第21話

 ――それから数日後、恵の容体が急変した。


 恵は、見た目も中身も、完全な植物と化した。


 それは、あっという間の出来事だった。


 私は、恵にお別れを言うことさえ出来なかった。




 繊維性細胞硬化症への抜本的な解決策を見出すこともなく、恵を失ってしまった。ただ1つ分かったことは、病状の進行を左右する遺伝子の音触媒反応として、歌声が最も強い影響力を持つということ。


 もちろん、末期の恵は歌を口ずさむことすら出来なかった。しかし、その娘の歌声を聴いた時の恵の細胞の変化は著しいものだった。


 その影響は植物化を促進する方向しか見付かっていなかったけれど、影響の強さと音階の傾向を調べていけば、いつかは抑制する方向も見付かる可能性がある。私はそう信じて歌声の音触媒反応を研究した。


 そうして見えてきたことは、歌声を用いた制御の「希望」と、「危険」だった。


 繊維性細胞硬化症は、本人や家族の肉体から発せられた音を触媒として、遺伝子の読み取り方法を変更し、細胞の植物化を生じさせるもの。しかし歌声による音触媒反応は、遺伝子の遠い動物にもごくわずかに影響を与えてしまうのであった。


 恵の娘の心音と歌声を集中的に浴びた動物は、細かい傷口に繊維性の膜が生じた。音触媒による、遺伝子の水平遷移が原因だった。歌声により遺伝子の読み取り方法が変わった結果、それに合わせて遺伝子そのものも一時的に変化してしまった。


 これは植物化の持つ可能性、例えば光合成やセルロース生成といった、本来動物が持っていない能力を獲得させる手段を与えるという「希望」を表す反面、歌声により繊維性細胞硬化症の無差別な感染を引き起こす「危険」も表していた――。




「あ、ごめんなさい。芽ぐちゃんには少し難しい言葉が多くなってきてしまったわね」


 お婆さんが話を中断して、軽く頭を下げた。黙って聞いていたお爺さんも苦笑いをしていた。


「ううん。遺伝子の水平遷移は、ラフレシアについて調べている時に勉強したことがあるの。他にも、セルロース生成能力が実際に水平遷移で動物に備わった例がある、って図鑑で見たよ」


 私は胸を張って言った。それを聞いて、お婆さんもお爺さんも目を丸くして感嘆の声を上げていた。私の夢は、植物園を作ること。その夢のために、ずっとずっと植物のことを勉強してきた。


「それに、傷が治っちゃうのも、知ってるんだ」


 それは、空いちゃんのおじさん達が検査していたから。何度も、何度も、傷付いたネズミさん達を治させられた。それに内緒だけど、たぬ吉を治したこともある。


「そう……」


 お婆さんが呟くと、お爺さんが口を開いた。


「もし良かったら、お婆さんの話の後に、僕達がいなくなったホームで何が行われていたか、そして何が起きたのか、教えてくれるかい?」


 それを聞き、私は少し胸がズキリと痛んだ。あの日のことを、思い出さなくちゃいけない。忘れてはいなかったけれど、ずっと目を逸らしてきた現実を。それは、辛いことだけど、向き合わなくちゃいけないと思った。お婆さんも、こんなに辛い話を私にしてくれているのだから。


「……うん」


 私がそう言うと、お爺さんは「ありがとう」と返した。お爺さんの目はとても優しくて、私のお祖父ちゃんになる筈だった大輝さんっていう人もこんな感じだったのかな、と思った。




 ――更に数年が過ぎた。恵の娘も、表面上は変化がなかったけれど、食欲の低下が始まった。細胞内の構造も初期と比べて大きく植物化が進んでいた。これから新しく採取する細胞からは、もう人工授精が不可能だと思った。そして、冷凍保存してあった細胞の数も余裕がなかった。早く成功させなければ、恵の遺伝子は、ここで途絶えてしまう。


 そんな矢先、娘の開発していた育成プログラム、WX0003QY型の事前学習が完了した。数年掛けた人工知能の事前学習により、これからいつでも稼働開始が可能であった。もちろん、夫の提案通り、大輝の脳核が組み込まれていた。


「ママ、後のことは心配いらないから。どんな子でも、このプログラムが真っ直ぐ育ててみせるよ」


 娘にとって、恵の娘は家族同然に育った親友だった。そんな親友が抱えた、繊維性細胞硬化症という病気。それを知った時の娘の衝撃は、計り知れないものだった。こんなに明るい娘が何日も塞ぎ込み、誰とも会おうとしなかった。


 その娘が、掛け替えのない親友のために、自分のプログラムを活かしたがっている。そんな想いがひしひしと感じられた。私はこれまで、娘のおかげで何度も救われた。しかし、その娘に対し、何かしてあげられただろうか? そう自分に問い掛けて、私は何としてでも人工授精を成功させなければならないと思った。


 恵のために、恵の娘のために、娘のために、大輝のために、自分のために、夫のために。私が背負っているものは、これまでで一番重い十字架だった。恵も大輝も救えなかった私の、罪の重さだと思った。


 そして追い込みの日々が続いた。恵の娘の細胞をなるべく安定化させ、人工授精時の拒絶因子を徹底的に解明し、人工揺藍器の性能を更に上昇させた。そして、いよいよ凍結された細胞は、最後の1つとなった。


 これで失敗したら、皆の苦労が泡になる。そう思うと、震えるほど怖かった。人は壁に当たると、過去の成功を心の糧にして乗り越えるという。だけど、私には成功と呼べる体験がなかった。何しろ、この数十年の研究の中で、たった1つも繊維性細胞硬化症の治療法が見付けられなかったのだから。


 失敗の連続。何のために医者を目指したのか。私が支えようとした恵と大輝は、もういない。娘を愛する時間を削ってまで身を捧げた研究は、一向に目が出ない。




 私は、自然と恵の墓へと足を運んでいた。

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