第3話
「お父さん、行ってくるね」
私はお父さんに挨拶をして、部屋を出た。今日は本を読むのをお休みして、あるところへお出掛け。そこはちょっと遠いんだけど、ホームの外で私が好きな場所の1つ。私はお弁当用のリンゴを取りに、空いちゃんの部屋へと訪れる。ドアをコンコンとノックし、少し待ってから私は空いちゃんの部屋へ入った。
「空いちゃん、行ってくるね」
机の上に置いてあるリンゴを1つ、手提げ袋に入れた。私は空いちゃんの部屋を出てドアを閉めた後、少し立ち止まった。今度はドアをノックせずに静かに部屋に入ると、こっそりとリンゴをもう1つ手提げ袋に入れた。階段を上がると、ホーム地階の大きな広間に出た。私は広間中央に辿り着くと、優しい表情で一言告げた。
「お母さん、行ってくるね」
もちろん、どこからもお母さんの返事はなかった。でも、私はホームを離れる時は必ずお母さんにも挨拶をする。私が聞こえていないだけで、もしかしたらお母さんは「行ってらっしゃい、気を付けるのよ」と言ってくれているのかもしれない。だから私は必ずお母さんに挨拶をする。だって、もし本当に私が聞こえていないだけだったら、もし私が聞こえていないだけでお母さんが本当は私に話し掛けてくれているんだとしたら、私がそれに応えてあげていないのは悲しいことだから。話し掛けているのに返事がないことの悲しさを、私は知っているから。
ホーム入り口から少し強い風が入り込む。草木のざわめきが辺りに広がる。私はその涼しげな音に満足すると、外出用の麦わら帽子をかぶり直し、ホームを後にした。
私の目的地は、一番樹だった。ついこの間も一番樹の近くまで行ったけど、あの時は木の実取りが思いの外うまくいったから結局途中で引き返しちゃった。今日はちゃんと一番樹に水をあげなきゃいけない。
私は行き慣れた道をひたすら歩いた。ホームの外はあまり自然が豊かじゃない。それこそ、ホームほど草木が生い茂っている場所はこの近くにはないのかもしれない。青々とした草や、珍しい昆虫、かわいらしい動物。そういったものが好きな私にとって、ホームの外は少し退屈に感じることも多かった。
「エスメイ――、リーエン――、レレリエン――、ア、オーエン――」
私は退屈を紛らわすために、歌を口ずさんだ。昔、お母さんが教えてくれた歌。意味は知らないし、何語かも分からない。ただお母さんの歌声は、私にとってゆりかごのような気持ち良さだった。私もお母さんの真似をして歌詞をなぞっていたら、いつの間にか覚えていた。
再び強い風が吹き、地面の砂ぼこりがかすれるような音を立てながら土煙を立てた。枯れた低木が、カサカサと音を鳴らした。私は歌いながら、物思いにふけっていった。
「一番樹は芽ぐのおばあちゃんのお墓よ」
お母さんがそう教えてくれた。あの頃はまだ、一人で一番樹まで歩いて行くことすらできなかった。
「おばあちゃんって?」
私は間髪入れずに聞き返した。私はまだホームの中のこと以外に、あまり多くを知らなかった。おばあちゃんという言葉も、もしかしたら初めて聞いたのかもしれない。
「おばあちゃんは、お母さんのお母さんよ」
想定外の聞き返され方だったのかもしれない。お母さんはちょっと驚いたような笑いをこぼしながら、私に優しく答えてくれた。
「お母さんにもお母さんがいるの?」
私のお母さんにはお母さんがいる。お父さんにもお母さんがいる? じゃあお母さんにもお父さんがいる? 私の頭の中は何だかおもちゃ箱をひっくり返したように混乱して、思わず変な顔をしながら首を捻っていた。
「当たり前じゃないの」
そう返すお母さんも、きょとんとしている私の顔を見下ろしながら少し考え込んでいるようだった。そして静かに、囁くように訂正した。
「当たり前じゃないかもしれないね」
私にはその意味がよく分からなかった。ただ、お母さんの表情が少し悲しみを帯びていたことに気付いた。それでも私はもっとおばあちゃんのことが知りたくなっていた。
「ね、おばあちゃんってどんな人だったの?」
お母さんは「うーん」と考えるような素振りをした後、きっぱりと言い放った。
「優しかったね」
私は「ふーん」とそっけなく返しながらも、ずるいと思った。私のお母さんはよく怒る。歯を磨きなさい、とか勉強しなさい、とかもう寝なさい、とか。きっとお母さんはおばあちゃんに似なかったんだな、って思った。
「でも怒ると怖かったかな。歯を磨きなさい、とか勉強しなさい、とかもう寝なさい、とか口うるさかったし」
それを聞いて、私は思った。たぶんおばあちゃんもよく怒る人だ。だけど普段は優しくて、歌とか歌ってくれるんだ。えらいことをしたらちゃんと褒めてくれる人で、話し掛けたらちゃんと「なあに?」って聞いてくれる人で、いつもそばにいて――
「おばあちゃん、死んじゃったの?」
私は考えなしに当然のことを聞いてしまった。私にはお母さんがいて、お母さんはいつも私のそばにいてくれて。でも、お母さんのお母さんは、今、ここにいない。お墓があるということは、もう死んじゃっているんだ。
「うん、そうだね」
そう答えるお母さんの表情はさっきみたいに悲しそうではなかった。逆に私のほうが何だか悲しい気分になっちゃって、損した気分だった。
「じゃあ一番樹に行ったらお化け出ちゃう? おばあちゃんの」
私はおばあちゃんがどんな人なのかに興味があった。さすがにお化けには会いたくなかったけど、もっとおばあちゃんについて話が聞きたいと思っていた。しかし、お母さんはどこか困ったような表情で、答えを探しているようだった。
「うーん。お化けは出ないかなあ。だって……うーん。うまく言えないんだけど、おばあちゃんの魂はおばあちゃんの中にあるから」
当時の私にはお母さんの言っていることがよく分からなかった。人は死んじゃったらお化けになる。それは体から魂が出ちゃうからじゃないの? おばあちゃんは死んでも魂が外に出ない人なの? じゃあそもそも何で普通の人は死んだら魂が体から出ちゃうんだろう?
「いや、むしろ出るのかな? うーん、よく分からない」
お母さんにも分からないことは、お父さんに聞こうと思った。だけど私はその後ご飯とか勉強とかで忘れちゃって、結局お父さんには聞かなかった気がする。
「メイエス――、リーエン――、レレリエン――、ア、オーエン――」
ふと顔を上げると、一番樹がだいぶ大きく見えるところまで近付いていた。
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