居心地が悪い状況は、

 月光が照らす森のなかを、ヴィンセントはカラスの案内で歩く。足元は大樹の枝。重なりあうように伸びる枝々を確かめるように一歩、踏みしめるように一歩進んで、歩いて行く。

 カラスもヴィンセントの歩みのペースに合わせているようで、時折振り返っては一声鳴いて、少し進んで、また振り返っては一声鳴く。まるで道案内をしているかのようだ。

 否。まるで、ではなく、事実そうなのだろう。

 あのカラスはだいぶ頭がいいようだったし、少女のいうことを聞いて、確実に着実に、ヴィンセントを何処かへ導くつもりなのかもしれない。

 面倒くさいものに捕まったかもしれない。ぼんやりヴィンセントは思う。無理やり手当をすると言ってきた少女は、邪赤眼がうろつくこの森に慣れている様子であった。そんな人物の指示通りに何故動かなければならないのか。動いて、ヴィンセントになにか得はあるのか。

 アー、とカラスが一声鳴いた。

 どうやら思考に夢中で足が止まっていたらしい。途端、不安定な足元に意識が戻り、慌てて幹に手をついた。


「分かった、分かったから急かすな」


 得もなにもなかったか。手当を受けられるというだけで、ヴィンセントには大きな利益だ。なにを気にすることがあろうか。もしもなにか、あの少女がヴィンセントになにか危害を加えてくるようならば、剣の錆にしてしまえばいい。今更斬った人数が一人二人増えようが、なにも変わりはしないのだから。

 一歩、一歩とゆっくり進んでいけば、次第にヴィンセントの視界内に太い太い、立派な大樹が入ってくる。立派な大樹の幹には 階段のようにぐるりと枝がつきだしており、その上には、枝を幾重にも組み合わせたような足場があった。喩えるならば、それはまるで――。


「なんだあれ、鳥の巣?」


 人ひとりが入っても、おそらく殆ど問題がないだろうくらいにはしっかりしたつくりに見える。

 足を止めて、上を見上げて、枝と葉が折り重なったそれを見つめていると、またアーとカラスが鳴いた。肩をすくめまた一歩一歩踏み出して行く。

 どうやらカラスが案内したかった場所は、この人間版鳥の巣のようだ。確かにこの黒い鳥は、そこに導いていく。

 階段のように上に続く枝を踏みしめて上がっていく。思いの外、枝はしっかりとしているようで、足を乗せた程度では全くびくともしなかった。大樹に掌を当てて登っていき、鳥の巣の内部に足を踏み入れる。


「あっ、遅いよ! すっごく待ってたんだよ?」


 中にはあの、黒髪の少女がきらきらとした目を向けてきた。なるほど、もしやここは少女の住処なのかもしれない。


「手当の用意はできてるよ。さっ、早く早く!」


 ヴィンセントの手を取って、巣の中に引きずり込んだ少女は笑顔だ。いきなりのことで反応しきれなかったのか、彼は素直に足を踏み入れる。

 足場は若干ふわふわと柔らかく、ともすれば踏み抜いてしまうのではないかと思うほどだ。それでも時折足裏に当たる硬い感触から、枝はしっかりと組まれていることが感ぜられた。


「はい、じゃあそこに座ってね。で、傷口出して。軽く洗ってから手当するから」


 くるくるとよく動く少女のことをじっと観察し、気を抜かないようにと左手を剣の柄にかけておく。ほぼ巣の真ん中に腰を落ち着けて、少女の挙動に注意しながら周りを見回してみた。

 大きな葉が幾重にも重ねてある寝床と思しき場所があり、その側に太い枝と板で組んだ小さな棚とカラスが入れそうな大きさのかご。反対方向のツタで編まれた大きめのかごの中には木の実や果物が貯めてある。その隣には、水瓶だろうか。大きな木の桶のようなものが置いてあった。

