第9話

「ちょっとね、途中で転んじゃってね、顔が泥だらけだからお風呂入ってくるね」


 芽ぐはそういうと、顔をキツネで隠したまま部屋を後にした。芽ぐから開放されたのであろうキツネが部屋に入ってくると、2匹は仲睦まじくじゃれあい始めた。転んで顔が泥だらけ、と聞いて私は芽ぐを案じ、胸を刺すような不安が頭をよぎった。しかしすぐに、芽ぐの帰還に「心」を踊らせていた。


 2匹のキツネがぶらぶらと歩き回っている。以前も芽ぐがキツネを連れてきたことがあった。ホームの研究員に見付かったら追い出されることが分かっていたのだろう、服の中に隠したつもりでよたよたと歩いて部屋に入ってくる光景を思い出した。ディスプレイが生きていたら私は間違いなく思い出し笑いを浮かべていただろう。芽ぐの首元から鼻だけ出ていたキツネがもがくと、芽ぐはくすぐったさに耐え切れず笑い転げていた。あの時のキツネがこの2匹のどちらかだろうか?


 しばらくしないうちに、2匹のキツネは退屈したように床に伏せた。1匹が大きなあくびをすると、もう1匹もつられて軽くあくびをした。兄弟だろうか? そのうち1匹が伏せの状態からゴロンと横たわり、こちらに背中を見せた。怪我の跡で少し禿げたその背中を見て、私は彼があの時のキツネであることに気が付いた。たぬ吉くんと言ったかな。もう1匹にも名前があるのだろうか? うむ、たぬ吉ととても仲が良さそうだったし、ひとまず君は稲荷ずしくんと呼ぼうか。そんなことを考えていると、横たわっていた1匹、即ちたぬ吉くんが起き上がり部屋の散策を再開した。


 ――たすっ。


 ああ、たぬ吉くん、君が今踏んでいるのは私のディスプレイだ。どいてくれないかな。部屋の中は自由に物色して構わないから。とはいえ私と芽ぐの部屋は、よく言えば片付いている。悪く言えば殺風景。物があまりないのだ。たぬ吉くんはクンクンと芽ぐのインカムに鼻を当て、マイク部分の球体を甘噛した。味らしい味がしなかったのか、それとも嫌な味でもしたのだろうか、たぬ吉くんはすぐにインカムを離した。その様子を伏せながら首を立てて静かに眺めていたもう1匹、すなわち稲荷ずしくんが立ち上がり、そちらも散策を再開した。しかし、もうこの部屋にはめぼしい物がないのではないだろうか?


 ――かぷっ。


 ああ、稲荷ずしくん、君が今噛んでいるのは私のディスプレイだ。やめてくれないかな。もう映らないとはいえ、私の大事なハードなんだ。そんな想いが通じたのか、稲荷ずしくんは私のディスプレイを離し、たぬ吉くんと共にドアの方へと向かった。そこには、白いワンピースを着て髪飾りをした知らない女の子が――




『――大輝』




 時が止まったかのような、衝撃。私はこれまでにない感覚にハッとして、しばらく呆然と意識を漂わせていた。人で言うところのフラッシュバックだろうか。何だ今の声は。声の主は誰だ。大輝とは誰の名だ。今、そこに立っているのは――


「えへへ、お待たせ」


 水風呂上がりでまだ少し髪が濡れたままの、幼い少女。お気に入りの白いワンピースを着ているその子は紛れも無く、芽ぐだった。見覚えのないビーズの髪飾りでしっぽのようなさくらんぼのような、かわいらしい髪型だ。髪飾りのせいで芽ぐを誰かと見間違えたのだろうか? 先程垣間見たような女の子の顔付きは、芽ぐより幾分か大人びていたように感じた。それに幻聴? 先程の声は芽ぐと似ていたような気もするが、明らかに芽ぐのものではなかった。


