ヴィンセントは、走る、逃げる

慣れない部屋の中を、ヴィンセントは手探りで歩き動く。家の中にいる全員が寝ていることを確認したため、森に向かう用意を始める。

 昼間は今までなにをしていたのかと家主に質問攻めにされ、夜は少女にせがまれて子守唄を歌った。正直言えば話せるような内容などヴィンセントは持ち合わせていなかったし、色々と持ち上げながら話を聞き出そうとしてくる両親の態度が気に食わなかった。それでも途中で会話を打ち切らなかったのは、ひとえにそばで聞いていた少女のためだ。

 ヴィンセントが一言なにか言葉を発すれば、それに合わせて笑顔になったり泣きそうになったりと、少女はころころと表情を変えて、彼の話に聞き入っていた。そんな少女の様子を間近で見て、ヴィンセントは途中で話をやめるなどできなくなったわけだ。

 夜もそんな調子であった。少女はヴィンセントが歩く後ろをちょこちょこついてまわるし、彼が少し言葉をもらせば、きらきらと輝く目を向けてくる。その目が、海の町でよく相手をしていた少年少女らの目と重なって、邪険に扱うなどできなかった。

 今はその少女も、ヴィンセントの子守唄でぐっすりと眠っていることだろう。その両親も、然り。

 荷物の最終確認をし、腰に二振りの剣をさす。心地いい重さが戻ってくる。子供の前で武器は持てないと、今日一日ずっと外していたのだ。剣を持ち直して、ひどく安心した。


「人殺しの道具で安心、か」


 自嘲の響きをもったその声を聞くものはどこにもいない。

 ヴィンセントは一度髪を解き、もう一度三つ編みを整える。きつく結い直したためか気合が入った。

 少量の金銭と小さなメモを残して、ヴィンセントはその家を発った。


「お世話になりました。食事、とても美味しかったです。娘さんにお伝え下さい」




 細めの月が、頭上高くで笑っている。なんだか道化師に施されている笑顔の化粧のように見えて、非常に腹立たしい。まるでこちらを嘲笑っているようではないか。月光に照らされた森は、ざわざわと葉を揺らし、ヴィンセントを誘うように見下ろしてくる。睨むように頭上に視線をやれば、散りばめられた星屑が宝石のようにきらめいている。


「見た感じはただの森……だよな」


 じーっとあたりを歩いて観察をするが、特に変わった様子はない。落ち葉が降り積もり腐葉土になった地面や、下草が生えていたりだとか。なにか、恐ろしく思うような色の植物があるわけでも、恐ろしい動物に出会うこともない。


「森に入ってないから、か?」


 木々の隙間にぽっかりあいた暗がりを覗きこむ。そこは月光も遮断されているのか暗く、殆どなにも見えない。かろうじて木があるであろう場所にあたりが付けられる程度か。これは今奥に入るのは厳しかろう。

 と、突然頭上から黒い塊が降ってきた。ヴィンセントは驚愕し、咄嗟に距離をとり剣を抜く。いつでも戦闘に入れるよう、静かに片方を逆手持ちに切り替えた。

 降ってきたのは、黒い鳥だった。カラスだ。宵闇に紛れてしまいそうな真っ黒な羽をばたつかせ、もがいている。正体が分かるとヴィンセントはすぐに剣を鞘に戻した。なるべくゆっくりと歩いて、カラスに近づく。


「どうしたんだ、アンタ」


 観察していると、カラスの羽が濡れていることに気がついた。ねっとりとしたその水は月明かりに照らされて色を見せる。

 赤い。カラスは羽から赤い血を流している。怪我をしているのだとヴィンセントはすぐに悟った。すぐになにか手当ができそうな薬や包帯はないかと自分の荷物に手をかける。

 が、その行動を危害を加えると勘違いしたのか、カラスは無理矢理に羽を動かして森の奥へと飛び去ってしまった。


「あ、おい待てこら!」


 反射的に声をあげ、カラスの姿を追いかけてヴィンセントは森の中へと足を踏み入れる。

 予想以上に森の中は暗い。微かに差し込む月光と星灯のお陰で、なんとか周りの様子が判別できるほどだ。

 ヴィンセントは周りの様子など気にせずに、ただカラスを追って奥へ奥へと歩を進めていく。あの傷で飛んでいるカラスが心配だ。あんなにはっきりと濡れているのが分かるほどの出血で動いていれば、もしかしたら死んでしまうかもしれない。それが、その一点のみが心配で仕方なかった。

