を「旨い!」と受け入れるのが一番だ。


その後、好意を持たれた俺たちは、ラオラーオというコメが原料の強い地酒を何杯も奢られてしまった。


     ※     ※


 アルコール度数が40度を超える焼酎を、ストレートで4.5杯も呑んだ頃には、ナオキの目が完全に据わってきた。

潰れてしまうのを恐れた二人は、意識のあるうちに席を立つと、会計もそぞろに店を出た。


そして、ふらつく足取りで宿への道を急ぐ途中、薄汚れた格好の不審人物に呼び止められたのである。


「ハロー、ミスター!」


パクベンの悪夢が始まったのだ。

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