第6話 無敵のハイスペック小学生
在東京タイ王国大使館でビザを取得すると、いよいよ日本を離れる日が訪れた。
俺は、新年が明けて間もなくの成田空港でスーツケースを引いていた。
ビザの申請には必要な書類こそ多くあったものの、準備するのはどれも簡単でスムーズに手続きは進んでいった。俺が射止めたビザは観光ビザなどというチャラい代物ではない。
泣く子も黙るビジネスビザだ。
「これから仕事で海外なんだよね~。面倒くせ~」
そんな糞うざいメッセージを、知り合い全員に一斉送信したい気分だった。
優越感でニヤニヤが止まらない。
搭乗開始のアナウンスが流れ、俺は一人、浮かれた観光客やエロオヤジの群れとともにタイ航空の機内へと乗り込んだ。
やがて、ここぞとばかりに頼みまくったシンハービールと強い酔い止め薬の相乗効果で軽いトリップがやってきた。
今となっては、たったこれしきのことで小躍りする詰まらない男だが、遠い過去、この俺には輝く未来を期待され、「神童」と呼ばれた時代が存在する。
※ ※
それは中学1年生の時。
悪友に勧められて吸った一本のタバコが歯車を狂わせたのだ。
歴史が変わってしまう瞬間など、総じて些細な出来事から始まるのである。
思い起こせば、人生のピークは小学校5年から中学1年までの間だった。
クラスに一人はいる超早熟タイプの男児である。
その頃の俺は、間違いなく無敵のハイスペックを誇っていたのだ。
勉強、スポーツ、エロトーク。アンダーヘアが生え揃う早さに至るまで、とにかくオールジャンルでぶっちぎりのトップだった。
小学生にとってそれは神を意味する。
もちろん周りは、このスーパーヒーローを放っておくはずもなく、俺は成るべくして生徒会長に選ばれた。バレンタインデーの日ともなれば、家のポストに入りきらないほどのチョコが届いていたのは良い思い出だ。
ジャニーズ系男子だけに人気が一極集中だった時代に、ブサメンが巻き起こした奇跡である。
内から溢れる知性と、チカラみなぎる長身ボディでそれを勝ち取ったのだ。
しかし、絶頂期を謳歌するマセガキに、「有頂天になるな」というのが酷な話だろう。
いつの日か、この少年は世の中を舐め腐り、小さな世界で天下を取ったつもりになっていたのだ。
輝く小学生時代を経て、中学校に上がった俺は、持ち前の運動神経を活かそうと陸上部に入った。
短距離、長距離、幅跳び、高飛び、砲丸投げ。
「どの種目が得意か?」と聞かれれば「全部」としか答えようが無い。
俺は、入部当初からあらゆる種目を総なめにした。
「中学のレベルもこんなもんか。人生余裕だぜ!」
だが、快進撃はその夏の陸上大会で突然終わりを告げる。
※ ※
当日、一年生の中で最速だった俺は灼熱の太陽光が注ぐトラックで声援をあびていた。
もやもやと揺らめく陽炎のなか、陸上競技の花形種目である100M走が始まるのだ。
県央地区の選手が集まる大会には、さすがに速そうな奴らが集まっている。
いつもとは違う重圧感で鼓動は痛いほど速くなる。
スターティングブロックのセッティングが終わり「よーい!」の掛け声とともに腰を上げる。
そして、無情のピストル音が鳴り響いた。
スタートの直後、両サイドの人影は圧倒的なエネルギーで大地を蹴った。
野獣の足並みは暴力的だ。
萎縮する筋肉は言うことをきかず、心はポッキリと折れていた。
※ ※
結果、そのグループでの順位はまさかの5位。
全体では圏外という、とんでもない醜態を晒してしまったのだ。
これほどまでに、同年代から完全なる敗北を喫するのは初めての経験だ。
とどめの一撃で、部内の「永遠の2番手くん」にまで負けたと知った俺は、あまりの無念さに唇を噛み締めた。
永遠の2番手くんが真っ暗な校庭で自主練に励んでいた姿が思い出されたが時すでに遅し。
レースは終ったものの、無様な格好の俺は皆に合わせる顔がない。
ましてや、一年生トップの座すら既に奪われてしまったのだ。
しばしの間、俺はどんな言い訳をしようかと考えていたが、もはやそんな必要すらなかったのだ。
傲慢な敗北者に、誰ひとり近寄ってくる仲間はいなかったからだ。
遠くから注がれる冷ややかな視線には「ざまあみろ!」という残酷な光が宿っている。
その日以降、負けを味わった経験が無い少年のメンタルは極端に打たれ弱かった。
たった一度の負けを乗り越えることが出来なかったのだ。
部活には顔を出さなくなり、嘘をついてサボっては不良の家で屯する日々。
そこまでいけば、キッカケとなるタバコに火をつけるまで時間は掛からなかったのである。
たかがタバコ、されどタバコ。
ニコチンの害がどうこうという次元の話ではない。
1本のタバコが心の綻びに火をつけ、やがて延焼は広がっていく。
薄っぺらい栄光はゴミ屑のように燃え尽きてしまったのだ。
もう歯止めは効かなかった。
家出、シンナー、窃盗、無免許運転と非行は徐々にエスカレートする。
しまいには、学校にさえ通わなくなった。
中学を卒業後。
名前だけ書いて受かった定時制高校に進学するも1ヶ月で退学。
このように、典型的な落ちこぼれロードを爆進する俺であるが、暴走族やヤクザの世界にまで足を踏み入れなかったのが唯一の救いであろう。
いわゆるガチのアウトローにはなりきれなかったのだ。
「お前の進む道はそっちではない・・・」
目に見えない誰かの声が心に響いてきたのである。
※ ※
夢うつつで物思いにふけていると、飛行機はタイの上空で着陸体制に入った。
不快な耳鳴りに堪えながら窓の外に目を向けてみる。
眼下に輝く大都市バンコクの怪しげな街明かりは、俺を魔境にでも誘っているかのように感じられた。
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