第22話 ヤーバー=覚醒剤
翌日、俺とマツジュンはチットロム駅でBTSを降りると、ゲイソンプラザの中を抜け、在住者御用達の最短ルートで伊勢丹に向かった。
ラチャダムリ通りはいつもの大渋滞だ。
広場の奥に、タイ人から深い信仰を集めるトリムルティの祠が見える。
立ち並ぶ屋台、近代的なビル、祈りを捧げる人々。
そのコントラストがいかにもバンコクらしい。
「それじゃマツジュン、さっそくカツ丼食べにいこうか!」
「うん。たまには贅沢しちゃおう!ここは新宿さぼてんで決まりでしょー」
はしゃぐマツジュンの顔色が、昨日の昼よりはいくらかマシだ。
「お、おう。いいね-!」
勢いに押されて同意したものの、さぼてんのメニューはローカル食堂のカオ・パット(炒飯)が5,6杯は食べられる値段だ。
そんな俺のためらいを知ってか知らずか、「誘ってもらったお礼に、今日は私がゴチするね!」と、マツジュンはさっさと店に入ってしまった。
なんとも情けない・・・。こんなにも惨めな男がいるであろうか。
昼食代ごときで女子に気を使わせるとは、それこそ甲斐性なしの日本代表だ。
これから俺は、「男に貢ぐのもいいかげんにしろ!」などと、マツジュンを叱りつけるつもりでいたが説得力はゼロである。
それなりのお金を稼ぐことは男のマナー。
「自分さえ食べていければ良い」ではダメなのだ。
自己嫌悪に陥っているうちにボリューム満点のロースカツ丼が運ばれてきた。サクッと揚げたての衣とジューシーな肉の組み合わせは芸術品の域に達している。
「ちょー美味しい!私、ご飯大盛りにすればよかった~」
二人は久々の日本食に舌鼓を打った。
だが、今日のランチタイムはこのまま終わらせるわけにいかない。
食事の後、俺はマツジュンをカフェに誘うと、重要なテーマを切り出した。
「昨日の話の続きなんだけどね。一つ気になることがあってさ」
「え?なになに?」
「マツジュン・・・、彼氏とドラッグとかやってないよね?」
「!!!」
彼女の表情が陰った。
(やっぱり・・・)
現在タイでは、ヤーバーと呼ばれる覚醒剤の一種や合成麻薬(MDMA)の乱用が深刻な社会問題になっている。中でも、夜の街で働く者のドラッグ使用率は極めて高い状況だ。
俺は、マツジュンがゴーゴーボーイに貢ぐ問題よりも「クスリに手を染めていないか?」が心配だったのである。
「・・・・・・」
気まずい沈黙が流れたが、俺は彼女から目を逸らさなかった。
「なんで・・・。わかったの?」
暫くすると、隠しきれないと悟ったマツジュンが白状した。
「わかるよ。俺もいろんな人間を見てきたからね」
「朝帰りが続いちゃうと、さすがに私もキツくて・・・。そんな時、これをやれば元気になるよって勧められたの。ホントに最初は一回だけのつもりだった」
「それ、たぶんヤーバーだな。ヤーバーってなんだか知ってる?」
「うーん。タイでは皆やってるから大丈夫だって・・・彼は言ってるけど」
「マツジュンがやってるそれ・・・。覚醒剤だよ」
「えっ!!もしかして、このまえ元プロ野球選手が逮捕されたヤツ?」
「そう。世の中でトップクラスに危険なドラッグ」
「覚醒剤」と聞いたマツジュンはショックを受けている。
タイで蔓延するヤーバーは見た目がカラフルな錠剤で流通するため、日本人が覚醒剤のイメージと結びつけるのは困難だ。
俺は、なにごとも一度は試すタイプだがヤーバーにだけは手を出さないと決めていた。
内なる声が「それはダメだ!」と、強く訴えてきたからだ。
覚醒剤がどれほど危険かについては、芸能人、著名人が次々と再犯を重ねる現状を見れば説明はいらないだろう。
「全然知らなかった・・・」
「何回もつかってるの?」
「うん。彼といる時はいつも・・・」
悪魔の囁きに耳をかしたマツジュンは、すでに常習者に仕立て上げられていたのだ。
現段階での解決法はただ一つ。
彼女には酷な選択だがこれしかない。
「マツジュン、彼氏のことは忘れて日本に帰った方がいいよ」
しかし、そう言ってはみたもののマツジュンが素直に従うはずがない。
案の定、彼女は待受画面に映る甘いマスクの男を見つめながら拒否の意思を示した。
「私、彼のこと信じてるから・・・」
ここで何時間かけて説得しようが今のマツジュンには届かないだろう。
先程から、立て続けに送られてくるラインの返信にも忙しいようだ。
「カズさん、話の途中でごめんなさい。彼が、誰といるんだって怒っちゃってるの。だから・・。私、行かなきゃ。今日はありがと・・・。じゃあね」
俺は、マツジュンの後姿にもう一度だけ声をかけるべきだったのだ。
窓際のテーブルには溶けたマンゴーアイスと冷めたコーヒーが寂しく残されていた。
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