高揚を乗せて、口元を歪ませた
傷口を洗うふりを続けながら、ゆっくりと振り返り、背後にいるグレタのことを確認する。彼女は空を自由に飛び回るフールの姿を眺めては笑顔を浮かべ、楽に過ごしているようだ。冷ややかな水の温度が、高揚するヴィンセントの気持ちを、落ち着けてくれる。
「なんだそれ。オレはそんな話聞いたことねえぞ」
「あれ、そうなの? 私はお母さんから聞かされたけどなあ」
不思議そうにグレタが首をかしげる。
柔らかな、癖の強い黒髪が揺れた。
「アンタ、他にもお伽話のこと知ってんのか」
「えっと、そりゃあまあ。勇者様のお話大好きで、お母さんに何度もせがんで聞かせてもらったから、もちろん知ってるし覚えているよ」
「話せ」
「え?」
「アンタが知っているお伽話、全部、今、ここで、話せ」
水から腕を引き抜いて、雫を振り払いながらヴィンセントは言った。不躾で失礼で、無礼で不敬な態度だ。まるでそれが当たり前だとでも言いたげな態度である。
グレタはグレタで、突然のヴィンセントの対応の変化に驚き、翡翠の目をまんまるにしている。彼から積極的に話題をふってきたのは、これが初めてではないだろうかという驚きで満ちていた。
「えっと、私に、お伽話のことを話して欲しいってこと?」
「そう言ってんだろ。頭悪いんじゃねえの」
「わー。ちょっと今のはむっときちゃった」
言葉とは裏腹に、グレタは鈴を転がすような軽快さで笑い声を立てると、フールを連れたって、川に腕を浸しているヴィンセントの側へと歩いてきた。慌ててヴィンセントは水から腕を引き上げて、傷があったであろう場所に葉を巻き始める。さすがに、昨日の今日で傷口がふさがっているのを見られるのはまずかろう。
ヴィンセントの隣に並んだ彼女はそこにしゃがみ、水面に映っている彼の不機嫌顔に向けて、笑顔を向見せた。
「ね、おにーさん。人に物を頼む態度っていうものがあるんじゃないかな」
「……なにが言いたい」
眉間のシワが深くなることを感じながら、ヴィンセントは低く答える。
「命令形っていうのは、よくないんじゃないかな。頼み方、あるでしょ?」
水面を介し、二人はじっと見つめ合う。
空の両目は品定めをするような鋭い目つきで、翡翠の右目は朗らかな微笑みの色を瞳に宿しながら、互いは静かに見つめ合う。
先に折れたのはヴィンセントの方だった。深く、いらだちを表したようなため息をつくと、水面からそっと目線を外した。アー、と嗤うようにフールが鳴く。
「お伽話に関することを、教えてくれないか」
「どうしよっかなー」
「……アンタなぁ」
「だって、それで教えるなんて、私言ってないよ?」
出掛かった悪態を既で飲み込んで、代わりにぎゅっと目を閉じる。ここで彼女の機嫌を損ねてしまっては、せっかく見つけた手がかりを取りこぼしてしまうことになる。
落ち着くようにと己に言い聞かせて、ヴィンセントはそっと目を開いた。
「なにすりゃ教えてくれんだ」
「名前」
「……あ?」
「おにーさん、結局自己紹介してないよ」
だからなんだと言うんだ。突っぱねたくなる衝動を抑えこんで、深呼吸をする。名前程度で、欲しかった情報が手に入るのならば安いものだろう。
己にそう何度も言い聞かせて、暴言を吐かないようにと慎重に言葉を選んでから、音を紡ぐ。
「ヴィンセントだ」
「ヴィンセント?」
「ああ」
「ファミリーネームは?」
「……ヴィンセント・ノルマー」
グレタが嬉しそうに頬をほころばせて、何度も「ヴィンセント、ヴィンセントね。
ヴィンセント」と名前を繰り返してくるので、ヴィンセントはなんだか、むず痒いような、気恥ずかしいような感覚に襲われた。何故そんなに大切そうにつぶやくのか、理解ができない。
未だ繰り返すつぶやきを止めるため、「おい」とグレタに声をかければ、満面の笑みを浮かべながら、彼女はヴィンセントの目を真っ直ぐに見つめてくる。ぐっと、思わず息が詰まる感覚がした。
「な、名前。名前教えたんだから早く話せよ」
「あ、後もう一個」
「……まだあんのか」
「なんで、この森に来たの?」
グレタは射抜くような、穿つような、鋭い疑問に満ちた目をしていた。
確かに、側にある村があれだけ邪赤眼の存在に怯え、近づくなと警戒を促してくるような森だ。そこに踏み入ってきたヴィンセントを、怪しく思うのも当然であろう。
答えねば、不利になるか。
ため息とともに視線をそらし、ヴィンセントは水面に目を向ける。流れていく水の動きと、水底に沈んだ砂利が連れ去られていくさまが見えた。
「探してるものが、あるんだ」
「なにを探してるの? 私、手伝えるかな」
「手伝ってほしいから聞いてんだろ」
不思議そうに、グレタが首をかしげた。
久しぶりに長く多く喋ったせいか、ヴィンセントはかすかに喉が痛み出したのを感じた。軽く喉元を掌で抑え、小さく咳払いをする。
「お伽話に関係がある場所だと聞いて、ここまできた。だから、アンタが知ってるっていうお伽話の内容に興味がある。オレに教えてくれねえか」
ゆっくりと目を瞬かせて、グレタはヴィンセントを見つめてくる。ヴィンセントはそのまま静かに、水面を見つめていた。
しばしの沈黙が流れる。何処かから、カラスが鳴く声が聞こえた。
「うん、分かった。教えてくれてありがとう」
顔を上げ、ヴィンセントはグレタの方に視線を向ける。
彼女は穏やかに表情を緩ませ、微笑んでいた。
「一番、あなたの役に立ちそうな話をするね。――この森にある洞窟には、陰影の剣があるって話」
やっと、やっと復讐の一歩を踏み出せる。
ヴィンセントは高揚を乗せて、口元を歪ませた。
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