 ヴィンセントが見つけたのはそれだけ。

 たったそれだけの、シンプルな、質素な、寂しい場所であった。言い換えるなら、人の気配が薄い場所みたいだと、ヴィンセントは思った。


「はい、じゃあ腕出してね」


 右手を取って縛っていたロープを解かれる。途端、どっと血が流れ出す感覚がし、うずくような痛みが走る。少女はてきぱきと服の袖をめくり上げ、どす黒い二つの穴をむき出しにすると、木をくりぬいたようなコップに入った水を、遠慮なく傷にぶっかけてきた。冷たい温度が染みわたる。傷に響く衝撃が脳を揺らすように感じられるほどだ。

 何度か繰り返して傷口付近にこびりついた血液を洗い流すと、小さな小さな小瓶を取り出した。中には乳白色のような柔らかい色をした、とろっとした液体が入っている。


「母さま直伝の薬だよ。きちんと効くし、変なものじゃないから安心して」


 にこりと微笑みかけてから、彼女はその液体をヴィンセントの傷口にためらいもなく垂らしていく。とろり、とした感触が肌を伝っていくのが分かった。ひんやりとした気持ち悪い温度が、ヴィンセントの背中を駆け上がっていく。傷にその液体が触れるたび、じくじくとした鈍い痛みが駆けていくようだ。

 たっぷりと腕の上に液体を乗せると、今度は刷り込むように丹念に丁寧に彼女の手が薬を肌に、傷に、なじませてくる。傷口を少女の手が滑るたび、熱く刺すような刺激が、体を巡っていくように思えた。

 そうしてある程度塗り終わったのだろう。包帯代わりに使うつもりらしい長く幅が広い葉を取り出してきて、それを傷口の上にくるくると巻き始めた。


「うん、これで手当終わり」


 きっちり葉を巻ききってから、少女は笑顔を浮かべた。


「すごいね、その傷。狼に噛まれたのかな。がっつり穴が開いてて、ちょっと怖くなっちゃった。大丈夫だった?」

「大丈夫だったらアンタに手当なんざされてねえだろ」

「あ、それもそうだね」


 にこにこと気にした風もなく彼女は笑う。ヴィンセントはとても、居心地が悪くて仕方がなかった。

 気がつけばカラスは少女の隣にちょこんと座っており、休憩するかのように緩く目を閉じていた。鳥は、休憩の時間だろう。


「あ、そうそう。自己紹介しなきゃ。私グレタ。グレタ・テルンって言うの。よろしくね! あなたは?」


 差し出された掌が一体なにを求めているのか、ヴィンセントはすぐに把握する。が、彼はその手を握り返すこともなければ、名乗り返すこともなかった。

 グレタと名乗った少女は暫くの間きらきらとした目線をヴィンセントに向けていたが、手を握り返さないことを察すると、すぐにその手を引っ込めた。ほんのり寂しそうに見えたのは、おそらくヴィンセントの気のせいだろう。


「名前を言われたら、名乗り返すのが礼儀じゃないの?」

「アンタには関係ないだろ」

「そうかもしれないけど、せっかく知り合えたんだし名前を呼びたいな?」


 じーっと、まっすぐに、刺さるほどに正直な視線を向けてくるグレタに耐え切れず、ヴィンセントは視線を横に流した。カラスが眠っている姿が、真正面にくる。


「あ、この子はね、フールっていうの。お利口で可愛い子なんだよ」

「……そうかよ」

「うん、そうなの! 道案内もしっかり出来たでしょう? 名前を呼ぶと喜んでくれるんだよ」


 本当に楽しそうに、至極嬉しそうに彼女は言葉を紡いでいる。幼い顔立ちには笑みが刻まれ、転がるように響く声は喜色をはらんでいる。

 それが、ヴィンセントには居心地が悪くてたまらなかった。

 どれだけ冷たくあしらっても、どれだけ素っ気なくしようとも、グレタは笑い、ヴィンセントと会話をしようと言葉を投げかけてくる。むず痒くて暖かくて、気持ちが悪くなりそうだ。

 居心地が悪い状況は、彼女が疲れてヴィンセントの隣で眠りこけてしまうまで続けられた。肩に持たれてすやすやと寝息をたてている彼女を振り払うこともできず、警戒心を緩めることもできなかったヴィンセントは浅い眠りを繰り返す。

 フールが憐れむように、小さく小さく一声鳴いた。

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