第15話

「芽ぐちゃん! 捕まえた! 捕まえたよ!」


 あの日、私は空いちゃんとホームの近くの草むらで遊んでいた。草むらといっても少し雑草が茂っているくらいで今のホームとは比べ物にならないけど、この辺りでは貴重な遊び場だった。そこでは、花や、虫や、鳥。そして、たまに珍しい動物に出くわすこともあった。


「渡して!」


 私は空いちゃんからその子を受け取り、血が服に付かないように両手で抱っこした。その子は私の腕の中でジタバタともがいたけど、あまり体力も残っていなかったみたいで、そのまましゃがみこんだ私の膝の上にうつ伏せにして少し押さえ付けるだけで、その子は身動き一つ取れなかった。


「待っててね。今、手当するから」


 草むらで最初に見付けた時、この子はうずくまって動いていなかった。私達が近付くと、身をビクンと震わせ、ふらつきながら逃げようとした。その時、私達はこの子の背中に、黒々とした傷跡を見た。この子が動くたびに、傷口からは赤い輝きが漏れ出ていた。気持ち悪いと思った。怖いと思った。だけど、この子は今にも倒れそうで、必死だった。想像もできないほど痛かったんだと思う。そしてその痛みよりも、私達のことが怖かったんだと思う。私達に気付いた時の絶望的な表情。あれは、この傷が人間によって付けられたということを意味していると思った。


「ねえ、ホームの人に診てもらわないの……?」


 不安そうに見つめる空いちゃんに、私はブンブンと首を振った。この間、ホームの人達が話しているのを聞いたから。近頃キツネがこの辺りに出ること。昔はキツネに寄生虫がいたこと。最近はいないけど、気にして怖がる人が多いから、見付けたら殺処分にするということ。ホームに連れて帰っても、この子に未来はなかった。だから、私が、助けなくちゃいけなかった。


「エスメイ――、リーエン――、レレリエン――、ア、オーエン――」


 私はこの子をそっと撫でながら、「あの歌」を聞かせた。次第にこの子は静かになり、安心した顔で眠りについた。痛々しかった傷口は見る見るうちに色を変えていき、そこには、デコボコとしかかさぶたではなく、滑らかな繊維質が浮かび上がってきた。心配そうな顔をしていた空いちゃんは、目を丸くしながらその光景を黙って眺めていた。


「……決めた。君の名前は、たぬ吉ね!」





 ふと、私は目を覚ました。辺りは完全に真っ暗闇で、ボーっとしながらも普段の自分の部屋とどこか違う気がしていた。私は不思議に思いながらも、よいしょっと体を起こした。


 ――ゴンッ!


 すると、私の頭が何かにぶつかって、大きな音を立てた。私は何が起きたのか分からなくって、ただ涙を浮かべて頭を抱えながら、真っ暗闇の中でうずくまっていた。


「んーーー!!!!」


 そうだった、私は「秘密基地」に来ていたんだった。桃を食べていたら、知らない人達がホームにぞろぞろと入ってきて、その人達から隠れるために。でも真っ暗だから、いつの間にか寝ちゃってたんだ。喉が無性にイガイガした。このほこりっぽい「秘密基地」で寝ていたんだから当たり前だと思う。私は手探りで入り口の溝を見付け、少し力を入れた。


 ――ガコッ。


 私が恐る恐る図書室に降りると、辺りはすっかり静まり返っていた。私は安心して、でも音を立てないように慎重に、空いちゃんの部屋に来た。さっきは急いでいてノックをしなかったけど、今度は軽く、コン、コン。


「入るね……」


 息を潜めながらそう言って、私は空いちゃんの部屋に入った。多少暗闇に目が慣れたけど、全然見えない。机の上に手を泳がせると、そこにはちゃんと果物の感触があった。そして机の下に手を伸ばすと、しっとりとした感触。洗濯物も無事みたいだ。


「よい、しょ」


 重たい洗濯物を抱えて、私は階段を登った。注意深く1階の広間を眺めてみたけど、もう懐中電灯の光も見えなかった。1階は地下と違って夜でもそこそこの明るさがあったので、私は安心して洗濯物を元の場所に干し直した。改めて自分の格好を見ると、タオルが土埃で真っ茶色になっていた。タオルも洗わなくちゃいけない、と思いつつ、さっきのお客さんが泥棒でも何でもなかったみたいなので、すっかり気が抜けていた。


 そして、部屋のドアに手を掛けて、中に入り、私は、力なく、地面に膝を突いた。


 顔は前を見据え、両手も地面に突いた。タオルが安定を失い、スルリと地面にずり落ちた。


 だけど、私は、そのまま、動くことが出来なかった。何よりも、目の前の現実が、信じられなかった。



「嘘……でしょ……?」



 私の、たった一人の、大好きなお父さん。


 いつだって私の話を聞いてくれたお父さん。


 分からないことは、何だって教えてくれたお父さん。


 悪いことをした時は、本気で怒ってくれたお父さん。


 お母さんに叱られた時は、優しく慰めてくれたお父さん。


 何があっても、いつも私の支えになってくれたお父さん。


 嬉しい時も、悲しい時も、楽しい時も、辛い時も、ずっと、ずっと、一緒にいてくれたお父さん。



 その、お父さんが、私達の部屋から、いなくなっていた。



「イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

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