第66話

「ウー、ウー」



 数十年に一度、伊那倭は忘れることもなく亥馬岳周辺の街へと訪れ、儀式に適した男女を品定めする。そして桐の祠へお参りをし、選んだ男女を儀式へと誘う準備をする。


「この山も変わらないな。変な鳥の鳴き声も。やけに小さなナナフシも」


 人気のない山道を早足に歩きながら、虚空へ向かって伊那倭は呟いた。いや、姿形は見えなくても、伊那倭が語り掛ける相手はそこにいる。


 ――そうね。あ、でも枝虫はやっぱりちょっとだけ大きくなってない?


 夢の八千代が言う「枝虫」はナナフシのことだ。亥馬岳には昔からナナフシが生息しているが、亥馬岳のナナフシは他所のものと違い、成虫でも楊枝ほどの大きさしかなかった。


「そうか? まあいい。今夜は大切な贖罪の日だ。気を引き締めて取り掛かるぞ。八千代も手伝ってくれ」


 夢の八千代は小さく「うん」と返事をすると、伊那倭の足元の草葉を少しずつ薙ぎ払っていった。


 普段人通りの少ない亥馬岳は草木の茂る獣道ばかりで、ここに戻ってくるたびに簡単な道を作る必要があった。人が素手で道を拓こうものなら1日と持たずに手がかぶれ、あかぎれ、擦り傷に覆われるだろうが、身体を持たない夢の八千代の力を借りればそういった心配もいらなかった。


 実の妹と同様に接し信頼する夢の八千代の存在は、伊那倭にとってなくてはならないものだった。そんな伊那倭さからこそ、夢の八千代の返事に耳ざとく反応した。


「どうした?」


 もし夢の八千代に顔があったなら、愛想笑いに陰りを見せていただろう。伊那倭にはそう感じられた。確かに、夢の八千代の返事はあまり明るいものではなかった。


 ――ううん。


 夢の八千代がそう返すと、少しの間を置いて、伊那倭は「そうか」と言った。それ以上は聞き咎めることもなかった。




 夢の八千代は、伊那倭を実の兄として慕っていた。最愛の親友である現の八千代に向ける好意とは違うものの、伊那倭の「心」をいつだって案じていた。


 伊那倭は自身の行為を「贖罪」と言っていた。実の妹の命を、間接的であるにしろ奪ってしなったことに対する神罰。それが自らの不死性を与えていると伊那倭は考えていた。そして、遠い世界に旅立った現の八千代の魂が求めように「桐の儀式」を行い続ければ、いずれは現の八千代の魂も報われ、そうして初めて罪は償われる。そう信じて疑わなかった。


 しかし夢の八千代は現の八千代から聞き、全てを知っていた。確かにこれは神罰であるかもしれないが、もしそうだとしても、いくら儀式を繰り返したところで伊那倭がこの世界から解放されることはないだろうことを。恐らくは、永遠に、この世界を生き続けるのだ。




『――あんちゃんには言っちゃ駄目だよ?』


『うん』


『私、あんちゃんと血が繋がってないみたいなんだ』


『え?』


『私はね、伊那倭が生んだ、幻なの』


『あんちゃんが? どういうこと?』


『ううん、あんちゃんじゃない。伊那倭。あの山に眠る、神様、かな?』


『あんちゃんと同じ名前……?』


『そう。いや、ホントは違う。あんちゃんには元々、別の名があったの。だけど伊那倭に取り上げられて、代わりに伊那倭の名をもらった』


『そうなんだ……』


『そして、亡くなった親がいなくても生きていけるための才と、……私』


『あなたが……?』


『そう。寂しさに沈むあんちゃんを見かねて、伊那倭は私を創り出した。本当は存在してはいけない、幻を。そしてその代わりに、あんちゃんは1つの契りを負った』


『……』


『私と共に生きること。そしてそれを破れば、終わることのない寂しさを背負うこと。……私が死んで、あんちゃんが年を取らなくなったのは、たぶん、そういうことだと思う』


『そんな……』


『でも、あんちゃんにはあなたがいる。私も、今は会えないけど……ううん』


『ねえ』


『え? なあに?』


『私は、何でここにいるの?』


『え……?』


『私も、その契りによって生まれた……あなたと同じように神様が創ってくれたものなの?』


『……うん、きっとそうだよ』


『本当?』


『うん……』




 伊那倭の「贖罪」は、終わることがない。



 神の伊那倭と交わした契約を違え、永遠の孤独を背負わされた伊那倭にできることは、ただ、終わりを信じて生き続けるだけだった。


 年を取ることはない。死ぬこともない。世界が終わりただ1人取り残されようとも、伊那倭は償い続けるしかない。



 夢の八千代は、儀式を繰り返すことを「贖罪」と語る伊那倭を見て、胸が苦しくてたまらなかった。



 それでも黙って助けようと思った。この世界にただ1人取り残された伊那倭にずっと寄り添っていられるのは、他でもない自分にしか出来ないことだから。



 自分の正体は分からない。だけど、これが自分の役目なのだと思った。

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