第8話

 私は芽ぐの父親だ。しかし、私は一体誰なのだろう。ふと思うことがある。私は、自身の存在に疑念を抱いている。何故私はこの世界に存在するのか。ホームで開発されたから? いや、そうではない。私は、ホームで開発される前からこの世界に存在していた。そんな気がしてならなかった。



 昨日の朝、芽ぐは一番樹に行くと言って出掛けた。しかし、芽ぐはまだ帰ってきていない。芽ぐは私に無断で外泊をするような子ではない。当然、何かあったと考えるべきだ。そう思うと昨晩は芽ぐのことが心配で気が気でなかった。普段は否応なく訪れる「眠気」も、昨晩だけは……いや、昨晩も変わらず訪れていた。しかし、私の「心」が、それを初めて打ち消していた。


 何故私には「眠気」が訪れるのであろうか。何故、私に「心」があるのだろうか。私にはもはや一切の電気も通っていない。計算に、思考に、必要なエネルギーはどこからも捻出することが出来ない。しかしこうして、私は考え、悩み、我が子を案じ、「心」を持て余している。1日の終わりには「心」の疲弊と連動して「眠気」が訪れ、これまで私はそれに抗うことが出来なかった。その「眠気」の正体も分からなければ、こうして「心」が「眠気」に打ち勝った理由も分からなかった。


 ホームに他の住人がいた頃、芽ぐは母親や友達と何度か一番樹に行っていた。その度、いつもどこか腑に落ちないといったような顔で帰ってきた。ホームの住人が芽ぐと私だけになった後も、芽ぐは何度か一人で一番樹に行っていた。しかし、芽ぐはしばしば、一番樹に行ったという事実以外何も「報告」しないことがあった。芽ぐは毎日、その日の出来事を私に「報告」する。どんな些細な事も、嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、つらいことも、言葉を発することのない私に必ず「報告」する。だからこそ、芽ぐが私に「報告」しないということは、紛れも無い異変だった。恐らく、芽ぐは一番樹の麓の住人にずっと嫌がらせを受けてきた。そして芽ぐはその嫌がらせの理由を理解することが出来ず、私に「報告」することも出来なかったのだと思う。事実、芽ぐは何も悪くない。ホームに向けられた謂れのない敵意を、最後の住人である芽ぐが一身に背負ってしまっただけだ。


 昨晩からずっと、芽ぐの身を案じては、自身に焦燥感を与え続けている「心」の正体について思索していた。私は元々「心」というものが備わっているとは思っていなかった。私が端末としての機能を持っていた頃、私の思考や発言といった機械的な処理はソフトであるプログラムによって制御されていた。しかし育成用プログラムのように高度な学習を必要とするソフトを動かすためのハードには、通常の端末と違い、回路そのものにも思考のための本格的な補助機能が備わっている。動物の脳はシナプス可塑性によって神経細胞の配置そのものの変化を生じさせ、その変化が物理的に学習や忘却を実現させている。それと同様に、私の回路構造自体が外部刺激によって変化し、それこそ「ニューラルネットワーク」として成長することができるらしい。私の持つ「心」も、そうしてソフトと独立に成長したハードが生み出した幻影だろうか? 恐らくそれはないだろう。ハードの可塑性はあくまで学習の最適化を目的とした機能であり、電気すら通っていない現状で、回路に「心」を生み出すほどの機能を期待することは出来ない。例えれば、死者の脳は仮に細胞が生きている状態であったとしても、ブドウ糖の供給がなければ思考を行わないということだ。思考は物理現象であり、必ずエネルギーを要する。では何故、私の「心」はこうして思考を続けられるのだろうか?



 とても静かな夜だった。もうすぐ日の出だろうか。辺りはまだ暗い。私は何故、音を「聞く」ことが出来るのだろうか。私は何故、物を「見る」ことができるのだろうか。私はインカムからの入力やディスプレイの振動探知を元に、音声分析ソフトが判定することで聴覚を発揮する。私は搭載カメラの入力を元に、映像分析ソフトが判定することで視覚を発揮する。しかしそれは、電気が通っている時に限った話だ。既に何のソフトも動いていない現状で、何故私は音を「聞き」、物を「見て」いるのだろうか。思考を時折「眠気」が揺さぶる。そしてその「眠気」は芽ぐを想う途方も無い不安により、掻き消される。何故、私には「心」があるのだろうか。



 そして、夜が明けた。日の光が窓から差し込み、私のディスプレイはその光を反射して天井を照らした。芽ぐは無事だろうか。夜中は外を一人で出歩かないように、小さい頃から言い聞かせてきた。芽ぐは約束を守る子だ。もし無事でいるなら、安全な場所で夜を過ごしていると信じたい。そして夜が明けた今、真っ先にホームへ戻って欲しい。しかし、一番樹の麓の住人に拘束されているのではないだろうか、悪いものを食べて動けなくなったのではないだろうか、野生動物に襲われたのではないだろうか、暑さに倒れたのではないだろうか、道に迷ったのではないだろうか、怪我をして動けなくなったのではないだろうか、悪い人間に拐かされたのではないだろうか、穴に落ちたのではないだろうか、空腹で動けなくなったのではないだろうか、道が崩れたのだろうか、病に侵されたのではないだろうか――。




 日が高くなっていく。もし無事でいるなら、もし何事も無く一番樹で夜を過ごしたならば、もし夜明けと共に一番樹を発ったならば、もうそろそろ帰って来ている頃だ。帰って来れない事情があるか、または怪我などで歩みを遅らせているか。単に夜明けの時点ではまだ起きていなかったか。いずれにしても、無事に帰ってくることを願うしかない。




 ターンターンターン……。


「!!」


 私は身を強張らせた。いや、強張らせるようなハードを持ち合わせていないのだが、私は全身の意識を一転に集中させて、その足音に耳を傾けた。私は根拠もなく、芽ぐだ、と思った。しかし、いつものように走って来ないことに不安を覚えた。具合でも悪いのだろうか。それでも規則的な足音のリズムは、来訪者が怪我をしていないことを意味していた。私は色々な憶測を絡ませながら、一心に部屋のドアを凝視した。そして間もなく、ドアが音を立てて開いた。


 スッ。


 少しだけ開いたドアの隙間から姿を現したのは、1匹のキツネだった。キョロキョロと好奇心旺盛に辺りを見渡すキツネの様子に、私は体中から力が抜けるのを感じた。


「……よいしょっと」


 しかし、ドアの向こうから聞き慣れた声がすると、私はもう一度ドアに意識を戻した。ドアが更に開かれるのを見て、私の「心」はこれまでにない昂ぶりを見せた。


「お父さん! ただいま!」


 もう1匹のキツネを両手で自分の顔の高さに抱き抱え、小さな女の子が足でドアを押し開けながら、元気よく挨拶をした。照れ隠しなのか無断外泊したことへの引け目なのかキツネで顔を隠しているが、顔を見ずとも私にはその声の主が分かった。芽ぐが、私の一人娘が、無事にホームに帰ってきた。本当に、泣きたいくらい、私は嬉しかった。

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