第18話

 お婆さんのお話しを聞いていて、私はふと自分の体が軽いことに気付いた。最後に意識があった時は、お腹が空いて、気持ち悪くて、咳が止まらなくて、辛くて、頭も痛くて、何も考えたくないと思っていた。だけど、今は頭もすっきりしていて、気持ち悪さも感じなかった。相変わらずお腹は空いているけど。そして、私は何日かぶりに、体を起こすこともできた。


「もう、絶対安静って言ってるでしょう。恵に似たのかしら、大した生命力ね」


 そう言うと、お婆さんは私の口元から半透明なマスクを外してくれた。


「もう呼吸も心拍数も安定しているわね。腕は動かさないでね」


 私が腕を見ると、肌色のテープで細い管が止められていた。その細い管は、さっき見た液体の入った透明な袋から伸びているものだった。これが点滴というものなんだろうな、と思った。私はお婆さんの話を聞いていて、気になっていたことを問い掛けた。


「ねえ、おばあさんのお友達の恵さんって……私のおばあちゃん?」


 すると、お婆さんは「そうよ」と言った。お婆さんはずっと無表情のままだけど、どこか笑顔のようにも見えた。そして、再びお婆さんの昔話に戻った。




 ――あれから何年か過ぎた。


 私達3人は、同じ小学校、中学校、高校と、ホームからさほど遠くないところへ通わせてもらい、何不自由なく過ごした。恵はかわいらしく活発な女の子に育ち、大輝は逆に大人しい男の子に育った。昔とは見た目も性格も変わってしまったけど、私達3人の絆は変わることがなかった。ただ少し違ったのは、恵が、より、女の子になった、ということ。


「何? 相談って?」


 私は普段から無表情であることが多いせいか、周りから避けられるという程ではなかったけど、友達から相談を受ける機会はまるでなかった。そんな私に相談を持ち掛けたのは、恵だった。慣れない状況に、私は内心ちょっとドキドキしていた。


「い、や~、ちょっとね、聞きたいことがね~……」


 普段のさばさばした物言いとは違う、明らかに言い淀んだその口調に、私はピンと来てしまった。これが、噂に聞く、恋愛相談だ、と。私は詳しい内容を聞くまでもなく、恵の後押しをした。


「大丈夫だよ。大輝は恵が好き。それは私がよく分かってる。本人よりも分かってる」


 すると、恵は真っ赤になって目を丸くして、そして少し遅れてビックリしながら「えっ? 何で分かったの?」と聞いてきた。ずっと2人を眺めてきた私は、2人が最近何を想い、何に悩むか、手に取るように分かっていた。


「で、でもさ、こう言っちゃなんだけど、愛だって、その……」


 そこまで言って口をつぐむ恵を、私はじっと見据え、そして頭を撫でた。ビーズで束ねたさくらんぼの髪型がピョンピョンと揺れた。恵は困ったような表情を浮かべていた。


「ええ、私は好きよ。恵も、大輝も。3人で結婚したいって思ってた。だけどね、この『好き』は恵と大輝の間にある『好き』とは違うんだな、って気付いたんだ。どちらかって言うと、『尊敬』とか『羨望』とか。私にとって、2人はヒーローだったり、天使だったり。ずっと横にいて、応援したいものだから」




 あれからしばらくして、恵は大輝に告白した。「女の子に告白させるなんて~」と私と恵は長いこと大輝をからかってやった。大輝と恵は同じ大学に進み、科学者を目指した。私は医者を目指し、別の大学へと進んだ。なかなか会う機会が少なくなったけど、2人は定期的に会おうとして予定を聞いてくれた。それが、堪らなく嬉しかった。


 そして、2人は結婚した。私は、その報告を聞いた時、世界が一面の桜吹雪に変わったように、嬉しくて、涙を流して、2人の祝福をした。ホームで育ち身寄りのない2人は、結婚式を行わなかった。代わりに私達3人だけで、結婚祝いの豪華な会食をした。


「大輝と恵はもういっぱしの科学者、っていうのかな? 最近はどんな研究してるの?」


「ま、そうとも言うかな? じゃあまず私はね~、遺伝子と触媒反応について、かな? 内容自体は簡単だから、お医者さんの愛なら分かると思うよ」


「お医者さんって言っても、まだまだ専修医だけどね。良かったら話してよ」


 私がそういうと、恵はつらつらと、楽しそうに、自分の研究を語り始めた。真っ直ぐ前を見る恵の姿には、昔から変わらない輝きがあった。私と大輝は、じっと恵の話に聞き入った。


「うん、遺伝子ってあるでしょ? あれって、実はサルと人間では99%同じだって聞いたことあるかな?」


 ちなみに99%というのは素人にも想像しやすいように恣意的に数値化したものであり、本当は語弊がある。それでも、サルと人間の遺伝子はかなり近いと言われている。


「じゃあ、どうしてあれだけ違う生き物になるのか? ってなるよね。そこで最近の研究者達は、遺伝子の外にも、何か要因があるんじゃないかって考えるようになったわけ。そして私が研究しているのは、その要因の一つとされる、音触媒」


 触媒とは、化学反応を補助するもののこと。ただし、それ自身は化学反応によって減ったりしないもののみを触媒と呼ぶ。


 例えば二酸化マンガンを過酸化水素水に加えると、過酸化水素が酸素と水に分解される。しかし、二酸化マンガン自体は減ったりしないので、これは触媒である。


 触媒は物質とは限らず、光触媒というものもある。例えば、酸化チタンと水に触媒として紫外線を照射することで、酸化チタンが還元され、代わりに水が水素と酸素に分解される。


「遺伝子は、生物の設計図みたいなもの。もし設計図がそっくりでも、その読み方が違えば完成品も全く別物になってしまう。では設計図の読み方を決めるのは何か、という部分に、私は音触媒という可能性を見出したわけ。


 胎児がお母さんのお腹の中に発生した時、その子にまだ聴覚が備わっていなくても、細胞が、遺伝子が、周囲の音波の影響を物理的に受ける。そして特に、お母さんの心臓の音。これが、遺伝子という設計図を読む時のチャンネル、まあ要するに翻訳機の補助をするって考え。


 例えば一卵性双生児のマウスの胎児を摘出して別の母親の胎内で育てた時に、一方にだけ先天的な斑紋が生じたっていう実験結果が出ているの。それが、私の考えを裏付ける根拠。ま、それは実験によって生じた細かい刺激の影響だ、とか色々反論が出てるから、それらの影響が関係ないことをこれから立証する作業なんだけどね。


 他にも、母親の心音だけでなく、声も影響しているんだって説も考えててね、そっちも検証中。


 胎児にきれいな歌声を聞かせてあげた方が、きれいな心に育つんだ、なんてね」

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