第53話「異界(6)」

 連中は何かに統制されていたわけではない。


 俺がそう気づいたのは、四方の岩壁に立つ無数のディアーボの一部から悲鳴とも雄叫びともとれる不快な咆哮があがり、その声に他の怪物たちが次々呼応して、すべての方向から大地を揺るがす叫びが鳴りだしたのとほとんど同時だった。


 比喩ではなく、本当に地面が揺れている、と思った。地面だけじゃない。宙に浮かぶ目に見えない空気、その空気を構成するあらゆる分子がヤツらの叫び声に恐怖の感情を抱いて震えているかのように、露出している肌の表面にビリビリと痛いほどの刺激を覚えた。


 ディアーボの言語などもちろんわからない。連中が特有の言葉を喋るのかどうかさえ不明だ。


 だがこれだけは完璧に理解できた。連中が腹の底から発している不快で暴力的な雄叫びは、俺たちを殺したい、というはっきりした意思を含んでいる。いや、意思そのものと言っていい。


 迷いのない、純粋な、殺意のかたまり。


 これほど強烈でまっすぐな殺意を向けられたことは今までなかった。その未知の感覚が、俺の中の、ある感情と激しく反応した。恐怖ではなかった。


 怒りだった。防衛本能によるものだろう、殺意に抗うための怒りだ。


 そのとき耳を埋めつくすバケモノどもの叫びの合間から、うあああああ、という低い唸りが聞こえた。ケンジだ。


 ケンジも俺と同じ感情に支配されているに違いない。あの屋敷の実験室でディアーボとしての覚醒を果たしたケンジの体は、すでにどす黒く変化し始め、衣服はその膨張に耐えられずところどころ破けだしている。


 どうして俺はケンジと違い見た目にそれとわかる変化がないのだろう、などとは考えなかった。俺の皮膚はどす黒く変化もせず筋肉がはち切れるほど膨張したりはしない。しないが、俺の体の奥底、核のようなものが信じられないほど熱くなっているのがわかる。そしてその熱量が、全身に、圧倒的なエネルギーをたぎらせている。


 視界の端にはゼンの姿もあった。ゼンは、腰を落とし両手を握りしめ目を閉じ下を向いている。今にも天に向かって叫びだしそうだ。ヤツはまた、あの砂漠のときのように、歓喜と高揚の涙を流しているのだろう。


 ディアーボどもの怒号のような叫びはますます大きくなる。


 肉体が強化されているのか皮膚に痛みはもう感じない。生身の人間ならこの怒号だけで、海底の強力な水圧に押し潰されるクラゲのようにぐしゃぐしゃになっているはずだ。


 俺は、俺たちは、ここで死ぬ。


 その事実を、まるで、今日は学校に行ってそれから家に帰ったら寝るだろう、というほどの自然さで、俺は思い浮かべていることに気づいた。


 死が、まったく当たり前のものとして受け入れられたのだ。


 そうと自覚した瞬間、さまざまな思いが、凄まじい速度で頭の中を流れた。


 ほんの数ヶ月前まで、俺やケンジは、ただの無気力で無責任な高校生だった、将来に対する夢や希望といったものは別にこれといってなかった、だが自分たちの人生に決定的に絶望していたわけでもない、俺たちは、自堕落でも毎日を楽しく奔放に生きていた、そういう日々が、刺激もないが大きな不安に脅かされることもない日々が、永遠に続くだろうと根拠もなくぼんやりそう考えていた、

 

 それがどういうわけだろう、いまやアイリは行方もわからず捕えられ、ケンジは拷問の末ディアーボへの変化を強要され、数百もの人間の命を奪う殺戮を犯し、みずから死を願うほど追いつめられている、

 

 俺は、従来の生活では絶対に出会うはずのなかった、ゼンや裏の世界の人間たちと交わり、行動をともにし、他の同級生がそうするように学校や塾やゲームセンターや互いの家にではなく、樹海の洞窟や群馬の山村や、暴動を心待ちにする若き扇動家との会談、それに世界を支配する権力者に会いに北欧まで足を運んだりしている、

 そのすべてのきっかけは、あの、黒いディアーボだ、


 俺は、ふいにあの日が、アイリとケンジと三人で樹海の森を訪れたあの日が憎いと思った。あの日が、俺たちのすべてを変えてしまったからだ。


 ディアーボたちの地獄のような咆哮は、これ以上ないほど高まっている。少しずつ、連中がこちらに向かいにじり寄ってくるようなプレッシャーを感じる。確信できた。ヤツらはもうまもなく、俺たちを蹂躙すべくあの岩段から一斉に襲いかかってくる。


 死は受け入れたはずだった。にもかかわらず、今度は俺の脳裏に、アイリと

姉貴が、そして最後に、親父の顔がはっきりと浮かんで消えた。


 親父はアラスカで死んだのだろうか、それとも今もどこかで生きているのだろうか。


 生きている。そんな気がした。親父がどこか俺の知らない土地で生きのび、目を見張るような大自然の中でハンティングをしているのではないか、そう思えた。


 あの無愛想で、少し困ったような表情で雪原に身をひそめ、野生の大鹿や狼や鳥やウサギを猟銃で仕留めようとする姿が浮かび、涙が出そうになった。


 親父にもう一度会いたい。


 心からそう思った。


 腹が裂けそうなほどの大声で、親父、と叫びたいと感じたその瞬間、これまでにないほど凶暴で禍々しい怒声が俺たちを囲むディアーボの群れから放たれた。ほぼ同時に、高層ビルのような岩段のあちこちから、バケモノどもが、何か奇声をあげながら次々と跳躍し、俺たち目がけて飛びかかってきた。


 俺は一瞬目を閉じた。親父やアイリの顔、浮かんできた感傷的なイメージを心の奥底に瞬時に押し込もうとした。そして次に目を開けたら、二度とそれを閉じることはないだろうなと思った。バケモノたちに殺されるまで、少しでも暴れ続け、死にゆく運命に逆らってやろう、そう決めた。俺は目を開けた。


 視界は暗いままだった。

 

 激しい悪寒を覚えた。気づかない一瞬のうちにバケモノから攻撃を受け命を落としたのだと思った。


 これが死ぬということか、そう思った。


 そうではなかった。


 俺は無傷で、まだ生きていた。


 視界を、間近に立つ巨大な何かが遮っていたために暗く感じただけだった。


 見覚えのある、巨人のような姿をしたその人物の異様に広く大きな背中が、俺の視界を覆っていた。

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