第30話「フィンランド・ユヴァスキュラ(1)」

 ユヴァスキュラに到着したのはその日の午後だった。


 ロヴァニエミのそれに比べて立派な空港の車寄せから、俺たちは一台の自動車に乗り込んだ。タクシーではなかった。


 空港の到着ゲートに、迎えの人間が来ていたからだ。くすんだクリーム色の自動車と同じく、平凡で目立たない格好の、中年男性だった。何かの作業員を思わせるゆったりしたツナギのような服を着ている。だがその下には鋼のように鍛えられた体が隠されているのだろう。男は俺たちを車に迎え、行き先を告げることなく、車を発進させた。


「映画なんかの影響でみんな勘違いしているが、本当の金持ちや権力者はわかりやすい黒光りの高級車を使ったりしないし、その周囲の人間も平凡な格好を好むものだよ、彼らは、目立つことを極端に嫌うからね」


 ロヴァニエミよりも建物の多い洗練された街並みを窓の外に見ながら、ゼンはそういうことを言った。


 河や湖が点在する街だった。大小いくつかの橋を越え、下を幅の広い河がゆったりと流れるひときわ長い橋を渡ると、その先はどこまでも、まっすぐに伸びる針葉樹の森が広がっていた。


 その、遥か向こうに見える、小高い丘に俺たちは向かっているようだった。


 運転席の男は空港からひと言も口にしていない。空港のゲートでは、敵意を露わに睨むのではなく、そっと射抜くような瞳で俺たちを見据えて立っていた。運転手は家族や知人の到着を待ちわびる周囲の人びとの風景にうまく溶け込んでいたが、その視線だけでゼンと俺を呼びとめ、誘導した。ただの善良なドライバーであるわけがない。必要に迫られれば、表情をみじんも変えずに誰かの命を奪える人間なのだろう。そういう人間を、数えきれないほど近くに抱えている存在に、俺たちは会いにいくのだ。


 迎えをやるようにと、あの老人が連絡を入れたのだろうか。あるいは、フィンランドに降り立ったときから、いや、もっと前から、絶対的な権力をもつという老人の兄によって、俺たちの行動は監視されていたのだろうか。車に揺られながらそんなことを考えていると、まったく唐突に、ある疑念が頭をかすめた。


 もしかするとナガミネは、彼と以前から裏でつながっていたのかもしれない。


 だが、そんなことはどうでもいいような気がした。考えても、抗っても、どうしようもない大きな流れに見舞われることもある。俺はそのことを、母親の死で学んだ。そんなときは、ただ黙って流れに身をまかせるしかない。 


 小高い丘は目的地ではなかった。車は丘を越え、道をくだって、ふもとの森へと引き込まれる未舗装の細い道へ入った。侵入する者の意思をくじくように、何度も蛇行する道。


 どれほど走っただろう、やがて、樹木ばかりの景色が突然ひらけた。すぐ先に、1軒の屋敷が建っていた。


 屋敷の前には、周りの風景にはまったく不釣り合いな、背の高いゲートがそびえている。その向こうに、二階建てと思われる屋敷が見える。それほど大きくはない。だが屋敷のさらに奥には、何かの工場だろうか、巨大な建造物の一端が確認できる。


 車が近づき、停まると、ゲートが音もなく開いた。


 敷地内に入る。派手さはないが品よく植え込みが並ぶ園庭、その中央で、何の装飾もないシンプルな造りの噴水が控えめに水を噴いている。正面の車寄せに車がつけられ、運転手がエンジンを切って降り、俺のすぐ脇のドアを開け、目で降りるよう示す。先に石段を上がる男のあとについて、俺たちは屋敷内に入った。


 建物一階の中央部はロビーで、天井は吹き抜けになっていて、正面に階段があった。ロビー両側にはドアのない戸口が通じていて、ゼンと俺は右手の応接間らしい部屋に案内された。執事のような人間は誰も見当たらず、俺たちを案内したドライバーがそのまま奥へ引っ込み、しばらくして陶製のポットを手に戻ってきた。


 無愛想な大男が淹れる熱い紅茶を、ゼンは警戒することなく口に含んだ。俺はそれを見て、おそるおそるカップに口をつける。状況を忘れるほどうまかった。


 俺が期待どおりの反応をしたことに満足したのか、男は、初めて薄く微笑みを見せた。奇妙な笑顔で、笑うという行為を自分が忘れていないか確かめながら少しずつ頬を緩ませる、そんな感じがした。俺の怪訝そうな視線に、男はすぐにその奇怪な笑みを収めた。


 俺たちが紅茶を飲み終わるのを見計らったように、男がズボンのポケットからスマートフォンを取りだした。誰かからの合図だろうか。無表情で画面を眺め、もう一度ポケットにしまいこみ、ソファに座るゼンと俺に一歩近づいて、交互に顔を見据える。移動するぞ、という意味だ。


