小さな小さな姫のために
太陽は蒼空の頂上で輝き、今がもう昼ごろであることを教えてくれた。ほのかに暖かくなった空気が、若葉の香りを風に乗せて伝えてくる。まだまだ、春の陽気だ。
馬車に揺られて移動した甲斐あってか、森の近くにある村まで、あともう少しらしい。暖かく穏やかな空気に釣られて、ヴィンセントは大きなあくびを隠すこともなく、連発している。それを見たロマンは、苦笑を禁じ得なかった。なんとものんびりした人だと思ったのだ。
「ヴィンセントさん、もうすぐ村につきますよ」
「んー」
気の抜けた返事とともに、ヴィンセントはまたあくびをする。暖かな日差しは眠気を誘ってくるらしい。彼は眠そうに目をこすりながら、ひとつ大きな伸びをした。
馬車の進行方向の先に、小さな木造の建物がちらほらと見え始める。それを確認したのち、ヴィンセントはぐるりと視線を巡らせた。あたりは開けて見通しがいい。どうやら森は、村の向こう側にあるようだ。
「僕は村による予定は、ない、ので。村の近くで降りていただくことになるんですけれど」
びくびくとロマンは言う。それに頷いて、ヴィンセントは自分の手持ち品を確認し、降りる準備を始めた。
村に着いたらまずは森についての情報収集。それから入り口あたりで探索をして、様子を探るべきであろう。ヴィンセントは思考を巡らしながら、村に着いてからのことを考える。住人から話を聞くのもいい。が、商人たちの様子を見る限りなら村の者たちも大したことを知っているとも思えない。あまり期待しないでおくか。
馬車が止まり、馬がいなないた。慣れてきた揺れも収まり、景色が止まる。
「えと、ここから道が違うので、あとはその、歩いてくださるとですね」
紅茶色の瞳は涙でうるみ、おろおろと視線がさまよっている。そこまで怯えられるようなことをしただろうか。気に入らない。無意識的にヴィンセントの口からもれた舌打ちにロマンはまた派手に怯え、震えた。
「アンタなあ、悪いことなんもしてねえんだから堂々としてろよ、ムカつくな」
「すいません! 苛つかせて本当にすいません!」
これは駄目だ。なにを言っても意味がないだろう。ヴィンセントは諦めさっさと馬車から降りると、御者席にまわる。手綱を握ったまま緊張で硬直しているそばかすの青年は、彼が目の前に来たことに驚き、震えた声で「いかがなさいましたか」と聞いた。
それに対してヴィンセントは、揺れ動くロマンの目をしっかり見つめてから短く、だが深く頭を下げた。
「成り行きとはいえここまで送ってくれて助かった。またどっかでな」
軽く手を振ってから、ヴィンセントは村に向かって歩を進める。ロマンは彼の後ろ姿をぽかんと見つめ、しばらく見送ってしまう。
「ヴィンセントさん、笑えるんだ……」
つぶやいたあと、なんて失礼なことを言ってしまったのだろうかと慌てて口をつぐんだ。それからロマンは手綱を振るい、ヴィンセントとは違う方向へ馬車を走らせた。
演舞の歌を口ずさみながら、ヴィンセントは村を散策していた。勇者が決意を新たに自身の心情を語っている歌詞は、どこか今の彼の心境を表しているようにも思える。
ヴィンセントの歌が聞こえてきたのか、家の中から住人たちが顔をのぞかせ始める。興味深そうに彼を見つめる者、何事かと怪訝そうな目を向ける者、不思議そうにそばにいる住人と話している者。様々な反応が見られる。気がつけば彼を取り囲むように人の群れが出来上がる。ちょうどいい。今ここで、聞ける話を聞いてしまおう。ヴィンセントは足を止めてから、軽く自己紹介をしたのち、近くにあるという森について尋ねることにした。
「この近くにある森に行きたいと思ってる。んで、その場所の具体的な情報を知りたい。なんでもいい、知ってること教えてくれないか」
ざわつき、人の声が波となって膨れ上がる。ああ、こいつらもか。朝、似たような反応を見せた商人たちを思い出して、気持ちがささくれ立つ。
「人の姿をした邪赤眼が、毎晩毎晩動物を殺していくんだ」
「夜になると、あちらの方からすごい声が聞こえてくる日があって」
「新月の日なんか、暗いから余計に怖くて」
聞き取れたのはそのくらいか。ヴィンセントは新月の夜という時期を脳内に刻み込んだ。
「んで? 実際に邪赤眼を見たやつはいるんだろうな」
村人たちはそれぞれ互いに顔を見合わせ尋ね合っている。この様子なら、目撃した人物はいなさそうだ。
つまり、邪赤眼が本当に森にいるかどうか怪しくなってきたというわけだ。無駄足を踏んだかもしれない。いらつきが心中に貯まる。
「わーったよ、助かった。んじゃあ、どっか泊まれるところがあるなら紹介して欲しい」
途端、うちに泊まれだのこっちに来いだのとあちこちから声がかかる。その反応に驚き瞠目するが、よそ者が珍しいからゆえの反応かと一人納得した。
と、不意に足元に軽い衝撃が伝わってくる。そちらに視線を向けると、小さな少女がヴィンセントの足にしがみついて見上げてきているではないか。大きなどんぐりのような目が、青空の瞳と交わる。
「おにーちゃん、お歌また歌って。夜にね、子守唄聞かせて欲しいの」
それはつまり、アンタんとこに泊まれって誘いか。ヴィンセントの眉間にシワが刻まれる。少女の背後には、彼女の両親らしき人らが「そうするといい」「私達にも聞かせて欲しい」などと早口で言っていた。
「おにーちゃん、お願い。だめ?」
ため息が漏れる。これは、勝てそうにないと、ヴィンセントは早々に諦めた。
しゃがんで少女と視線を合わせて「オレの歌は高いぞ。アンタが食事用意すんなら考えてやるよ」と答えれば、あどけない顔に満面の笑みを浮かべて喜んだ。
これは、森に行けるのは少女が眠ってからになりそうだ。ヴィンセントは、脳内の予定を大幅に書き換えてから、小さな小さな姫のために、どの歌を紡ごうかと頭を捻らせるのであった。
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