第31話「フィンランド・ユヴァスキュラ(2)」

 異形、としか表現のしようがなかった。


 肩や首や腕をはじめとする筋肉が盛り上がり、全身は黒ずんで膨張して、男性の体長は2メートルを超えているに違いない。拘束具はとっくに限界をむかえ弾け飛んだ。


 地鳴りに似たうめき声を発したと同時に、怪物はベッドから跳躍した。凄まじい速度で真上に向かって爆ぜ、天井に、恐ろしく太い両手の指を食い込ませてつかまる。


 巨大で醜悪なヤモリか何かのように、天井から部屋の様子を窺うそぶりを見せた後、でたらめなスピードで、壁から壁へと飛び回る。常人にはその姿すら確認できないはずだ。


 あちこちの壁に衝突するたび、低く鈍い轟音が響く。控えめで高貴なホテルの客室を思わせる部屋の壁は分厚いコンクリートかそれにかわる特殊な鋼材が使われているのか、表面が大きく傷つきひび割れているものの、怪物の圧倒的な暴力にもよく耐えている。


 怪物は飛び回るのをやめない。すでにベッドは、跡形もないほどに破壊し尽くされている。


 カメラは壁に埋め込まれていたのだろう、気が触れた猛獣のように暴れまわる怪物の姿を捉え続けていたが、隅から隅までスキマなく壁に激突を繰り返すその暴威から逃げられず、ある瞬間、唐突に、画面から部屋の様子がぶつりと消え映像が途切れた。


 画面にはしばらく何も映らなかった。ただ闇のような黒さだけがある。まるで誰かが画面越しに、俺たちの反応を楽しんでいるかのようだった。


 俺は圧倒されていた。


 無理もない。あんなものを見せられれば誰だって凍りつく。思考は停止する。たったいま目の前に映し出された光景に釘づけになり、映像が消えた後も、金縛りのように、後味の悪い不穏な余韻に全身を締めつけられるだけだ。


 ゼンは高揚した表情を引っ込め、何かに気づいたように、口もとに手を当て、真剣な目つきで、画面ではなくその下のテーブルに視線を落とし黙り込んでいる。


 さきほどまでの高揚はかけらも感じられない。不機嫌そうにさえ見える。不吉な予感がした。だが、それが何を意味するのか俺にはわからなかった。


 やがて、何度かノイズが走った後、画面にふたたび光が戻った。


 シーンが変わり、背もたれの高い革張りのイスに腰かけた、男性の後ろ姿が映る。怪物へと変貌を遂げた先ほどの男性ではなさそうだった。画面はモノクロからカラーに移っている。


 背もたれから覗く後頭部は、適度に整えられた豊かな白髪で覆われていた。あの老人の兄だ、俺は直感的にそう理解した。


 はじめまして、という英語が、画面の向こうから聞こえた。男性の表情が確認できないために、吹き込まれたナレーションか何かのように思えた。ゼンもそう感じたのか、応答しない。

 もう一度、声が発せられた。


 お会いできて、とても、嬉しい。


 ものすごくゆっくりとした口調で、声はかぼそく掠れていた。病院の廊下で、肺病を患った闘病中の老人に話しかけられたような感じだった。


 野生に触れて生きるあのロヴァニエミの老人がたたえる厳しさと精悍さは、この男からはほとんど感じられない。弱々しい印象さえ受ける。


 彼が、世界でも有数の力を手にする裏の支配者なのだろうか。


 椅子に深々と背を預けた姿勢になって、ゼンが聞いた。


 あんたが、地球を統べる権力を持つ偉い偉いジイさんなのかい?


 ぶしつけな問いかけに、白髪の老人はしばらく反応を見せなかった。背もたれから見える頭部は微動だにしない。機嫌を損ねたのかもしれない。


 だが、やがて画面越しに、押し殺した笑い声が聞こえてきた。独特の笑い方で、咳き込んでいるだけのようにも見える。声のかぼそさのせいだと思った。

 老人は、非常に、と続けた。


 うん、非常に、ユニークだね。


 背を向けたままそう言い、かすかに頭部を揺らして、また笑った。


 何者でもいいんだけどね、ゼンが応答する。


 誰でもいい、あんたが何者でも構わない、本物の支配者でも、余生をもて余して悪趣味な娯楽に入れ込む大金持ちでも、なんでもいい……


 でも、とゼンは続ける。


 さっきの、あの映像には関心がある、古くさいモノクロ映像なんかにしてたけど、あれはこの間の、マナウスの、サヴァイバーだろ、

 それであんたは、怪物に姿を変えたマナウスの彼を、飼ってるというわけだ。


 ゼンの問いからまた一拍おいて、老人の頭部が、ゆっくり、上下に動いた。そうだ、と言っているのだ。


 ゼンが、黙った。見ると、老人の映る画面ではなく、隣に座る俺に目を向けている。その目には、老人への敵意でも怪物に対する高揚でもなく、俺を気遣うような色だけが浮かんでいた。


 嫌な予感がした。ついさっきゼンの横顔を見て抱いた不安が急速に膨らむ。同時に、その不安の膨張を、必死で抑え込もうとする自分がいることに気づいた。


 深く、長いため息が聞こえた。ゼンだった。視線は俺ではなく、ふたたび正面の画面へ向けられていた。俺を気の毒がるような表情は消え、恐ろしく無機質な顔で、老人の背を見据えている。なぜか俺にはゼンが、努めて無表情を装っているように思えた。


 言えよ。


 ゼンは、たったひと言、老人に向かい呟いた。そして一度だけ俺を見て、続けた。


 言え、子飼いの連中にさらわせた彼の友達に、あんたが何をしたか、

 この、ボクのパートナーに、言ってみろよ。


 老人を問いつめるゼンの声は、痛々しかった。奇妙な言い方だが、俺には、もうわかっている気がした。心の奥底では、理解していた。していたが、認めたくなかった。

 その、逃げようのない残酷な事実を、俺に代わって、老人が、口にした。


 同じだ。


 かなり間をおいてから、老人は、念を押すように、もう一度言った。


 先ほどの彼と同じだ、日本からやってきた二人の若者は、マナウスの彼と同じ苦痛を、ここで経験した、

 そして、若く勇敢な青年のサヴァイバーは、私の期待をはるかに超える完璧な存在となった。


 そこまでひと息に話して、苦しそうに息を吸い込んでから、老人は最後に、彼は、とつけ加えた。


「彼は、人間を、超越した、

 あの若者は、ディアーボそのものに、なったのだ」

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