第8話 ナチュラルハイ

 安宿に滞在すること1週間。会社の紹介でお手頃なアパートが見つかった。

いざチェックアウトの時間になると、人間ドラマあふれるこの空間から去るのが寂しい気さえしていた。の日本人宿には、ありのままの自分を包み込んでくれる温もりがあったからだ。


俺は、後ろ髪ひかれる思いでトランクに荷を積み込むと、これから暮らすクローンサーン地区に向かってタクシーを走らせた。


     ※     ※


 引っ越し先のアパートの部屋は15階建ての9階だ。

遠くには、かの有名な「暁の寺」が見え隠れする。


「これぞバンコク!」といった眺めにテンションが上がった。


 このように、まるでVIPにでもなった気分が味わえる物件であるが、家賃は長期契約で5000バーツとけっして高くはない。

それもそのはず、会社側が下調べをしてから社員に紹介するアパートなので、なところを契約させるわけはない。

一日あたりに換算すると約165バーツ。光熱費を別に支払ってもラマ4の日本人宿より更に割安だ。

入居手続きも、前家賃と保証金をそれぞれ1ヵ月分収めてサインを2,3箇所するだけで済んでしまった。


バンコクは家賃が安いと聞いていたが、ここまでコスパが良いとは嬉しい誤算だ。


 一息ついた俺は、象のマークの缶ビールを片手にオレンジ色に染まるチャオプラヤ川を見下ろしていた。


大通りを黒い排気ガスを巻き上げながらバスが走っていく。


燻っていた憂いがゾクゾクする期待に変わるのが分かった。


アルコールの酔いとは明らかに違う感覚だ。


"遠い昔に忘れた"痺れる高揚。


強烈なナチュラルハイである。


気付けば俺は、あの夏のスタートラインに立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る