第27話 ロイクラトンの夜に
ロイクラトン。それはタイのお祭りの中で、4月に行われるソンクラン(水掛け祭り)と双璧をなす有名な催しの一つである。
行事の光景は日本の「灯籠流し」によく似ているが、本来の目的は農業の収穫に感謝し、水の女神に祈りを捧げることにあるそうだ。
ところが近年、バンコクではこの祭りが恋人同士の一大イベントになっている。そのため、ロイクラトンはカップルにとってバレンタインデーの次に大切な日とされており、浮気症のタイ人も今宵ばかりは本命の相手と幻想的でロマンチックな
そんな特別な夜に、俺が誰よりも一緒に居たいと願った人物はアヤカさんだ。
出会い多きバンコクコールセンターには、他の女子と遊びに行く機会は幾らでもあったが、それでもなお彼女以上に胸躍る相手は現れなかったのだ。
待ち合わせの夜。アヤカさんは黒のオールインワンにロングカーディガンを合わせたシックなスタイルでエントランスに降りてきた。
普段はあまり見せないよそ行きの恰好だ。
唐突だが、ここでアヤカさんの乳房について触れておこう。
彼女のバストサイズはホルモン剤の影響なのか、男性よりは若干膨らみがあるものの、あくまで自然体だ。
つまり、レディーボーイの間ではもちろん、世界中で大ブームの「豊胸」には一切手を付けていない。
ところが、そのスレンダーなシルエットが頭の悪そうな巨乳娘よりもよほど女性らしさを感じさせるのだ。不自然に盛った偽乳をひけらかす、あざといオカマとは一線を画す存在なのである。
※ ※
ロイクラトンのイベントが体験できるアジアティークザ・リバーフロントは、いつものムーガタ屋を通り過ぎた川沿いにある。
敷地内には観光客向けのアジア雑貨や若者に人気のファッションブランド店に加えて、大小様々なカフェやレストランが所狭しと並んでいる。
ロイクラトンの混雑は凄まじいと聞いていたため、ある程度の覚悟はしてきたつもりだが、延々と連なる長蛇の列にはあっけにとられた。
二人はタイ人に習ってクラトン(灯籠)買うと、人にぶつからないよう慎重に川辺へと進んだ。
俺は、はぐれそうになる彼女の手を引いて、付き合い始めの中学生カップルのような甘酸っぱい感覚に浸った。
(我ながら奥手だよなぁ・・)
おそらくこれがアヤカさんと手を繋いだ初めての時だ。
対岸から花火が打ち上げられると歓声が沸き起こった。
辺りは興奮に包まれてロイクラトンの会場は最高潮の盛り上がりをみせている。
やっとの思いで川岸に辿り着いた二人は、大切に運んできたクラトンをそっと水面に浮かべた。
互いの視線が絡み合う。
アヤカさんの輪郭が揺れるロウソクの炎でオレンジ色に照らされている。
俺の心も揺れていた。
無事にクラトンを流し終えた二人は、人混みから逃げるように少し離れたデッキのベンチまで移動した。
「今日は誘ってくれてありがとね。ホントに私なんかで良かったの?」
「一緒に行くなら絶対アヤカさんだって決めてました!」
返事の真意を彼女はどう捉えたであろうか?
まずまずの手応えを感じるが、もう一歩先のセリフが出てこない。
「私ね。バンコクに来る直前まで付き合ってた彼氏がいたの・・・」
俺は黙って次の言葉を待った。
「実は、その人の暴力に耐えられなくて逃げてきたの。だから私、今はもう男の人の何もかもが信じられなくなっちゃった。人を好きになって傷つくのが怖い・・・」
「・・・・・・」
「ごめんね。急に変な話しちゃって」
慌てて取り繕ったアヤカさんの瞳から大粒の涙がこぼれた。
この時、俺はどうするべきだったのか?
その答えはわかっていたのだ。
手を伸ばせば、彼女はすぐ届く距離にいたはずなのに。
(もしや自分は・・・。人の道を踏み外そうと・・・)
心の奥に掛かったブレーキが前進を許さなかった。
この迷いが、近い将来「思わぬ事態」を引き起こすとは知る由もなかったのだ。
「あ、そういえば、来週からナオキくんと旅行にいくんだって?」
しばしの沈黙の後、アヤカさんは独りそっと涙を拭うと話題を変えた。
「あのやんちゃ坊主は危ないところでも平気で進んじゃう性格でしょ?ちゃんとカズさんがコントロールしなきゃ」
「確かに・・・。アッハハハ。おみやげ買ってくるんで楽しみに待っててください」
人々の祈りをのせた灯籠がチャオプラヤ川を淡い光の列となって流れていく。
二人で過ごすロイクラトンの夜は、ホロ苦い思い出とともに更けていった。
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