詩を書くということについて 他

金村亜久里/Charles Auson

詩を書くということについて


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 ――詩人たちは自らの体験に対して無恥である。彼らはそれを搾取し尽くす。


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 詩を書くということについて――詩を書くとは何だろう? 問いの範囲が大きすぎて答えらえない、というのは模範的な回答の一である。

 私が明確な把握に苦しむ、「明確に把握すること」に苦しむ事柄とは、詩というものがいかなるようにできあがるものであるのか、ということでもある。

 小説であれば、その文章の集合には一文一文の中にはっきりとした命題があり、また全体として大まかな筋書きがある。多くの小説において起承転結なり序破急なり何かしらの展開のリズムのようなものが存在し、読者は多くの場合容易にそれを認識し理解することが出来る。

 対して詩はどうだろう。明確な筋書きや展開の流れ、まして文ごとのはっきりとした命題が――詩の一行一行、あれらは「文」と判断できるだろうか――があるだろうか。少なくとも小説に比して明らかに弱いということは確かだろう。

 そもそも詩は小説に比して情報量が極めて少ない文芸分野であるように思われる。「雨ニモマケズ」、「風ニモマケズ」、「心象のはひいろはがねから」云々、一行一行の情報量がまず小さい上に、全体で見ても、多くの場合詩というものの情報量は小説に比して少ないことが多い。如何なる場合にも例外は存在しうる。たとえばガズナ朝期のイランの抒情詩人フィルドゥーシーは約60,000の対句からなる詩『シャー・ナーメ』を著している。また古代ギリシア詩も長いものは長い。ただし特に後者の場合そもそも現代のわれわれがイメージルス「小説」の概念が登場するより前のものであり、むしろ韻文と散文の対比で理解すべきものである側面が強いことはことわっておかねばならないだろう。

 詩というものを眺める時思うことは、詩人というのは如何に詩を作っているのかということである。事実として美しい詩があり、詩は私にとってかなり異様な文芸分野である。あれはいわば極めて短い……私の基準によれば命題の形をぎりぎり為さない程度に短い言葉の配列であって、いかにかくも短くかつ美しい配列を生み出すのか、また(私を含む)読者はどうしてあの極めて短い配列を美しいと認識し、読者は詩を読み、詩は読まれるのか。これを理論的に解明することは極めて難しいことであるように思われる。ありていに言えば、事実として美しい詩を前にした時、私は「私は何故この詩を美しいと感じるのだろう、そして同時に詩というのはありとあらゆる文芸いや文章全般と比較してさえも極めて異様といえるものであって、果たしていかにこのようなものが大勢の人間によって生産されまた消費されているのか、それがまるでわからない。なぜ詩というものが存在するのだろう」などと考える。なぜこの宇宙には重さが存在するのかとか、人間がすべていなくなっても夕焼けは赤いのかとか、そういった疑問の一つとして、詩が存在するという事実それ自体への、言語として表現することが極めて難しい疑問が存在する。

「だって、皆、不思議だとは思わないのかい? あんな……言ってしまえば文章でもなんでもないことさえある言葉の並びが、全体として眺められた時には(ぼんやりしたものであれ)意味が既に構築されていて、少なくともぼくらはそれを認識しているなんてさ」

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