 ついさっき男が紅茶をとりにいった奥の通路をすぎ、突き当たりの部屋に通された。ダイニングルームらしい。中央に、かなり大きな一枚板のテーブルが据えられている。だが置かれた椅子は数脚のみで、広さのわりに、会食などに使われる場所ではないように見える。


 俺たちは、その縦長のテーブル中央の二席に案内された。向かいには椅子もなく、男はゼンと俺が座るのを確認すると、何も言わず退室した。テーブルには先ほどとは別のティーポットとカップ、茶菓子が添えてあり、それを見るなりゼンはポットの紅茶を二つのカップに注ぎ始めた。


 うん、これもうまい、こっちのクッキーもすばらしい味だね、君もどうだい、と彼が俺に茶菓子を勧めたのとほぼ同時に、正面の白壁が淡く光った。俺たちの背後の壁から光が照射されている。小型で高性能のプロジェクターだろうと思った。


 画面に、映像が流れ始めた。


 殺風景だが広々とした部屋、中央に置かれた分厚いマットレスの乗ったベッドの上で、半身を起こした男性が映っている。モノクロフィルムで、古いドキュメンタリー映画か何かのように見えた。


 だが、得体の知れない違和感があった。


 カメラが、少しずつクローズアップされる。ベッドの男の顔がはっきりと映し出されたとき、俺は、違和感の正体に気づいた。


 6月のマナウスでの事件、あの、ディアーボが公式には世界で初めて確認された日に、CNNのインタビューを受けていた男性。目をそむけたくなる重症を頭部に負わされた、あの男性が映し出されていた。


 肌ざわりのよさそうなガウンを着けた男性が、脇にある円形のデスクスタンドに置かれたカップにゆっくりと手を伸べ、口もとに運ぶ。非常に落ちついた動作で、リラックスして見える。


 やがて、画面には映らないドアの開く音がして、男性の視線がそちらに移った。何も言葉を発しはしなかったが、彼の目がわずかに見開かれたような気がした。怯えているようだった。


 体格のいい二人組がカメラに映り込んだかと思うと、さっとベッドに歩み寄り、両側から、特殊な形の拘束具のようなものをあっという間に男性に着けてしまった。


 男性の、上半身と首が固定される。習慣になっているのか、わずかに怯えた表情を浮かべながら、男性は身じろぎひとつしない。


 二人組がベッドから離れ、その姿が画面から消える。直後に、白衣を着た、痩せ型で背の極端に低い男が現れた。医者だろうと思った。白衣の男は、何かを手にベッドの男性にそっと近づいた。そしてカメラに向かって示すように、右手を肩のうえまで上げた。一枚の写真のようだった。


 その写真を、ベッドの上の男性の顔へと近づける。見たくないのだろう、頭部を動かせない男性は目を閉じる。白衣の男は男性の左耳に口を寄せ、何か囁いた。男性はさらにきつく目をつぶる。耳を塞ぎたいのだろうが、体を固定されてそれができない。白衣の男は囁くのをやめない。


 やがて、男性がぶるぶると震え始めた。はじめは小刻みに、そしてすぐに、目に見えて激しく、固定された頭部をめいっぱい揺さぶろうとするように、ガクガクと顔の皮膚を震わせ、固く食いしばった歯のあいだから泡がこぼれ出した。白衣の男に動揺はまったく見られない。男はまだ囁き続けている。


 男性の震えが、ぴたりと止まった。


 彼の顔の前から写真が取りのぞかれ、白衣の男が耳もとから口を離す。そのまま一歩ずつゆっくりと後退し、画面から外れ、ドアが開き、そして閉められる音が聞こえる。


 広い部屋のベッドに一人取り残された男性に動きはない。脱力しているのか、固定された頭部がわずかに沈み込んで見える。目は閉じられ、食いしばっていた歯も力が抜けて、放心したようにぽっかり口を開けている。


 その口の端から、泡まじりのよだれがベッドに垂れ落ちた直後だった。ううううう、と男性が小さく唸り始めた。


 それは徐々に不穏さを増し、やがて、画面越しに見ている俺も思わず耳を塞ぎたくなるほどの大きさと不快さに達した。


 その、錆びた鉄柱にノコギリを当て一斉に引くような耐えがたい唸りを発する男性の顔は、人間のそれではなかった。


 バケモノだ、と俺は思った。だが隣に座る戦闘狂は、まったく異なる感想を口にした。


 ビューティフル。


 人外の砂漠で異形の怪物を前に見せたあの表情を浮かべながら、ゼンは、俺にもわずかに聞こえるほどの小さな声でそう呟き、それからゆっくりと、喉を鳴らし生つばを飲み込んだ。

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