 奥に踏み入るにつれ、生い茂る葉が多くなる。カラスはそれに紛れて、見えなくなってしまった。自然とヴィンセントの足は止まる。あたりをくるりと見回してカラスの姿を探すが、どこにも見当たらない。いらだちを吐き出すように舌打ちをうち、呼吸を落ち着けるために深呼吸。森独特の、抜けるような空気が、ヴィンセントの肺を満たした。

 さて、困った。ヴィンセントはもう一度あたりを見回す。カラスに夢中になって、いつの間にか森の奥深くへとやってきてしまったようだ。振り返っても、どこをどう通ってきたのか全く分からない。昼間ならばいざしらず、今は夜だ。光源がない今、下手に動くほうが危険か。そう判断したヴィンセントは休憩をしようと開けた場所を探すため、目を凝らした。

 と、そのときだ。獣が喉を鳴らすような、低い鳴き声が聞こえた。瞬時に彼は腰から剣を抜き構え、油断なくあたりに意識を飛ばす。

 木陰から、四匹の狼がのしりのしりと、姿を現す。


「わんころか。動物虐待ってのは趣味じゃねえんだけど」


 軽口を叩きながら、片手を逆手持ちに切り替える。が、ヴィンセントは狼らの目を見て、動けなくなる。

 赤い、赤い目だ。くすんだ、酸化した血液のような色をした目をもつ狼が、四匹。

 邪赤眼だ。邪王の眷属が、この森の中にいた。商人や村人たちの話は、嘘でも誇張でもなかったらしい。


「はっ。確認できただけでも、儲けもんか」


 ぐるるると、狼が体を低くして唸る。今にも跳びかかってきそうだ。構え、対応できるようにと緊張する。が、狼たちの赤い目を見ているとどうしても海の町でのことを思い出して、震えてしまって仕方ない。

 火の海、肉の焼ける匂い、人型の邪赤眼。邪王と、それに操られ人を殺していった自分――。

 突然、右腕に痛みと熱が走る。意識が戻ってきた。どうやら過去に思いを馳せ、緊張が緩んでいたらしい。右腕をすぐに確認すれば、一匹の狼が跳躍し、そこに噛み付いていた。すぐさま左手の剣で狼の腹を裂き、絶命させる。残ったあぎとを無理やり開かせ、腕から引き剥がした。

 一匹目を合図にしたかのように、二匹三匹と飛びかかってくる。それを演舞の要領で右へ左へと避け、構え直す。右腕を、血液が滴った。血液で濡れた手のせいで、うまく剣が握れない。四匹目をいなしながら、舌打ちをする。野生の餓えた獣と、過去の恐怖に縛られた手負いの人間なら、明らかに後者の方が不利だ。

 と、そこで闇に慣れたヴィンセントの目は、更に絶望的な状況を映しだした。

 ヴィンセントの血の匂いに釣られたのか、暗闇の中から爛々と輝く赤い目が一対、もう一対、さらにまた一対……。どうやらまだ、集まってきているらしい。赤の火は、増え続けている。


「くそっ、数が多い」


 自分の不利を理解したヴィンセントはすぐさま剣を鞘にしまおうとする。が、一度いなした狼らが二匹同時に襲いかかってきたときに手が滑り、右手に持っていた剣を落としてしまった。拾おうとかがめば、その隙を待っていたかのように複数の狼が飛びかかってくる。思わず舌打ちが出た。これでは回収できない。

 早々に剣を諦め、ヴィンセントは駆けだした。狼らから、邪赤眼から逃げ出すために森の奥へと駆けだした。どんどん、深層部へと潜り込んでいく様はまるで、彼がなにかに誘われているようにも思える。

 痛みでうずく右腕をかばい、血を滴らせながら、ヴィンセントは、走る、逃げる。

 頭上では、月が妖しく、にこにこと笑っていた。

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