第65話

 ――私は、あなたと違って、この世界に生まれなかった。




 夢の八千代が打ち出したその文章は、重く、切なく、そして悲しみを帯びたものであるように感じた。ただ、私にはその意味が即座に理解できなかった。


 これまで聞いたこともない、「私は」「生まれなかった」という告白。生まれなかったのなら、現に今、私の目の前で球体に文字を浮かび上がらせているの夢の八千代は、どうして存在するのだろう。


 私が疑問を抱えながら吾朗に目をやると、吾朗はじっと球体を見つめ、悲しげな面持ちで口をつぐんでいた。吾朗は、何を知っているのだろう。夢の八千代が現れることを予見していたのは何故だろう。分からないことばかりだ。


 すると、球体は更に文字を綴り、自らの過去を語り始めた――。




『八千代……お前を信じてたのに……信じて……』


『ごめんなさ……』




 あれは八千代の企てで伊那倭と代志子が桐の祠の儀式に臨んだ直後のこと。代志子が消え、伊那倭は気が動転したあまり、八千代を責めて咎めた。


 結果は知っての通り、八千代が足を滑らせ、崖に転落した。ほぼ即死だった。しかし、何故か既に八千代は魂の一部が未来、つまりここへ飛ばされていたため、身体を失ってもなお未来に存在し続けた。




「八千代! 八千代ォォォォ!!!!」


 伊那倭の悲痛な叫びが山間をこだました。崖の下の小川へ降り、八千代の亡骸を見付けた伊那倭は、大粒の涙を流しながら膝をついて天を仰いだ。


 愛するものを同時に2人も亡くしたその喪失感は、伊那倭にかつてない絶望を与えた。


(せめて……両親の眠る……無縁墓へ連れて行こう……)


 そう思い、八千代の亡骸に手を伸ばそうとした伊那倭の耳に、ふと、おかしな音が鳴り響いた。本来この小川は流れもなく、水音もあまりない。風が吹き抜け小さな木々の擦れる音が辛うじてざわめく程度であった。


 それなのに、伊那倭の耳には、聞き覚えのある、この場に似つかわしくない音が鳴り響いていた。




 ――おぎゃっ、おぎゃっ、えぅー! おぎゃっ!




 自らの背から聞こえるその音……いや、声は、遠い昔、赤子だった八千代を負ぶさっていた時に聞いたものだった。


『俺が死ぬまで面倒見るからな……八千代』


 あの時、伊那倭は確かにそう呟いたことを思い出した。


 ゾッとして振り返るも、そこには赤子は愚か動物の姿さえ見当たらなかった。


 にもかかわらず、その声は伊那倭の背からずっと鳴り響いていた。



 ――おぎゃー! えうー! おぎゃっ! おぎゃっ!



 身震いし、腰を抜かし、何とか立ち上がった伊那倭は這い這いになってその場を離れた。必死に、逃げるように。静かな小川に残ったのは、懺悔の面持ちで固まった、八千代の小さな遺体だけだった。




 伊那倭は巳回家を捨て、巳子の街を去った。


 自分の罪から目を背けるために、自分の咎から身を逃すために。


 だが、何も変わらなかった。



 ――あんちゃん、どうしたの?



 伊那倭の耳に響く、懐かしい声。



 ――あんちゃん、ね、私夢を見てたんだ。



 自分のせいで命を落としてしまった、妹の声。



 ――ね、あんちゃん、聞いてる?



 年月を経るに連れて、赤子から乳幼児、乳幼児から児童へと、声も成長していった。



 その声は、発する者の姿もなく、時には背後から、時には脇から、時には眼前から聞こえてくるのであった。



「許してくれ……八千代……」



 伊那倭が思わずそう呟くと、道行く周囲の人々は怪訝な目で一瞥し、黙ってその場を離れていった。



 ――許す? 何を?



 無垢な声が、伊那倭の心を蝕んでいった。これを、自身の罪への咎と思った。


 その罪を拭えるならば、どんなことでもしようと思った。



 ――ねえ、聞いて。夢の中にね、もう1人の私がいるの。夢の八千代。



 その時だった。伊那倭は全てを悟った。


「八千代? 今なんて?」


 この八千代こそが、かつて妹の言っていた夢の八千代であること。


 そして、この八千代が夢で会っている相手こそ、過去の八千代であること。


 それから伊那倭が過去の改変を思い付くにはさほど時間を要しなかった。




 肉体を持たないこの新たな八千代、すなわち夢の八千代は、伊那倭に話し掛ける以外にも、物を少しだけ動かす力があった。


 妖かし。当時の言葉では、そう言い表すのが的確だった。


 八千代が化けたものか、または自分への神罰が生んだものか。


 いずれにしても、この姿形のない妖かしは、自分に敵意もなく、むしろ好意を寄せ、しかも目に見えない力を持っている。便利な存在だった。


 そう気付いてからは当初抱いていた恐怖心も消え、次第に実の妹と同様に接するようになった。




 夢の八千代は、幸せだった。兄に愛され、夢で親友と語らい、地に囚われるような身体もなく、何不自由なく過ごした。


 夢の八千代と八千代は、生きる時間こそ違えど、夢で会う上では同い年だった。


 赤子の夢の八千代は赤子の八千代と夢で会い、思春期を迎えた夢の八千代は

同じく思春期を迎えた八千代と夢で会い、日頃のうっぷん、兄への想い等、他人には話せないようなことを語り尽くした。


 夢の八千代にとって、八千代は親友であり、姉妹であり、最愛の人であった。


 だから、兄である伊那倭との約束より、八千代との約束を優先してしまった。


『ねえ、頼み事があるのだけれど……』


『うん、何?』


『申渡で最も大きい樹の根本、日の昇る方に、書を埋めるわ。あんちゃんに気付かれないように、掘り出して読んで欲しいの』


 桐の祠について一切の情報を八千代に与えることを禁じられた夢の八千代は、八千代の指示で桐の祠の本を読み、あくまでお伽話として、八千代に内容を話してしまった。


 少し後ろめたい気もしたが、何より八千代の願いを叶えたかった。


 しかしそれが、最悪の結果を引き起こしてしまった。




 八千代の肉体的死。




 未来へ飛ばされた八千代と夢で会って事の顛末を知った夢の八千代は、全てを伊那倭に白状した。


 伊那倭は驚き、悲しみ、そして夢の八千代を慰めた。


 伊那倭は約束を破った夢の八千代を咎めることが出来なかった。




「運命は、変えられないのだな……」




 そう呟いた伊那倭の寂しそうな顔を、夢の八千代はいつまでも忘れなかった。


 その横顔は、皺1つない、自分が生まれた時と何ら変わらない、兄の顔だった。


 伊那倭は、儀式の日から、老いが止まっていた。

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