「さあ、私がお前に魔法をかけてやろう」
刃は、ヴィンセントの目の前で止まった。否、ヴィンセント自身が剣を抜いて止めたのだ。その動きはもはや、反射だった。迫ってくる剣を剣で受け止める。演舞の動きの、癖だった。
眼前にあるその刃は、今まさにヴィンセントの命を奪おうとしたのだ。一瞬でも力を抜けば、殺される。無意識の内に、喉が鳴った。
遠くから響いてくる悲鳴や怒号、果ては泣き声は止むことを知らず、炎に包まれた海の町を満たしている。誰かが叫ぶ度に断ち切られ、誰かが泣くたびに終わっている。すーっと、体の内側が冷えていくような感覚がヴィンセントを襲う。
オレは、なにをやっているのだろう。彼の頭の中は、疑問でいっぱいだった。何故剣を抜けるのに、少年をかばうことができなかったのか。何故必死に逃げ生き延びようとした少年が死に、自分が生きているのか。目頭がかっと熱くなるが、涙など一片も浮かんでこなかった。炎の熱で蒸発したのか、泣くほどの余裕が無いのかは本人にも分からなかったが。
邪赤眼は剣が止められたと理解すると、すぐに突きの体制に入る。それを見たヴィンセントは思い切り踏み込んで、相手の喉元めがけて一閃。切り取れたのは邪赤眼が着ていた黒い服だけ。肉を削ぐまではいかなかったようだ。邪赤眼が繰り出した突きはヴィンセントの攻撃によってずれ、扉に突き刺さる。これ幸いと、ヴィンセントは邪赤眼の間合いから逃げ出した。
地を蹴りあげ、血を蹴りあげ、ただひた走る。
「なんなんだ、なんだってんだよ……!」
明日の成人式に向けて飾り付けられていた町は無残にも荒らされ、邪赤眼に斬られたであろう人が事切れ倒れていた。その死体すらも町をまわる炎で焼かれ、匂いに酔いそうだ。
悪夢だ。ヴィンセントは口の中で言葉を転がした。悪夢だ。悪い夢だ。町が火事になることだけでも信じられないのに、邪赤眼まで攻め入ってきた。今は存在しないと言われている邪王の眷属。それらが今ここにいる。存在し、この街に来て暴れている。それはまるで、邪王の復活を暗示しているようで……。
辺りは燃え盛り肌を焼くほど熱いというのに、ヴィンセントは背中に氷を投げ込まれたように感じた。冷や汗がでて止まらない。
思考に気を取られていたのだろう。ヴィンセントはなにかに足を取られ、盛大につまづき地面に投げ出された。湿った鉄臭い地面の中に、体が放り出される。急いで起き上がり、なにに躓いたのか確認するために振り返る。
ヴィンセントが躓いたもの。それは、彼がよく知っている人物の、死体だった。朝、海で演舞の練習のことを伝えてくれた、演舞の休憩中水に晒した手拭いを持ってきてくれた、あの青年。先ほどの少年と同じように恐怖をその目いっぱいに映して、死んでいた。
「ひ……っ」
情けない声が漏れる。ヴィンセントはそれ以上、思うことも考えることもできなかった。
あたりに立ち込める肉の焼ける匂いと、生臭く湿った鉄の匂い。頭の中にあるのは、それだけ。逃げなければとも、生きなければとも思えなかった。
背後から迫ってきた足音に、自然とヴィンセントの体に力が入る。手足がこわばり、息が荒くなった。これでは立ち上がって逃げるなど到底不可能であろう。足音の主はおそらく邪赤眼。先程扉に刺さった剣も、回収できたのだろう。どことなく、その歩調には余裕があるように感じられる。
オレ、死ぬのか。ヴィンセントは思った。成人する前に死ぬなんて、ほんの少し悔しいと思った。だがそれ以上の感情が浮かんでこない。突然の惨劇により、頭が麻痺してしまったのだろうか。考えること感じることに、ひどく鈍感になっている。
足音が止まった。顔の横に影が落ちる。その影は炎に照らされ揺らめいていた。頼りなげに揺れる影は静かに剣を振り上げる。ああ、やっぱり死ぬのか。ヴィンセントは視界から全てを締め出すため目を閉じた。なにもかもが消える瞬間。こんな危機的状況だったとしても、まぶたを閉じるこの瞬間を、ヴィンセントは好きだと思ってしまう。
なにも見えない、なにもない世界から、自分の命が消えるとしても、それは『ない』ものなんだから。
