詩を翻訳するということについて

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 詩を翻訳するということについて――これは無意味である。なにゆえか。詩ほど韻律を重要視する表現は他になく、ある言語で書かれた詩を他の言語に変換しようとする際には、必ず元の韻律が崩され、失われてしまうからである。美しい詩であればあるほどその傾向は強まるのではないかと思われる。私が蛇蠍の如く忌み嫌っている表現の一に「(作品を)味わう」というものがあるが、敢えてこの表現を用いると、つまり本来の言語であれば十全に味わえたはずの詩が翻訳によって味わえなくなってしまうということである。

 右の理由より、およそ詩と呼ばれるもののうち翻訳可能な詩は存在しないということができるだろう。翻訳された時、元の詩が持っていた韻律は瞬く間に縊り殺され、無惨にも解体され、地べたに捨て置かれる。虐殺である。万葉・中古和歌の七五調を見よ、漢詩の体系付けられた秩序を見よ、欧羅巴詩の数多の頭韻・脚韻・強弱弱強の制度を見よ。あれらオリジナル固有の性質を保ちながら他の言語にそれぞれの言葉を置き換えていくことなど一体どうやってできようか? 仮に詩を言葉そのものの美しさの文芸分野と定義するとして……異論を唱えるものの数はそう多くあるまい……その言葉の美しさとは、どうだろう、全く異なる言語に置き換えられても完全に保たれうるような大雑把なものだろうか? そんなものは最早詩とは呼べまい……少なくとも私はそう思っている……一般的に詩と呼ばれるところのものどもは、各々の詩人たちが河原の石を高く積み上げていくような慎重さを要する方法でもって言葉を集積させて形作ったものであり、別の形と論理でもって組み直されようとした時、最後には元あった美しい形を失って別のものになってしまうのである。変形した結果のところのものが美しかったとしても、それはもはやオリジナルの美しかったものと同じものとは呼べない。断言するが、詩というのはそういうものである。


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