第2話「これが、バンコクマジックなのか?」
翌朝、やることもなく喫煙スペースでくつろいでいると、20代半ばとおぼしきカップルがチェックインに上がってきた。真っ黒に焼けた肌は、いかにも今しがた、どこかの島から帰ってきたばかりという印象だ。
聞き耳など立てるつもりはなくとも、フロントの会話は筒抜けだった。
「屋上空いてる?」
「屋上」とは、この宿の名物、5階の激安部屋の通称で、熟練バックパッカーもびっくりのウサギ小屋だ。
暇だった俺が成り行きをうかがっていると、しばらくのあいだ、しつこい値引交渉を続けたあとに、結局エアコン無しの極小ルームに2人で泊るケチケチプランで話がまとまったようだ。
そもそもこの宿は、貧乏旅行者御用達のラストプライスが売りである。がめついカップルの馬鹿げた値切り行為に、俺と視線が合ったフロントの男は助けを求めるような顔で苦笑いを浮かべた。
すったもんだのチェックインが終ると、無精髭の彼氏がこちらのソファーに近付いてきた。そして、俺の前に来るなり「煙草一本ちょうだい!」とタメ口でのたまわった。
俺は、あまりの無遠慮さにイラつきを隠せずにいたが、「バカの相手はやめよう」と自分をなだめ、胸ポケットの中のマルボロを無言でテーブルに放り投げた。
ガリガリに痩せた2人は1本のタバコを回し吸いしている。
その気取った仕草はマリファナ好きのアピールだろうか?
おそらくコイツらは、どこかのビーチでさんざん薬をキメてきたジャンキーだ。男は立ち去り際、「ピピ。ヤバイっすよ」と一言の残し、屋上に消えていった。
ピピは、タイ南部に浮かぶ小島のビーチリゾートである。こういった場所では、たいていのドラッグが容易に手に入るため、それを目当てに長期滞在する若者も多いそうだ。
俺は、このバカップルが早くも大嫌いになっていた。
別の日に見かけた年齢不詳のロン毛くんは、上下セットのクルタパジャマ(インドの民族衣装)をまとい、まるで麻原彰晃そっくりの身なりだった。インドの神秘に心を奪われる気持ちも分からなくはないが、あからさま過ぎてこっちが照れくさくなる。
一度、この男と連れ立ってアラブ街に出かけた時には、道行く本物のインド人に指をさされて笑われていた。
ヨガの聖地にこもって"チャクラを開いた"などと自慢げに語っているが、そのオウムちっくなルックスのまま日本に帰れば職務質問は免れないだろう。せっかく開いたチャクラも、たちまち閉じていくに違いない。
最後に紹介するのは、当安宿で見かけた宿泊者の中で最も場違いな女子大生だ。
俺は、滞在当初からドミトリー(ベッドがカーテンで仕切られただけの相部屋)という、ジャンキーカップルよりも更にグレードの低い罰ゲーム部屋に泊まる色白お嬢様が気になっていた。
しかし、声をかけるチャンスを狙って数日後。ロビーで雑談を交わす彼女の二の腕に透明のフィルムが巻かれているのを発見した瞬間、俺は思わず自分の目を疑ったのだ。
(なぜ、こんな子が?)
透明のフィルムの正体は、知る人ぞ知るタトゥを入れた直後のアフターケアである。
「旅の思い出にね、カオサンで蓮のデザインのタトゥを入れてきたの!」
彼女は他の宿泊客たちを相手に得意げだ。
俺は、この場でタトゥが良い悪いの意見を述べるつもりはない。
それこそ本人の自由だと思う。また、日本は刺青に対して神経質過ぎるのも事実であろう。
だが、老婆心ながらあえて言わせてもらう。
「君に刺青は似合わない」
例えばだが、真っ白なスーツは黒人が着こなすからカッコいいのであって、チビで頭のでかい日本人が真似ても全くおしゃれには見えない。また、ブラッドピットほどのイケメンでもサムライ姿では遠く松平健に及ばないのである。
イマジネーションを働かせてほしい。
ファッションのつもりで入れたタトゥー見て、「お姉さん!イケてるねー!」と言い寄ってくる男はどんなタイプの人間であるか。チンピラやDQNとの出会いを求めているなら話は別だ。だが、わざわざ自分の価値を落とす必要は無いだろう。
以上、ざっと紹介した宿泊者たちは俺が滞在中に出会ったごく一部だ。
このように、宿のロビーに座っていると、とにかく突っ込みどころ満載の個性豊かなメンバーが入れ代わり立ち代わり現れる。そして、この自由でゆるい空気が徐々に心地良く感じられるようになり、いつのまにかどっぷりと浸かっている。挙句の果てには、「俺は俺のまま、自分らしく生きればいいんだ!」などと、根拠の無い自信まで湧いてくる始末だ。
「これが、バンコクマジックなのか?」
インドで修行するまでもなく、俺のチャクラは開きはじめていた。
几帳面すぎて鬱を患っているタイプの人は、ただちに向精神薬を窓から投げ捨て、この安宿に滞在することをおすすめしたい。数日で効果があらわれ、たちまち快方に向かうだろう。
だが、こんなところで病を治してしまうのはまだ早い。
この先、俺が進む道には、日本をドロップアウトした個性豊かな日本人が次から次へと登場する。
俺は、そんな、やんちゃで憎めないキャラクターたちのことを、「バンコクキッド」と呼んでいたのだ。
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