第10話「君も恋しちゃえばいいじゃん!」
広々とするエントランスでは眠たげな警備員がIDチェックを実施していた。小奇麗なスーツを着こなすエリートサラリーマンたちが出社のピークタイムを迎えている。
俺は、アウェイなムードに戸惑いながらも、混み合うエレベーターで20階に上がった。
研修室には、同期入社組と思しき顔ぶれが緊張の面持ちで待っていた。
男2名、女2名、そして、性別不明が1名のメンバーは「バンコクキッド」の片鱗を見せている。
気まずい沈黙を破ったのは颯爽と現れた日本人男性だ。
「私は皆さんの新人研修を担当する●●大介と申します」
ソフトモヒカンで筋肉質な男性社員は30代半ばくらいであろうか?どこにでもいそうな好青年に見えるが、何かあるに違いない。
この「何か」の正体については後に判明するのだが、現時点ではいたって普通の印象だ。
そんな大介氏に、今日から1週間は研修とワークパーミット(労働許可証)取得の期間だと説明を受けた。ワークパーミットは現地の労働省で取得する決まりになっており、タイではビジネスビザとセットで揃えて初めて外国人の就労が認められるのだ。
バンコクではワーパミを取らずに働く外国人が日本人を含めて後を絶たず、社会問題となっている。不法就労を前提に日本人を雇う悪質な企業も多く存在する中で、バンコクコールセンターは思いの外、真面目な会社のようだ。
また、この許可証を提示すれば、タイ国内の様々な施設をローカル料金で利用できるので大変お得である。外国人料金を支払わされる観光客を尻目に特権階級気分を堪能しよう。
「アイスブレイク」という恥ずかしい余興が終わると、昼休みは同じビル内にあるフードコートで食事をすることになった。
このあたりで、やっとお互いの警戒が解けてきたメンバーは少しずつ口を開き始めた。
日本の会社なら、当然まったく違った趣味嗜好の人物が集まるため、コミニュケーションをとろうにもなかなか会話の糸口が難しい。
だが、我々現地採用者には恰好のテーマが存在する。
そう。皆が日本を脱出して海外生活を始めたばかりなのだ。
「タイは何回目ですか?」「アパートは決まりましたか?」「うまい飯屋知ってますよ!」などなど、自然な流れで雑談は広がり、打ち解けるまでそれほど時間は掛からなかった。
さらには、会社から紹介されたアパートに同社の社員が10人以上まとまって住む例も珍しくないため嫌でも友人ができる。
※実は、この日の同期メンバーも、あとで紹介するミヤコさん以外は全員が同じアパートを契約していた。
合コンや婚活パーティーがアホらしくなるほど、ここには圧倒的「出会いの場」があった。
オフィス全体が巨大な「ラブワゴン」なのである。
※ラブワゴン=ボディがピンクに塗装された『あいのり』専用のワゴン車。フジテレビで1999年10月11日から2009年3月23日まで放送された恋愛バラエティ番組の象徴的存在。
三次元には興味が無いなどとリアルから逃亡中のニート君や素人童貞のワープア中年に告ぐ。
「君も恋しちゃえばいいじゃん!」
何を隠そう、これがバンコクコールセンターの裏コンセプトなのだ。
昼食時に得た情報をもとに、同期メンバーの顔ぶれをざっと紹介しよう。
先ずは男性陣から福岡出身のナオキくん。
大泉洋によく似た彼はどこか愛嬌を感じさせるが、白いTシャツの隙間からいかついタトゥをチラつかせ、胸元ではシルバーのチェーンが光っている。
傍からみると、一見アウトローの匂いを漂わせるも、意外と礼儀正しい20代後半の青年だ。
2人目は広島から来た中年男性のトムさんだ。
老けた伊集院光のようなこの巨漢はデブ特有の汗っかきで、日本ではIT企業に勤めながら月1ペースでバンコクに通っていたタイフリークである。