耳の横で風をきる音が聞こえた。頬に熱い痛みを感じる。痛みを感じたと同時にヴィンセントは疑問に思った。何故、生きているのだろう。邪赤眼が狙いを外した? まさか。同じように地面に転がっていた少年の首を、邪赤眼はすっぱりと切り落としたのだから。
では、何故? 疑問ばかりが駆け巡る思考のまま、ヴィンセントは静かにゆっくりと目を開けた。
目の前にある一対の足は、ヴィンセントの顔の前で堂々と仁王立ちしている。邪赤眼は背後にいるから、これはきっと別の者の足だ。
「懐かしく忌々しい空気を感じ来てみたら……私の予感はあたったようだな」
その足はくつくつと喉の奥で笑うような声を漏らし、ヴィンセントのことを蹴飛ばし転がした。抵抗する間もなく、ヴィンセントは空の方をむく。星は見えない。そこかしこで燃えている炎のせいで、あたりが明るすぎて見えないのだろう。
「ほう、見目まで似か寄るか」
ヴィンセントの視界に一人の人間の姿が写り込んだ。
雲のように白い髪と、血液のように真っ赤な目を持った、若い青年。その青年は漆黒のローブをまとっていて、体格がよく見えない。が、ローブの隙間からわずかに覗く柄を、ヴィンセントは確かに見た。下手なことをすれば、今度こそ自分の意識が途切れてしまうだろうと確信もした。
「だが覇気がない。前の『お前』の方が、幾分か潰しがいはあった」
つまらなそうに、白髪の青年は嘆息をもらす。
赤い目、と言うことは彼も邪王の眷属か。動かない頭をきしませながら、ヴィンセントは思う。表情に感情を乗せて話していることから、少年を殺した邪赤眼より位は上なのかもしれない。――だからといって、ヴィンセントのこれからが大きく変わることはないのであろうが。
白髪の青年はヴィンセントのことを頭から爪先までジロジロと眺め回し観察する。それをヴィンセントは黙って抵抗もせず受け入れていた。動く気力が、どうにも湧いてこない。おそらく彼は、自棄になっていたのかもしれない。生まれ育った町が燃え、親しかった知人の死体を見て、心の何処かが切れてしまったのかもしれない。実際のところどうなのか、それはヴィンセント自身にも分からなかった。
ひとしきり眺めたあと、白髪の青年はにやぁっと嫌な笑みを漏らした。いたずらを思いついた子供のような、新しい遊びを思いついた幼子のような笑みである。ただし、その笑顔の裏には邪悪な気配が隠しきれずに溢れ出している。
「決めた。お前にこの町の掃除を頼もう」
ヴィンセントの耳は役にたっていないようだった。音は捉えているのに、意味が理解できない。――役にたっていないのは彼の頭のほうか。
「海岸付近に住人が逃げ込んでな。他の奴らじゃ手出しできん。だが、お前は違う。そうだろう」
それは質問なのか、同意を求めるものなのか。どちらでもないのかもしれないし、そのどちらの意味も含んでいるのかもしれない。
邪赤眼は地面に突き刺さった剣を引き抜き、鞘にその刀身を収めた。その後、白髪の青年の後ろに静かに立つ。守るように、警戒するようにヴィンセントを見下ろしているその様は、騎士という言葉がカチリと当てはまりそうだ。
「何故ならば、この町の住人だからだ。誰もお前が、自分たちを片づけに来たとは思うまいよ」
クスクスと楽しそうに笑い出す白髪の青年は、同意を求めるようにヴィンセントを見下ろした。さて、コイツはなにを言っているのか。ヴィンセントが軋む頭を動かしてみても、青年の真意は理解できない。それどころか、きりの中に踏み入ったようにすら、感じてしまう。
さっと、青年がしゃがみこんだ。ローブが地面についてしまっているが、青年は気にしていないようだ。ニヤッと嫌な笑みを浮かべると、自然な動作でヴィンセントの額に手を当てる。
このとき、ヴィンセントが逃げ出していたら。このとき、少しでも彼が抵抗していたら。なにかしていれば、これからの未来は変わったのだろう。だがしかし、彼は抵抗も逃走も放棄していた。
ひやりとした手が、肌を撫でていく。冷たいなにかがヴィンセントの背中を伝った。
「さあ、私がお前に魔法をかけてやろう」
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