第13話

「これで、良し、と!」


 私はホームの皆にお水をあげて、溜まっていた洗濯物を一気に片付けた。汗の黄ばみが付いた服を必死にゴシゴシ、ゴシゴシ、とこすったから、手がすごくだるくなった。一息ついて体に巻きつけているタオルをパタパタ仰いで中に風を送ると、とても涼しく感じられて気持ちが良かった。歩く時に手で押さえてないといけないことや、ゴワゴワしてて着心地が良くないことを除けば、タオルでもそれなりに何とかなるんだな、って思った。


 地下へ降り、空いちゃんの部屋にノックをして入った。机の上の果物達をじっと眺めて、1つしかない桃に手を伸ばして、引っ込めて、やっぱりリンゴに手を伸ばして、やめて、結局桃を手に取った。


「もーも、もーも、もーも、ふふふ」


 私は桃を軽く洗うと、ご機嫌に鼻歌を歌いながら部屋に戻った。少し空気がムワッとしたから窓を開けて換気をして、インカムをつけて、お父さんを床に置いたまま話し掛けた。


「お洗濯まで全部終わったよ。んふふ、今日はね、桃!」


 お父さんは相変わらず無言だけど、きっと心の中ではすっごい羨ましがっていると思う。だって桃だもの。桃はとっても甘くておいしい。表面は毛みたいな感触なのに、中はツルリとした食感。みずみずしくてとってもジューシーで、ぶどうみたいに柔らか。リンゴやナシのシャキシャキ感ももちろん好きだけど、桃のぷりっとした柔らかい舌触りは思い出すだけでよだれをゴクンってなる。


『芽ぐちゃん、しっかり手を洗うんだよ』

『はーい。空いちゃんもね!』


 お皿の上で、包丁を使って桃の皮をくるくると剥いていった。リンゴと同じ要領だけど、リンゴより果肉がずっと柔らかいから、気を付けないと実がどんどん削れちゃう。


『桃はね、皮と実の間がとっても甘くておいしいの。だからできるだけ薄く、薄く皮を剥かなきゃいけないんだよ』

『うー、難しいね。空いちゃんすごく上手!』


 皮を剥き終わったら、今度は果肉のカット。手の上でスコッと中心付近まで刃を入れる。種にぶつかると硬い感触が刃越しに伝わってくるから、種の周りまでちゃんと刃が通るように少し刃を動かす。


『この時、種を傷付けないように、種の周りで包丁を動かす時は少しだけ刃を引き抜いておくことが大事なんだよ』

『分かった! 種をうっかり食べちゃったら危ないもんね!』

『そうなの?』

『うん。種や葉っぱとか青い果肉とかには、アミダグリンていう成分が入ってて、食べたらお腹の中で青い酸になるんだって。青い酸は毒だから危ないって書いてあったよ』

『へえ、そうなんだ……芽ぐちゃん物知りだね』

『私、将来植物園を作りたいから、植物のこといっぱい勉強してるの!』

『植物園?』


 種の周りにもある程度切れたら刃を完全に引き抜く。切り口から6分の1くらい回して、また同じようにスコッと刃を入れる。合計6回刃を入れたら、少し手に力を入れて桃を6切れに取り外す。


『果汁が飛んじゃうから、全部お皿の上でね』

『あっ』

『ごめんね、言うの遅かったよね……』


 そうすると、大きな種が残る。種の周りに少しだけ果肉が残るから、種ごと口に含んでしゃぶる。甘くて舌がしびれる。種の周りが綺麗になったら、種を出して分けておく。これをまた植えたら、きっと桃の樹が生えてくる……といいな。


『準備完了だよ、芽ぐちゃん』

『ね、ね、早く食べようよ、空いちゃん!』

『うん。いただきます!』

『いただきます!』


 桃を1切れ手掴み。カットの段階でもう手はベトベトだから、気にしないで大丈夫。そして1切れをまるまるペロリ。


『んー、おいしっ!』

『あはは、芽ぐちゃんの顔、桃みたいになってるよ』


 本当においしい。口の中いっぱいに甘い蜜が染み渡る。ほっぺたがツーンって痛いくらい。力を入れなくても噛める柔らかさ。ひょっとしたらベロでも切れるのかもね。いつの間にか、桃の果肉は溶けてなくなった。でもまだ5切れあるからね。


『んぐ、んぐ、おいしっ。んぐ』

『もう、ゆっくり味わって食べなよ……』

『えへへ。そういえばさ、空いちゃんも将来の夢とかある?』

『え? んー……』


 私は桃だったらいくらでも食べられると思う。もちろんミカンやリンゴやぶどうだっていくらでも食べられると思うけど。今は、とにかく目の前にある、いや、口の中にある桃が一番の幸せ果実。ベタベタになった指をなめてもおいしい。でもお父さんに「意地汚いぞ」って怒られそうだから、後ろを向いてこっそりね。


『そっかぁ、おじさんとおばさんみたいにホームで働くんじゃないんだね』

『うーん、お父さんたちの仕事、よく分からないし、芽ぐちゃんや芽ぐちゃんのお母さんの検査をしてるの見てると、何だか怖いから……私はおばあちゃんみたいなお医者さんになれたらなあって』

『空いちゃんならきっとなれるよ!』

『でも芽ぐちゃんもこの前のキツネさんの手当、すごかったよ。あっという間に傷が塞がって』

『んー、でもあれは、内緒なの。おじさんやおばさんに言ったら怒られちゃうからダメだよ』

『え? そうなんだ……』


 私は文字通り、幸せを噛み締めた。でも、本当は、他の皆にも食べさせてあげたかった。お父さんにも、お母さんにも、空いちゃんにも。


『あ、夢ってほどじゃないんだけどね』

『何?』

『大人になっても、芽ぐちゃんと一緒にいたいかな』

『うん! 絶対の絶対ね!』


 私は、桃の最後の1切れを食べた。とても甘くて、とてもおいしくて、ほっぺたが落ちちゃいそうで、涙が出てきて、懐かしくて、懐かしくて、桃を噛んでいる間も、桃を飲み込んだ後も、溢れる涙に嗚咽が止まらなかった。だって、空いちゃんがお医者さんになる夢は、多分、もう、叶わないから。私は無言のお父さんの前で、ゆっくり、涙混じりで懺悔をした。


「……ごめんね。ごめんね、空いちゃん。きっと、私のせい、なんだよね。でも、でもね。その夢の代わりに、私は、大人になっても、ずっと、ずっと、空いちゃんと、一緒にいるからね」

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