第9話「Fuck Tokyo!」

 これは俺が日本に居た頃の朝の一コマだ。


 転職初日は家を出る3時間前に起床アラームを設定し、お腹に優しい朝食を済ませる。次に、現地までのルートをGoogleストリートビューで確認しながら全ての行程を疑似的に歩いてみる。そして、そうこうするうちに過敏性腸炎の症状が現れるのでトイレとPCの間を何往復もするハメになるのだが、ここまでやってだ。


ところがである。今朝の俺は違っていた。


バンコクコールセンターへの初出社日。あれほどデリケートだった男が適度なストレスを楽しんでいたのだ。


「さあ、サクセスストリーの幕開けだ!」


気合を入れた俺は、勝負ジャケットを羽織って部屋を出た。


 アパートからバンコクコールセンターのオフィスが入るC●Tタワーまでは、チャオプラヤ川を挟んで20分の距離である。

渋滞が名物のバンコクに住みながら、この通勤時間は非常に恵まれていると言えよう。


 大通りから船着場へと続く細い路地には、朝早くから沢山の屋台が並び、スナック菓子や雑貨、焼き鳥からスイーツまで、ありとあらゆるものが売られていた。

俺は、人だかりのできる店でアイスミルクティー(チャー)を買うと、渡し船に乗り込んだ。


心地よいリズムのエンジン音と涼しい川風が一刻の癒しを与えてくれる。

地元のOLや学生たちに混ざって「水の都バンコク」を感じる時間が俺はすぐに好きになった。


 対岸の船着場からは、辻仁成の小説「サヨナライツカ」の舞台となったオリエンタルホテルをかすめ、その先にある裏道を抜ければもう会社は目前である。


タイでは90%以上の国民が上座部仏教を信仰するが、オフィスまでの裏道は少数派のイスラム教徒が暮らす一画だ。

礼拝時間ともなれば、多くのムスリムたちが集まり、モスクで祈りを捧げる姿を見ることができる。ナナ駅(BTS)近くにある派手なアラブ人街はとは異なり、この界隈はリアルな生活の場なのである。


 こうして俺は、屋台から昇る煙をくぐり、渡し船に揺られ、アザーンを聞きなから会社へと向かったのだ。


なんという非日常。なんという優雅な朝。


かつて、これほど希望に満ちた一日の始まりがあっただろうか?


満員電車に揺られ、下痢腹を我慢し、発狂寸前の自分を押し殺す。

もちろん、まわりの景色など楽しむ余裕はなく、まさに生き地獄。


不健全なサイクルを疑問も抱かずに繰り返す人々。

彼らこそが優秀な人間であり、まっとうな社会人なのである。


耐えられないヤツは打たれ弱いダメ人間。落伍者。蔑まれる存在。


ざけんじゃねえ・・・。


「ざまあみろ!ファック!トウキョー!」


俺は声にならない叫びをあげた。

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