第4話
一番樹。草木の乏しいこの辺りで唯一と言っていい、新緑を湛えた大木。それは本当に大きくて、本当に静かだった。一番樹の麓に来たのが久しぶりだからか、私は思わず息を呑んだ。しばらく見上げた後、私は手提げ袋からいつもの小さいじょうろを取り出した。
「おばあちゃん、芽ぐだよ。久し振りだね。お水、汲んでくるね」
一番樹はおばあちゃんのお墓だってお母さんは言ってた。でも私は、違うと思う。何となくだけど、一番樹は私のおばあちゃんなんだと思う。こんなことを言ったら笑われちゃうと思うけど、これまで私は一番樹そのものをおばあちゃんだと思って接してきた。
「よい、しょ」
じょうろにはあまりお水が入らないから、いつも何度も往復して水をあげている。これだけ大きな樹だとあんまり意味はないと思うけど、意味があるとかないとかそういう問題じゃないと思った。私はおばあちゃんにお水をあげるつもりで、何度も何度もじょうろを持って水場を往復した。おばあちゃんがどんな顔をしていたのか知らないけど、きっと「おいしい」って言って笑ってくれてると思った。私がお母さんにお料理を作った時みたいに。
「おい」
急に声を掛けられて、私はビクッと肩を跳ねさせた。振り返ると、そこには何度か見たことのある顔ぶれが並んでいた。一番樹の麓から少し離れた集落の子供たちだった。
「……こんにちわ」
私は先程まで歌を口ずさんでいたからか、少し乾いた喉からはとっさの返事がすんなりと出た。人と話すのは随分と久しぶりだと思う。この一番樹に来た時くらいしか、人に遭遇することがなかったもの。だけど、心の中はあんまり晴れやかなものではなかった。
「帰れよ」
子供たちのうち、呼び掛けてきた男の子がそう告げた。私は目元がずっしり重くなるのを感じた。男の子の顔は直視できず、その後ろに並ぶ他の子たちの顔を見た。しかし、皆表情は同じで、汚いものを見るような視線が私を射抜いていた。
「一生こっちに来んなって言っただろ!」
今度は別の男の子が怒鳴ってきた。私はうつむくしかなく、手に持っていたじょうろを力なく落としてしまった。その水音に反応して、女の子の一人がほんの小さな悲鳴を上げた。男の子たちが女の子の前に並ぶと、口々に「かーえーれ!」と叫び出す。私はとうとう泣き出して、その場にうずくまってしまった。
「泣きゃいいってもんじゃないんだよ!」
男の子たちは私に汚い言葉を投げつけるのをやめなかった。女の子がおずおずと「もうやめようよ」と言っていたけど、男の子たちはますますエスカレートしていった。
「今すぐ帰らないと、こうだぞ!」
最初につっかかってきた男の子が、私のところまで歩いてきて足を上げた。穴だらけで薄汚れた靴の下に、私のじょうろがあった。男の子の仕草は、じょうろを踏んで壊そうとしていることを意味していた。それだけは、絶対に、絶対に駄目だった。
「やめて!!」
私は慌てて叫ぶと、男の子は驚いた拍子に後ろに倒れて尻もちをついた。少し怯えも混ざっていたのか、立ち上がらずにじりじりと後ろへ下がった。その姿を見て、私は急いでじょうろを拾い上げ水しぶきを撒き散らしながら走り去った。男の子たちが後ろで何か言っているのが聞こえたけど、私は聞かないようにした。
「はあ、はあ、はあ……」
水場からだいぶ離れたところで、私は足を止めた。じょうろの水はもうからっぽだったけど、走り疲れたのでひとまず一番樹に戻ることにした。顔は涙と泥でぐちゃぐちゃだと思う。汗にまみれた手の甲で顔を拭うと、鼻水が手についた。すごく汚かった。
「うぅ……ぐ……」
私は情けなくなり、惨めになり、悲しくなり、また泣きたくなった。でもここで泣いていても、お母さんは抱きしめてくれない。お父さんは慰めてくれない。私はもう一度腕で顔を拭うと、ふらふらと歩き出した。
「おばあちゃん、ごめんね。お水こぼしちゃった」
一番樹に戻ると、私は大きな根の上に腰を下ろした。さっき思いっきり走ったからか、顔も足もかんかんに熱くなっていた。一番樹の真下は大きな日陰になっていて涼しく、根もひんやりとしていてとても心地よかった。
「おばあちゃんはひんやりだね」
私はホームの住人。ホームには昔それなりに人が住んでいたけど、もう私とお父さん以外に人は住んでない。ホームには元々悪い噂がいっぱい立っていたらしい。お母さんが言ってた。誰もいなくなっちゃった今では、私がホームの代わりに悪者にされてる。皆、本当に好き勝手なこと言ってる。ホームにだけ草木がいっぱい生えてるのも気味悪がってる。私が頑張ってお水をあげているからなのに。皆だってちゃんとお水を上げれば、この辺もたぶん絶対緑でいっぱいになるのに。皆、都合の悪いことを全部私やホームのせいにしてる。勝手に水場を使っちゃってるのは悪いのかもしれないけど。いや、でも水は誰かのものじゃないと思う。皆で分かち合うものだよ。私は皆が言うようないけない子じゃないと思う。ひどいよ。何で私ばっかりいじめるの。何で……。
色々なことを思い出して気分が沈んでいった私は、鼻をぐずつかせながら、ゆっくりと意識を落としていった。走った疲れもあったし、ここまで歩いてくるだけでも結構私には大変だったと思う。肩をもたれかけさせると、一番樹のひんやりとした肌触りが伝わってきて、私は次第に眠りについていた。おばあちゃんの膝の上で、優しい子守唄を聴いているようだった。とても、とても気持ちが良かった。
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