君のこと、手当します
「フール、フール! どこー?」
少女の声は暗い森によく響き、眼下にいる邪赤眼の意識を全て掻っ攫っていったようだ。狼たちが足を折り姿勢を低くしながら、がるると喉を鳴らしている。
そばにいたカラスがひと鳴き、声を上げた。ヴィンセントは警戒心を引っ張りだして、剣の柄に手をかける。
「フール? そこにいるのね? そのままそこにいてよー!」
応えるようにカラスがまた鳴いた。そうして、カラスはヴィンセントの肩に止まり直す。ヴィンセントは慌てておろそうとしたのだが、この鳥が翼を怪我していることを思い出し、下手にカラスに触ることができなかった。苛立ちから、舌打ちが漏れる。
「くっそ、余計なことしてくれんじゃねえぞ」
無意味とわかりながらカラスに声をかけると、アーと小さく声を返してきた。どうやらこのカラスは、相当頭がいいらしい。下手に罵倒すればつつかれるかもしれない。
ざがかさと、なにかが草をかき分け枝を揺らしながら移動してきているのが聞こえてくる。それを感じながら、ヴィンセントは息を詰め、柄を握る手に力を込めた。
目の前の枝が、大きくしなった。
かと思うと浅黒い手が見え、足が見え、黒く波打つ髪が見えた。
人型だ、人型の邪赤眼。
ヴィンセントは迷いなく剣を抜くと、人型に向かって容赦なくそれを振るった。先手必勝、攻撃される前に切り崩す。
が、刃はなにかを斬った手応えを伝えることはなく、「きゃっ」という声のみがこちらに届いた。外したか。すぐさまヴィンセントは手首を返しもう一撃を食らわそうとするが、ズキリと痛んだ腕のせいで一瞬、意識がそれた。
相手にはその一瞬で充分だったらしい。枝がしなり、誰かが、なにかが、ヴィンセントがいる枝に飛び移ってきた振動が伝わってくる。
「いきなり斬りかかるなんて物騒だな」
横から聞こえてくる呆れたような声。それは少女のものだった。高い、透き通る、硝子のような、それでいて熱がある、生きた声だ。
「ねえ、それより君はなんでここにいるの? 村の人は入ってこないから、よそ者かな。どこから来たの? この森にはなんの用?」
少女は嬉しそうに楽しそうに、若干弾んだ声で話し続けていた。対するヴィンセントは、少女との距離に内心冷や汗が止まらない思いだ。懸念していた人型の邪赤眼が、こんなに近くにいる。それはとても、彼にとってはとても恐ろしいことであった。
「いやあ、まあなんでもいいや。人と話すのは、とっても久しぶりだよ」
くすくすと笑みを漏らしたかと思ったら、少女はそのままヴィンセントの隣に腰掛ける。今がチャンスか。剣を握り直してもう一度、そばにいる人型に刃をふるおうと腕に力を……。
アーと、そばでカラスが鳴いた。ふっと意識がそちらにそれる。
途端、風が吹いた。森が鳴くようにざわわと大きく葉を擦れあわせながら、大きく大きく、枝葉が踊る。そうしてできた隙間から差し込んだ月光が、少女の姿を照らしだした。
浅黒い肌。惜しげも無くさらされている肌。布を巻いただけのような貧相な服。ふわふわと柔らかそうな黒髪は、無造作に伸ばされ背中を覆い隠し、隙間から覗く右目は、翡翠の光を自ら発しているかのように淡い色彩を魅せていた。
目が、赤くない。
つまるところ、邪赤眼では、ない。
彼女はただの、一般人だ。
風が収まり、揺れ動く枝葉は落ち着いて月光が遮られる。森にまた、元の暗闇が舞い戻った。ヴィンセントはゆるゆると剣の柄から手を離し、静かに息をつく。一般人を斬るところだった。また無用に殺すところだった。
「ねえ、君」
少女が、口を開いた。かと思えばヴィンセントの腕をわし掴みしてきた。穴が開いた方の腕だ。突然の痛みに耐え切れずうめき声をもらせば、「大丈夫?」と少女が心配そうに覗きこんでくる。切なそうな表情だった。
「痛えんだよ、触んなバカ」
「やっぱり怪我してるんだ。血の匂いがすごい」
「聞いてんのかアンタ。離せって言ってるんだ、離せよ」
「もしかして下の邪赤眼に噛まれた?」
「聞いてんのかよ、おい。その耳飾りか」
「ならすぐにでも手当しないと」
「聞けよ」
「今道具がないから、手当できないんだけれど」
「聞けっつってんだろ、おい」
「うん、決めた!」
君のこと、手当します。
大きな声で宣言したかと思うと、少女はあまりない胸を張って少女は満面の笑みを浮かべた。前髪を撫で付け、一度大きく伸びをしてから、カラスに向かって「道案内よろしくね、フール」と少女は笑う。それに応えるようにカラスがひと鳴き。少女は満足そうな表情を浮かべたかと思えば、ヴィンセントに向かって「絶対ついてきてよね」と念を押した。
なんでオレがと文句を言う暇もなく、少女は別の枝に飛び移り、また別の枝へと飛び跳ねながら移動を開始した。とても、身軽のようだ。
「ついていく義理なんざねえな」
いつの間にか張っていた気をゆるめ、息を吐き出す。
と、肩に止まっていたカラスがアーアーと鳴き声を上げながらヴィンセントのこめかみあたりを小突くように、せっつくようにつついてくる。どうやら早く行けと言いたいようだ。
「んだよ、行く必要ねえだろ」
つんつん抗議するように突かれる。
「アンタだけ帰れよ」
不満そうにアーと鳴いた。
「オレは関係ねえって」
足でがりがり肩を引っ掻いてくる。
「分かった分かった、わーったよ。行きゃあいいんだろ行きゃあ。くそったれ」
満足そうに一声。
本当にこちらの言葉を理解しているようだ。フールと呼ばれていた割に、賢いいい子に見える。
カラスは先導するように目の前の枝に飛んで行く。そうしてヴィンセントの方を見やると、またアーと一声鳴いた。
「行くって、行くよ、行きますとも。だから急かすな鬱陶しい」
気だるそうに、しかし口元に笑みを浮かべながらヴィンセントは立ち上がる。生い茂り重なりあう木の枝を、慣れない足取りで歩く彼の姿は、さながら歩き方を覚えた幼子のようで滑稽だ。
月はまだ高い。夜はまだまだ続くようだ。
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