第50話「異界(3)」

 眠れない、と俺の隣に座ったあと、ケンジは自分から何も喋ろうとしなかった。


 向かいの壁をぼんやり眺める。壁も天井も、岩肌は滑らかででこぼこがほとんどない。壁の表面は乾いても濡れてもいない。この空間、この異界に、水や湿気は存在するのだろうか。


 周囲の空気はしんと冴えている。だが寒さによる冷気とも違う。実際、寒いとは感じない。ゼンと迷い込んだあの砂漠はどうだったか。ほとんどパニック状態だったために覚えていないが、寒さも暑さも感じなかったように思う。


 俺たちが当たり前に生きる世界とはあらゆることがかけ離れた場所なのかもしれない。こちら側の世界には、何が、何のために、存在するのだろう。ゼンの寝息のほか一切の物音のない空間で、頭にそんなことが浮かぶ。


 視界の隅に映るケンジがわずかに体を動かしたのか、意識の中にケンジが現れ、どういうわけか、俺は近所の公園で二人話したときの光景を連想した。


 アイリに会いに樹海の街を訪ねる前。まったく突然に黒いディアーボに遭遇することになる、ほんの少し前。確かあのときも、話題は南米のジャングルを血で染めたディアーボだった。


 ふと見ると、ケンジも俺を見ていた。俺たちは少しのあいだ互いに顔を見合わせ、それから、本当に久しぶりに、笑った。声をあげて笑うのではなく、遠慮がちに微笑みをこぼし合うような感じだった。


「なぁ、覚えてるか」


 俺から正面の壁に視線を戻して、ケンジが言った。何が? と聞くことなく、俺は、公園のことだろ、と答えた。二人とも同じ光景を思い出していたのだと、なぜか確信できた。


「あのときはさ、こんなふうになるなんて思わなかったよな」


 そう言って、ケンジは細く長いため息をつき、上を見上げた。俺も同じことをした。雲の浮かぶ広々とした青空はなかった。奇妙に滑らかな質感の岩肌がすぐそこにあるだけだった。


「うん、思わなかった」上を向いたまま俺は言った。


「俺たちを襲ったあのディアーボ、サクヤ、お前が倒したのか?」


 天井から俺に視線を移してケンジが聞く。


「倒したわけじゃないよ」

「でも、とにかくお前がやったんだろ」


 まぁそんな感じだけど、と俺は曖昧に答える。鎧の怪物のことは話さなかった。隠そうとしたわけじゃない。その情報がケンジに何の救いも与えないことがわかっていただけだ。


「みんな、どうしてるかな」


 ケンジが唐突に話題を変えた。みんなって? 俺が聞く。


「みんなだよ、学校の連中、教師、親とか家族とかさ」


 ケンジは小学校以来、親戚に育てられた。両親には俺も会ったことがない。さほど思い入れがないのか、あるいはあるからなのか、ケンジが親のことを詳しく語ったことはほとんどない。


「サクヤ、姉ちゃんには連絡したのか?」


 うん、と俺は頷いた。もちろんこんなことになってるなんて姉貴は知らないけどさ、そう言うと、そりゃそうだよな、とケンジは笑った。


「誰も知らないよ」また上を向いてつぶやく。「お前がディアーボをやっつけたことも、俺があれと同じバケモノになっちゃったことも」


 そう言ってから、ケンジは、マスコミが聞きつけたら俺たち一気に有名人だな、と乾いた笑みを浮かべた。


 俺は笑わなかった。ケンジが、本当に話したいことを避けているのが痛いほどわかったからだ。ぐるぐると、核心の周辺を怯えながら走り回っている。


 学校や大人たちの話題も尽きて、俺たちはしばらくのあいだ、黙った。話すことに飽きたのでも、疲れたのでもない。本当に話すべきことからもう逃げられないよな、という無言の確認を交わしていたのだった。


 ふっと、深く速い呼吸をして、それでさ、とケンジは口を開いた。


「アイリのことだけどさ」


 ケンジの言葉と同時に石か何かでも投げつけられたように、頭と胸に一瞬激しい痛みを覚えた。痛みが引くにつれ、その部分が熱を帯び、鼓動が速くなる。


 ケンジがぼそりと何か言った。うまく聞きとれず、何だって、と俺は聞き返す。


 頼むよ、とケンジは寂しそうに目を伏せた。


「サクヤ、あいつのこと、よろしく頼む、

 いや、頼むなんて変な言い方かもしれないけどさ、別に付き合ってるわけでもなんでもないしな、

 でもさ、とにかく、アイリのことはサクヤに任せたいんだ、わかってくれるよな」


 そう言って笑った。笑う直前、すがるような眼差しを俺に向けた。ぞっとした。ケンジが見せたこともない、悲しげな目だったからだ。

 

 混乱した俺は、何か場をとりなす言葉を言わなければと焦り、ケンジの肩を軽く小突いた。


「任せるって、何言ってんだよ、一緒に穴の向こうに戻ってアイリを助けるんだよ、

 詳しく話してなかったけどさ、俺、樹海の穴からこっちの世界に来たことあるんだけど、ちゃんと戻ったからな、ほら、あいつと、ゼンと一緒にさ、

 だから今回だって、俺たちみんなあっちに帰れるよ、帰って、それでアイリとまた会って、日本に戻ってさ」


 早口に喋る俺の話を、ケンジは掘り下げようとしなかった。前回来たときは何があったのか、どんな場所だったのか、どうやって元の世界に戻れたのか……普通に考えれば当然知りたくなるこれらの疑問を、ケンジは一切聞かなかった。不穏な予感が肌を覆う気がした。寒さを感じているわけではないのに、首筋や背中に嫌な汗が浮かんできた。


 困惑する俺をじっと見つめ、それから自分ひとり何かに納得したように頷いた後、ケンジは、俺じゃダメなんだ、と言い、さっきと同じことをもう一度くり返した。


「サクヤ、アイリのこと、頼んだぞ」


 そして視線を落とし、ひざの上に置いた自分の手を見ながら、言った。


「俺はアイリには会えない、合わせる顔がない、俺のせいで、アイリは地獄を味わったんだ、

 それに、俺はもう人間じゃない、バケモノなんだ、体がバケモノに変身するとか、そんなことじゃない」


 俺はケンジを見ている。声には震えが混じっている。ケンジは、俺ではなく、声と同じく小刻みに震える、自身の手を見つめている。


「俺は人殺しだ、数えきれないほど人を殺した、無邪気に笑う子どもやその母親やまだ生まれてまもない赤ん坊たちの、命を奪った、覚えてすらいない犠牲者も無数にいる、どれだけ大勢殺したのかもう自分でもわからないんだ、

 絶対、絶対に消えない、俺の罪はどうやっても消せない、

 わかるだろサクヤ、俺はもうアイリに会うことはできないんだ、俺はな、お前たちと同じ世界に生きてちゃいけない人間に、なっちゃったんだよ」


 顔を腕の中にうずめ、ケンジが泣き出した。俺は何も答えず黙っている。さきほどまでゼンの寝息がかすかに聞こえていた洞窟に、今はケンジのすすり泣く声だけが響いている。

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