ひらりと、ひとひらの桜が、散り落ちた
焦げ臭い。
空気が、煙たい。
眼の奥を、チラチラと刺激する光。
子供の甲高い声が、聞こえている気がする。
眠れない。眠らせてくれない。
苛立たしげに舌打ちをすると、ヴィンセントは勢いをつけて寝具から起き上がった。月も高く、星明りが灯るこんな時間に、一体誰が騒いでいるというのか。
「常識教えろよ、馬鹿親が」
悪態をついてもう一眠りしようと横になって、ふと、ヴィンセントは気づいた。焦げ臭く、空気が煙たい。それは、異常事態ではないか。日常とは、かけ離れたものではないか。そう、例えば。
「火事とか」
口から言葉が出たとき、彼は背筋が凍るような感覚を覚えた。弾かれたようにベッドから降りると、寝具の横に置いてある二振りの剣を腰に下げる。本当は昼間の演舞の練習で体も頭も、ついでに喉も疲れているのだが、そんなこと言っている場合ではなかった。一度ついた不安の火は、なかなか消えてくれない。
勢いに任せて、ヴィンセントは家の外に出た。
そこには、地獄が……いいや、そんな甘いものじゃない。大獄とでも言えばいいのか。それすらも安っぽく聞こえる光景が広がっていた。
赤い。すべてが、赤い町。
周りの家々には火が放たれており、そこから飛び出してくるたくさんの人。
地面に色濃く残っている、赤黒いシミ。悲鳴。泣き声。なにか、湿ったものでも断ち切るような音。
煤と火の粉が空に昇り、暗い夜空が、赤く赤く、染められていく。見えるものが、視界に飛び込んでくるものが、赤く点滅しているようだった。
めまいを覚え、ヴィンセントの足はふらつく。背中に、家の扉がぶつかった。おそらく、火のまわりを見る限り、ここも、ヴィンセントの家もすぐに燃えるだろう。
なにがどうしてこうなった? 一体今、なにが起こっている? 薪が弾けるような音と、肉がジリジリと焼けていく匂い。
目の前を、少年が赤子を抱えて走り去っていく。彼の頬には涙の痕と黒い煤。かいま見えた少年の腕は焼けただれていて、熱で溶けた人形のようにどろっとしていた。通り過ぎたときに残る、血液の、鉄臭さ。
その子供らを追いかけるような足音が、ヴィンセントの耳に入った。淡々と静かな、死の足音。少年の足がもつれる。コケた。赤子が、少年の手から滑り落ちる。泣き出す赤子。少年は起き上がらない、起き上がれない。ヴィンセントの目線が、少年から離れない。固定されたかのように、視線が動かない。
足音が、追いついた。背後の足音が追いついた。
「あ、あ……」
少年の口から、かすれたようなうめき声が漏れ出る。絶望しきったその顔はまるで仮面のようで。誰が彼の後ろに来たのかヴィンセントには見えない。
少年の背後には黒衣をまとった者が静かに立っていた。髪も服も、肌すらも黒い。その中にぽつんと浮かぶ赤い瞳は、燃え盛る炎なんかとは比べ物にならないほど、鮮やかで冷たい色をしていた。
黒衣の者は静かに、腰に手を伸ばす。そしてゆっくりとした動作で剣を抜いた。鋼が、炎に揺られてきらめいた。
少年は未だ立ち上がれないようだ。溶けた腕が、痛むのだろう。あるいは背後に立つ黒衣の者に恐怖しているのか。
きらめく刃を振り上げて、作り物のような表情で、黒衣は少年に剣を向ける。
広がる赤。撒き散らされる、赤い水。それはヴィンセントの服や手、果ては頬や髪を染め上げた。赤子の泣き声が響く。ヴィンセントの足元になにかが転がりぶつかった。衝撃につられるように、彼はは目線を自身のつま先の方へと下ろした。
そこにあったのは、少年の、首。泣くのを必死でこらえて、叫びそうになった喉を抑えている表情。ほの暗い瞳がヴィンセントを見上げている。これが、今まで生きていたものだったなんて、思えない。不意に沸き上がってきた嘔吐感で、彼は口を抑ええずく。口の中が酸っぱくなって、彼はたまらずすべて吐き出した。空っぽだった胃が、無理矢理にものを吐き出す。少年の首に、酸がかかった。
足音がしたと思ったら、ヴィンセントの視線の中に黒いつま先が入ってきた。靴の甲あたりに、赤いシミがついている。
恐る恐る顔を上げる。ゆっくりゆっくり、油の切れたブリキのようにぎこちなく。
ヴィンセントの眼と鼻の先に、黒衣の者が。真っ赤に燃えるその瞳に、怯え、細かく震えている自身の姿が写っていた。
「じゃ、
自分でも驚くほど、かすれた声が漏れ出る。
邪王の魔力を授かったもの。邪王と契りを交わしたもの。また、邪王の眷属はみな一様に目が赤い。邪悪なる赤い目を持つ者。それが
ひらりと、ひとひらの桜が、散り落ちた。
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