「あー、せっかくきれいな服に着替えたのに足形つけないでよ……」


 たぬ吉くんが芽ぐの太ももの辺りに前足を掛けて犬のようにじゃれついていた。真っ白なワンピースに、擦れた砂の跡がついていた。稲荷ずしくんも芽ぐの足元に鼻をクンクンとつけていた。


「うう、ひどいよたぬ吉ぃ……」


 転んで泥だらけだったという芽ぐの顔に傷もないようで、その元気な姿にホッとした。泣き虫の芽ぐのことだ、大方家に帰れなくなって寂しさで泣いているところに泥のついた手で顔を擦って汚したのだろう。恥ずかしくてそんなことは言えないだろうから転んだとごまかしたに違いない。それに先程の錯覚や幻聴は入力信号のノイズのようなものだろう。もっとも、私に信号を受信するような電気は残っていないのだが。そんなことより、今は目の前にいる芽ぐの方が大事だった。


「よいしょっと」


 芽ぐは私の前にぺたんと座り、インカムを装着した。相変わらず、芽ぐの小さな頭には少し大きいようだ。ぶかぶかとしたインカムは安定性がなく、芽ぐが屈めば難なく落ちてしまいそうだ。しかし、そんな滑稽な格好とは裏腹に、芽ぐの表情は至って真剣そのものだった。


「お父さん、ごめんなさい」


 芽ぐの突然の謝罪に、私は咄嗟には何の話だか分からなかったが、なるほど無断で外泊したことを謝っているのだな、と理解した。


「私、おばあちゃ……一番樹にお水やっててね、疲れちゃってね、ちょっとだけ休もうと思ったら寝ちゃってね、気付いたら夕方でね、もう帰れないって思ったらクルミがいてね、クルミっていうのは前にどんぐり食べなかった子なんだけどね、嬉しくってクルミと話し込んでたらとっくに夜でね、しょうがないから一番樹で寝ることにしてね、あのね、えとね……」


 しどろもどろになりながらも本当に申し訳なさそうに言い訳をする芽ぐに、私は全く怒ってもいなければ、その愛らしい姿をいつまでも眺めていたかった。何より、芽ぐが無事で嬉しかった。「大丈夫だよ」、「そんな顔をしないでいいんだよ」、「これからは気を付けるんだよ」、といった言葉、芽ぐに掛けてあげたい言葉が次々と浮かぶ。私に「声」がないことが悔やまれる。


「それで日の出の時に起きれたからね、すぐに出発したんだよ。その途中でこの子たちにあったの」


 そう言うと、芽ぐは両脇に集まっていた2匹のキツネを抱きしめた。2匹とも大人しいもので、芽ぐに撫でられるとなされるがままにしていた。元来キツネというものは人懐っこいらしい。知能も高く、警戒さえされなければ餌付けも楽なんだそうだ。完全に野生のキツネだと警戒心が強いため近寄ろうものなら逃げ去るだろうが、たぬ吉くんは芽ぐに背中を手当してもらった経験がある。芽ぐには一切の警戒を抱いていないようだ。それにつられてだろう、稲荷ずしくんも完全に野生を失ったような顔つきでまどろんでいる。


「こっちがね、たぬ吉。前に連れてきた子だよ。それでね、こっちが油揚げ。たぬ吉の彼氏なんだ。前に言ったでしょ、たぬ吉が彼氏を連れてきたって」


 彼氏、と聞き、私は身構えてしまった。そしてすぐに、誤解に気付く。ああ、以前言っていた彼氏がどうとか、たぬ吉くんの話だったのだな。早とちりをしてしまった。そうならそうと言ってくれればいいものを。良かった。いや、良いとか悪いとかではないが。その、何だ、まあ、いいか。


「二人ともすごく仲良しなんだよ。いつもらぶらぶなの」


 というかよく考えたらたぬ吉……さんはメスだったのか。これは失礼した。稲荷ずしくん、もとい油揚げくんはオスなのだな。確かに仲が良さそうだ。うむうむ。良かった。


「うええ、何でマイク濡れてるの……お父さん?」


 それは私のせいではない。

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