隣のテーブルの女子大生をいやらしい目つきで物色するところをみると、おおかた女好きのエロオヤジといったタイプか。
その様子に気付いた女性メンバーは早くも彼に嫌悪感を抱いたようだ。
根は悪い人ではなさそうだが、堂々たる体躯とはアンバランスに挙動不審なため、コールセンターでやっていけるのか?と疑問が残った。
続いて女性陣の紹介に移ろう。
同期メンバーの中で一番若いマツジュンは23歳のイマドキ女子である。
地元群馬でアパレル店員とキャバ嬢を掛け持ちしていたと話す彼女は、頑張り屋でしっかり者の印象だ。
マツジュンというのは勿論あだ名で、ジャニーズの松本潤にそっくりなところからついたそうだ。
そこらの男よりイケメンで、尚且つかなりの美人さんのマツジュンは「タイで英語の勉強がしたい」と元気に夢を語ってくれた。
「英語の勉強なのになぜタイへ?」と疑問に感じる方がいるかもしれないが、世界有数の国際都市であるバンコクでは、あらゆるシーンで東京とは比べ物にならないほど英語を使う場面に遭遇する。そのため、格安の英会話スクールに通って基礎さえ身に付けてしまえばこっちのもの。後は英語がネイティブなボーイフレンドを作るだけである。
数カ月もする頃にはびっくりするほどペラペラになっている。
もちろん個人差はあるが、実際に俺はそういう女の子を何人も見てきたので、けっして荒唐無稽な話ではない。
次に紹介するのは俺と同じ神奈川県からやって来たミヤコさんだ。
いきなりのダメ出しで申し訳ないが、この人はいかにも幸薄そうな顔立ちのアラフィフおばさんである。あえて例えるなら陰気な久本雅美といったところか。
日本では近所の介護施設で20年も働いたが、離婚を原因に親族関係がギクシャクしてしまい、そのウザったいしがらみから逃げてきたのだという。
それにしても、50過ぎのBBAとバンコクで同期入社になるとは驚きだ。このメンバーを見る限り、求人のうたい文句である「語学、学歴、年齢不問」の宣伝文句に嘘偽りはなかったようだ。蓋を開けてみれば「面接マスター」などという小手先のスキルは一切不要だったことになる。
さて、ここまで男性と女性がそれぞれ2名ずつ登場したが、忘れてはならない最後の一人はレディーボーイ(ニューハーフ)のアヤカさんだ。
東京都出身のアヤカさんは、本名をシンイチ君といい姿形は完全に女性である。
初対面で「性別不明」とした訳も、どう見ても女性である彼女の社員証に男性名が記されていたからだ。
ショートボブの黒髪と危険な夜の香りを纏う彼女は、ハリウッド女優のミラジョボビッチにそっくりだ。もはやオカマというゲスな呼称すら憚られる。
アヤカさんはバンコクに来る直前まで歌舞伎町のバーで働いていたそうだが、保守的な日本社会に揉まれ、肩身の狭い思いをしてきたのだろう。
その点タイではレディボーイもとっくの昔に市民権を得ており、まさに「まちを歩けばオカマにあたる」状態なのだ。
しかも、これはバンコク首都圏だけの話ではなく、地方の田舎街でも学生の集団に目を凝らせば、その中に必ず一人や二人は薄化粧の男児が混ざっている。
タイはニューハーフショーや性転換手術ばかりが注目されがちだが、この寛容な国民性こそがレディーボーイ先進国たる所以なのである。
性同一性障害などといった、まるで精神病患者のような診断を下され、辛い学校生活を送る日本のセクマイキッズにぜひとも見せてやりたい光景だ。
アヤカさんがバンコクで生活を始めようと思った動機は他の誰よりも納得できる。俺は、人生で初めて向かい合うレディーボーイを前に、女性に対する気持ちと何ら変わらぬ胸のときめきを覚えた。
出会うことは、けっして無かったはずの個性と個性が出会ったのだ。
ケミストリーが起きないはずはない。
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